第一章 畳まれた毛布
肩口を押さえる重みが、リエッタを浅い眠りから作業台の上へ引き戻した。
伏せた頬の下で、紙がかすかに鳴った。顔を上げると、細い銀線を何本も引いた設計図に、髪が一筋貼りついている。窓から差す朝日はまだ低く、工房の床を斜めに切っていた。
肩には、灰色の毛布が掛かっていた。
昨夜、母屋へ取りに戻った覚えはない。眠るつもりもなかった。導晶の向きを一つ試したら休もうと思い、その次は刻印板の溝が気になって、気づけば朝になっていただけだ。
リエッタは毛布の端を持ち上げた。夜の冷えはもう残っていない。その代わり、乾かした薬草に似た匂いが、ごく薄く染みている。母屋の収納箱に入れていたときの匂いだった。
「また見つかったなあ」
誰にともなく言い、椅子の背にもたれる。首の後ろがこわばっている。両腕を上げて伸びをすると、肘が部品皿に触れた。
落ちる、と思った皿は落ちなかった。普段なら作業台の端にあるはずのそれが、指一本ぶん内側へ寄せられている。鑢は目の粗いものから革箱に並び、床へ転がした記憶のある留め具も、浅い木皿に集められていた。
リエッタは一番細い鑢をつまんだ。
柄に付いた金属粉は拭かれていない。アルシアは、どれが途中の作業に要るものかまでは触らず、危ないものだけを片づけたらしい。
工房の扉の向こうから、硬いものを刻む音がした。一定の間隔で四度。止まり、今度は鍋の蓋が鳴る。
母屋でアルシアが朝食を作っている。
毛布を掛けたのも、たぶん彼女だ。命紬で繋がれた相手に倒れられれば、自分の命まで危うくなる。世話を焼くのは義務のうちだと考えれば、胸の奥に引っかかったものへ名前を付けずに済んだ。
リエッタは毛布を畳んだ。長い辺を重ねたつもりが、片側だけ指の幅ほど余った。引っ張って直すと今度は反対側がずれる。三度目で諦め、ずれた角を内側へ折り込んだ。
作業台に残された装置は、手のひらより少し大きい。二つの導晶を銀線で繋ぎ、一方から流した魔力を、もう一方で受けるための試験器だった。昨夜の最後に焦げた細線が、黒い睫毛のように刻印板から浮いている。
その隣の記録紙には、失敗を示す斜線が六つ並んでいた。
七つ目を書く前に、母屋から声が飛んだ。
「起きたなら来い」
「起きたよ。今、毛布をきれいに畳んでるところ」
短い間があった。
「なら、もう来られるな」
見てもいないのに見抜かれている。
リエッタは笑い、失敗作へ布を掛けた。毛布を抱えて立ち上がったところで、足の裏が一瞬だけ頼りなくなる。作業台へ手をつくほどではない。けれど工房と母屋を繋ぐ三段の石段を下りるとき、いつもより慎重に踵を置いた。
朝の空気は冷たかった。夜露の残る花壇では、青い蕾がいくつか、まだ閉じている。土の表面は均され、細い支柱が一本増えていた。昨日、茎が傾いていた株だ。アルシアは何も言わずに直したらしい。
母屋の扉を開けると、焼いたパンと香草の匂いがした。
アルシアは食卓に二つ目の皿を置くところだった。深い青の髪を低い位置で結び、黒い上着の袖だけを肘まで折っている。こちらを見た銀灰の目が、まずリエッタの顔、それから抱えた毛布へ移った。
「おはよう」
「座れ」
「挨拶より先に命令が来たね」
「おはよう。座れ」
「はい」
リエッタが椅子を引くと、アルシアは向かいへ座らず、そばまで来た。
「手」
差し出した右手を、冷たい指が取る。アルシアの親指が手首の内側へ触れた。脈を数えるより長く、五つ、六つと呼吸が過ぎる。
触れた場所から熱が入るわけではない。けれど胸の奥、壊れた魔炉の周りを流れるものが、その指先へ向かってわずかに輪郭を持った。細い水路を、上流から確かめられているような感覚だった。
アルシアの眉間に浅い線が寄った。
「減っている」
「昨日、少し多めに使ったから」
「少し」
「小型灯ひとつ半くらい」
「二つだ」
「見てたの?」
「回収箱に導晶が二つあった」
目を離した間のことまで、物の位置から拾われる。リエッタは空いている左手で白髪を耳へ掛けた。
「今日は細い線の試験だけにするよ。火花が出るようなものは触らない」
「朝食のあとだ」
「もちろん」
「全部食べたあとだ」
「もちろん、の範囲が狭かったかな」
アルシアは答えず、リエッタの手首から指を離した。そのまま椅子の背へ掛けてあった布を取り、リエッタの頬を一度こする。
ざらりとした感触がして、布に黒い粉が付いた。
「刻印墨」
「顔にも設計図を描いてた?」
「寝ていた」
「そこは知ってる」
布を受け取ろうとしたが、アルシアは先に流しへ持っていった。水差しから細く水を落とし、墨を洗っている。リエッタは毛布を膝へ置いて、その背を見た。
肩口に、銀色の糸くずが一本付いていた。
工房で拾ったものだろう。教えようとして、やめる。代わりにパンをちぎると、アルシアが振り返った。
「スープも」
「食べるよ」
「冷める」
言葉は硬いのに、リエッタの皿だけ、鍋の底からすくった豆が多かった。
*
食卓は、四人で囲めば少し窮屈になる大きさだった。
今は二人ぶんの皿が向かい合い、湯気の間に空いた場所がある。
窓側には三つ目の椅子が置かれたままだった。背の高い人が使っていたため、座面がほかの二脚よりわずかに低く沈んでいる。朝日が背板の傷をなぞっていた。
リエッタはスープへ伸ばしかけた肘を引いた。椅子へぶつかる距離ではない。それでも身体が覚えている。そこに誰かが座り、長い脚を持て余していた頃の避け方を。
食器棚の端には、青い縁の杯が一つ伏せてあった。
アルバスは熱い茶が苦手で、いつも半分ほど冷ましてから飲んだ。杯の取っ手に小さな欠けができても、指がちょうど収まると言って替えなかった。
五年使われていない杯の周りだけ、棚板の色が濃い。
「おかわりは」
アルシアの声に、リエッタは自分の皿を見た。いつの間にか空になっている。
「もらう」
差し出すと、アルシアはすぐに受け取った。鍋へ向けた横顔はいつもと変わらない。食卓に三つ目の椅子があることも、棚に一つ多い杯があることも、二人はもう説明しなかった。
説明しないまま残しておけるものが、この家にはいくつもあった。
リエッタは膝の毛布を撫でた。端のずれた畳み方が気になり、指先だけで角を探す。
「これ、ありがとう」
アルシアの手が、鍋の上で止まった。
「工房に置いてあったものを使っただけだ」
「掛けてくれたことのほう」
返ってきた皿が、リエッタの前へ置かれる。豆がまた多い。
「風邪をひく」
「うん」
「作業台で寝るな」
「それは努力目標にしてもいい?」
「駄目だ」
リエッタは笑った。アルシアは笑わない。けれど、ずれた毛布を膝から取ると、両端を揃えて畳み直した。折り目を手のひらで押し、三つ目の椅子ではなく、自分の椅子の背へ掛ける。
その手つきがあまりに慣れていて、リエッタは二杯目のスープへ目を落とした。
「今日はギルドへ行くの?」
「昼に」
「依頼?」
「確認がある」
それ以上、アルシアは続けなかった。リエッタも聞かなかった。冒険者の仕事には、依頼人の事情を家へ持ち込めないこともある。聞かずにいるのは、相手の領分を守ることだ。そう思えば、わずかに伏せられた視線を追わずに済む。
食べ終えると、アルシアは皿を重ねた。
リエッタが一枚取ろうとすると、手の甲を指で押し返される。
「休め」
「座って食べたから、もう休んだよ」
「あれは食事だ」
「分類が細かいなあ」
「工房へ戻るなら、昼まで魔力を使うな」
「さっきは細い線ならいいって」
「言ってない」
確かに言っていなかった。リエッタが勝手に宣言しただけだ。
「じゃあ、磨くだけ。魔力は流さない」
アルシアは濡れた皿を布で拭きながら、リエッタを見た。返事を待っている目だった。
「流しません」
「わかった」
ようやく通行を許されたらしい。
リエッタは椅子の背から毛布を取り、両腕で抱えた。今度は角がぴたりと揃っている。工房へ持ち帰る途中で崩さないよう、胸元へ引き寄せた。
三段の石段を上る前に振り返ると、アルシアは食卓の下へ置いた革鞄を引き上げるところだった。蓋の隙間に、白い紙の角が見えた。
目が合うより早く、扉が風で半分閉じた。
*
工房へ戻ったリエッタは、磨くだけ、という約束をしばらくのあいだ守った。
焦げた銀線を外し、刻印板の煤を布で落とす。細い溝へ研磨粉を入れ、木片で一方向に擦る。表面が均されるにつれ、昨夜は見えなかった傷が浮かんだ。導晶を留める爪の一つが、ほんのわずか内側へ傾いている。
「これか」
爪が導晶を圧迫し、流れを狭めていた。原因が見つかった瞬間、眠気が一段遠のく。
リエッタは小さな万力へ刻印板を固定した。爪を戻すには熱が要る。熱を加えれば試験ではない、加工だ。加工に魔力を使わなければ約束には触れない。
炭炉へ手を伸ばし、止めた。
アルシアが言いたかったのは、言葉の隙間を探して作業を続けろ、ということではない。
代わりに細い金槌を取り、爪の周りへ印だけ付ける。昼になったら直す場所を忘れないためだ。一打ちごとに澄んだ音が鳴り、工房の梁へ吸われた。
壁際の棚には、同じ形の試験器が五つ並んでいる。
どれも途中まではうまくいった。流れを二手へ分けることはできる。片方を細くすれば、もう片方へ多く回すこともできる。けれど、アルシアからリエッタへ流れ続けているものを止めようとすると、どこかが焼けた。模擬導晶でさえそうなる。生身で試すことはできない。
一方を切れば、もう一方へ反動が返る。
知らない者が図面だけ見れば、不出来な拘束具だと言うかもしれない。けれどその流れがなければ、リエッタの身体はやがて朝を迎えられなくなる。
アルバスの残した研究帳を開く。
革表紙の角は丸く擦れ、綴じ糸が一か所だけ新しい。リエッタが何度も開いた頁には、二人の間を渡る一本の線と、結び目を示す円が描かれていた。線の横にある父の文字は、途中から墨が薄い。
解除には、供給を止める前に代わりの流れを用意すること。
その先は、何度読んでも欠けている。
リエッタは余白へ小さな導晶を置いた。自分で書き足した迂回路は、紙の上ならきれいに繋がる。昨夜、七度目の試験を始めたのも、今度こそ焼き切れずに済む気がしたからだ。
細い鑢の柄にある傷を、親指でなぞった。
紙の上で足りないなら、流れを別の形にすればいい。
リエッタは作業台の下から、浅い箱を引き出した。中に入っているのは魔道具ではない。壊れた置き時計から外したゼンマイ、糸車の小さな滑車、重さの違う銅錘、何本かの丈夫な絹糸。魔力の流れを直接試せないとき、力の向きだけを確かめるための模型だった。
二つの滑車を板へ留める。左を供給側、右を受け取り側に見立て、絹糸を一周させた。左の軸へ巻いたゼンマイを解放すると、右の滑車も遅れて回り出す。
右側の抵抗を増やすため、銅錘を一つ吊るした。
回転が鈍る。左のゼンマイへ負荷が戻り、軸が低く軋んだ。
もう一つ錘を足す。
絹糸が張り、板の留め具が震える。受け取る側の動きは止まりかけても、供給する側のゼンマイはほどけようとする。逃げ場を失った力が、二つを結ぶ糸へ集まっていた。
リエッタは板へ顔を近づけた。ここまでは昨夜の試験器と同じだ。問題は、受け取る側を切り離した瞬間に起きる。
絹糸の途中へ、小さな刃を当てる。
切る前に、右の滑車を指で押さえた。魔力の模型にすぎない。これを身体の答えだとは思わない。それでも、刃を引く指へ力が入りにくかった。
「模型だよ」
自分に言い聞かせ、糸を切った。
銅錘が板へ落ちた。同時に左の滑車が逆向きへ跳ね、外れた絹糸がリエッタの手の甲を打つ。痛みより先に、ゼンマイの留め具が飛んだ。顔を逸らすと、留め具は後ろの棚へ当たり、床へ転がった。
供給側へ返る力が大きすぎる。
リエッタは手の甲に残った赤い筋をさすった。模型のゼンマイなら、留め具を強くすれば済む。けれどアルシアの魔脈を、交換できる金具のようには扱えない。
切断前にゼンマイを止めれば、右の滑車は錘を支えられず落ちる。先に右を別の動力へ繋げばいいが、その動力をまだ作れていない。
机上の二つの滑車が、急に遠く見えた。
リエッタは転がった留め具を拾い、変形がないことを確かめた。左の軸だけがわずかに曲がっている。指で回すと、同じ場所で小さく引っかかった。
記録紙に、昨夜の試験を示す七つ目の斜線を加えた。
失敗の理由も書く。切断時、供給側へ逆転。受け取り側の代替動力なし。緩衝だけでは不足。
字にすれば、次に試すべきことが見える。見えるものだけを順番に直すのが、リエッタの仕事だった。
命紬を解ければ、アルシアは常に魔力を削られずに済む。遠くの依頼を断る必要も、リエッタが作業台で眠るたび朝食前に残量を測る必要もない。
玄関から工房までの三段を、誰かの歩調に合わせて上る必要もなくなる。
そこで考えが止まった。
リエッタは研究帳を閉じた。留め金が机へ当たり、乾いた音を立てる。
問題は爪の角度だ。昨夜の失敗はそこにある。怖がって試験を遅らせたわけでも、成功の先を考えたくなかったわけでもない。慎重に、確実な手順を探しているだけだ。
「うん。そこだね」
口に出すと、説明は形を持った。
リエッタは新しい記録紙を引き寄せ、爪の角度を三通り書いた。一本目は狭すぎる。二本目は加工で歪む。三本目なら銀線への負荷を散らせるかもしれない。
四本目を引こうとして、ペン先が止まった。
魔力を使わずにできるのは、そこまでだった。
窓の外では日が高くなっている。花壇の青い蕾が一つ開き、石段の影が短くなっていた。アルシアが母屋を出る音は聞こえなかった。ギルドへ行くのは昼だと言っていたから、まだ家のどこかにいるはずだ。
声を掛ければ、たぶん茶を持ってくる。
そう思った途端、喉の乾きに気づいた。
工房の隅に置いた水差しは空だった。昨夜、自分で飲みきったらしい。底を覗いても、光が丸く映るだけだ。
リエッタは立ち上がった。椅子の背に畳んでおいた毛布は、もう崩れていない。指で角を確かめてから、工房を出た。
母屋の扉は開いていた。
中にアルシアの姿はない。流しには洗い終えた皿が伏せられ、壁の掛け金から外套が消えている。ギルドへ行くにはまだ早い気がしたが、薪置き場かもしれなかった。
「アルシア?」
返事はない。
卓上に、朝食のときにはなかった紙が置かれていた。
革鞄から見えた白い角を思い出す。四つ折りの書面には、リュネ冒険者ギルドの封が押されている。封蝋はすでに割られ、隣にはアルシアの黒い手袋が片方だけ載っていた。風に飛ばされないための重しにしたらしい。
見てよいものか迷ったのは、ほんの一呼吸だった。
書面の一番上に、アルシアの字で小さく「確認」とある。その下には、リエッタでも読めるよう、依頼の概要が大きな文字で記されていた。
エルドラ遺構、深部区画の再調査。
リエッタは椅子を引かず、立ったまま紙を開いた。
エルドラという地名は知っている。西の古い水路跡で、何度か遺物が出た。保存状態が悪く、動くものはほとんど残っていないと聞いていた。危険な区画は封鎖され、調査依頼も長く出ていない。
今回は、深部で新しい空洞が見つかったらしい。
崩落した壁の向こうに、未知の動力反応あり。
持続的な発光と周辺魔素の減少を確認。
古代の魔力生成遺物である可能性——。
その一文だけ、二度読んだ。
魔力を、生成する。
リエッタは紙の上の二文字を指で押さえた。
魔道具は、何もないところから力を生まない。灯具が光るなら導晶に蓄えた魔力を使う。荷車を押すなら術者の魔力か、坂を下る車輪の動きが要る。入力を隠した道具はあっても、入力そのものがない道具をリエッタは見たことがなかった。
依頼書にある「生成」は、調査者が仕組みを説明できなかったために置いた言葉かもしれない。
その下の記録へ目を移す。
持続的な発光。周辺魔素の減少。停止方法は不明。
周りの魔素が減っているなら、それを吸い上げているだけとも考えられる。もしそうなら、壊れた魔炉を持つリエッタには使えない。魔素を集めても、自分の力へ変える器官がないのだから。
だが、集めた魔素を装置の中で変換できるなら。
あるいは、誰の魔炉も通さず、別の何かを魔力へ変えているなら。
可能性の枝が、作業台へ銀線を広げるときのように次々と伸びた。どれもまだ繋がってはいない。けれど、研究帳の欠けた先に置ける部品が、初めて形を持った。
依頼文は短すぎて、仕組みまでは断言できない。それでも、誰かが蓄えた導晶を消費する既存の道具とは違う反応が、遺構の奥に残っている。
そんなものが本当にあるなら、研究帳の欠けた頁を埋められるかもしれない。
胸の奥で、命紬の流れが普段と同じ温度を保っていた。
遺物が工房まで運ばれてくるわけではない。
確かめるなら、エルドラへ行くことになる。西の街道を越え、封鎖された水路へ入り、動いているかもしれない古代の仕組みへ手を触れる。距離が開けば命紬の流れは細くなる。アルシアだけを先へ行かせて、リエッタが安全な家で待つ、という分け方はできない。
机の上でなら、焦げた線を外してやり直せる。遺構では、折れた足場も崩れた天井も、こちらが考え終わるまで待ってはくれない。
それでも、作業台の失敗作を眺め続けているだけでは、七本目の斜線の先へ進めなかった。
リエッタは依頼書の余白へ、まだ載っていないものを見た。持ち出す工具。予備の導晶。アルバスの研究帳。留守にする工房の窓へ掛ける布。母屋の戸締まり。食卓の三つ目の椅子は、帰ってくるまで同じ場所で朝日を受ける。
旅へ出る支度を考えている自分に気づき、指が止まった。
行くと決めたわけではない。遺物が本物だと決まったわけでもない。
紙一枚が、工房と母屋だけで閉じていた朝の外側へ、道を一本伸ばしていた。
アルシアは、この文を読んだ。
読んだうえで依頼書を持ち帰り、リエッタに見える場所へ置いた。
指先が紙の角をつかんだ。
これがあれば、繋がりを解けるかもしれない。アルシアが削られずに済む。危険な依頼を選ぶとき、家に残したリエッタの残量を数えなくてよくなる。
行きたい場所へ、一人で行ける。
紙が小さく鳴った。
リエッタは手を緩めた。依頼書の下半分には、同行可能人数、想定日数、危険度が並んでいる。さらに下、紙を光へ透かしたところに、封印とは別の模様が沈んでいた。
星が一つ、細い線の輪の中に沈んでいる。
古い支部印か、依頼の分類を示す印だろうか。リエッタは窓へ紙をかざし、線の重なりを目で追った。星から伸びた線が、輪の外周へ触れる直前で途切れている。
ただの透かしではない。何かの回路に似ている。
調べたいという気持ちが、遅れて指先へ届いた。
そのとき、庭の向こうで薪が割れる音がした。
アルシアは家を出たのではない。裏の薪置き場にいる。
リエッタは依頼書を卓上へ戻した。すぐに呼びに行けばいい。これは何なのか、なぜ持ち帰ったのか、聞けばいい。
紙から手を離す。
白い角に、爪で押した斜めの折り目が残っていた。
第二章 持ち帰られた依頼書
斧を振り下ろすたびに、白い木口が乾いた音を返した。
アルシアは薪を割っていた。刃の入る角度を変えないよう、節を避け、まっすぐな目を選んで置く。一つ割るごとに、割れた片を左手側へ積む。数を数える癖は、危険な森で身についたものだった。何本目まで割ったか覚えていれば、手が止まったとき、自分の集中がどこで切れたか分かる。
十七本目で、母屋の扉が鳴った。
振り返らなくても、足音で分かる。踵から置く軽い歩き方。石段を三つ下りるときだけ慎重になる。今朝、残量が減っていた身体だ。
朝、手首の内側へ指を当てたとき、いつもより流れが浅かった。脈のことではない。命紬でこちらから渡している魔力が、上流で細っているのが、指先へ返ってくる。水路の水量を、堰のそばで測るのに似ていた。小型灯二つぶん。リエッタは「少し」と言い張ったが、回収箱の導晶が数を裏切っていた。あの人は自分の消耗にだけ、目盛りが荒い。
減っていれば、アルシアの側が余分に流す。流せば、アルシアの回復が遅れる。その循環を、この五年、誰にも数えさせずに続けてきた。数えさせれば、リエッタが気に病む。気に病めば、また笑ってごまかす。だから黙って、豆を多めにすくう。それで足りることにしていた。
アルシアは斧を薪台へ立てた。
母屋と工房を繋ぐ石段の下に、リエッタが立っていた。空の水差しを片手に提げ、白い髪を朝より無造作に耳へ掛けている。喉が渇いて水を汲みに出たのだろう。だが、その手は水場ではなく、こちらへ向いていた。
「割るなら言ってよ。運ぶくらいするのに」
「休んでいろと言った」
「薪運びは魔力を使わないよ」
「使う。腰を痛める」
リエッタは笑った。目より先に口元がゆるむ、いつもの笑い方だった。アルシアはその順番を、毎回、確かめてしまう。
水差しを井戸端へ置いて、リエッタは薪の山へ近づいた。割った片を一本手に取り、木口の匂いを嗅ぐ。それから、言おうか言うまいか迷う間を、半歩ぶんだけ置いた。
「テーブルの、見たよ」
アルシアは手袋の留め具に触れた。
依頼書のことだ。今朝、母屋の卓へ置いた。革鞄の中に入れたまま食事を出すこともできた。けれど、蓋の隙間から白い角が見えるように置き、食器を片づけるとき、リエッタの席から見える位置へずらした。見せるつもりで見せた。そうしておいて、自分から説明はしなかった。
「読んだのか」
「概要だけ。難しいところは大きい字で書いてあったから」
依頼を受ける者へ向けた要約の欄だ。危険度と日数の下に、調査対象の特徴が並んでいる。その中の一行を、リエッタは読んだはずだった。
古代の魔力生成遺物である可能性。
アルシアはその一文を、昨夜ギルドの掲示前で読んだ。読んだ瞬間、指先の温度が下がった気がした。刃を握りすぎたときの、あの引き攣る感覚に似ていた。
「あれ、本当なら」
リエッタが薪の片を両手で挟んだ。
「私の身体、変わるかもしれない」
言葉が軽い。工程を一息で説明するときの、あの弾む調子だ。魔力を作る仕組みがあるなら、命紬に頼らずに生きられるかもしれない。壊れた魔炉の代わりになるかもしれない。リエッタの頭の中では、もう銀線が何本も引かれているのだろう。
アルシアは、その先を一緒に描かなかった。
魔力を自分で得たリエッタは、供給を必要としない。供給がいらなければ、繋がっている理由もなくなる。同じ家にいる理由も、歩幅を合わせる理由も、朝ごとに残量を数える理由も。
割った薪が、左手側で低く崩れた。
「昼にギルドへ行く」
「うん」
「確認してからだ。噂と依頼書は違う」
「わかってる」
リエッタは薪の片を山へ戻した。角を、ほかの片と揃えて置く。その几帳面さが、朝、畳み直された毛布の手つきと同じで、アルシアは目を逸らした。
「昼まで、魔力は」
「流さない。磨くだけ。もう三回目だよ、その確認」
「四回目だ」
「数えてたの」
数えていた。何本目の薪かと同じように。
リエッタは水差しを拾い、井戸へ向かった。滑車の軋む音、桶の落ちる音、水の満ちる音。アルシアはその音が止むまで薪台のそばに立ち、それから斧を納屋へ戻した。
十七本で足りるはずだった。だが手は、あと三本割ってからでないと止まらなかった。
*
リュネの冒険者ギルド支部は、市場通りの外れにある古い石造りの建物だった。
アルシアは扉を押す前に、通りの両側を見た。荷馬車が二台、乾物屋の軒下に停まっている。物乞いの老人はいつもの角。見慣れない靴、見慣れない外套はない。確かめてから、中へ入った。
昼前の受付は空いていた。討伐帰りの二人組が精算を待ち、若い斥候が地図を広げている。アルシアは壁際の依頼票へは寄らず、奥のガルドの席へまっすぐ進んだ。
ガルド・ベルンは、太い腕を机に載せ、木札の束を仕分けていた。大柄で、灰色の短髪。左手の甲には古い傷が走っている。アルシアの影が机に落ちると、顔を上げた。
「来たか」
「確認に来た」
「座れ。立ったままの話は肩が凝る」
アルシアは椅子を引き、出入口が見える角度に座った。ガルドはその癖を見て、何も言わずに口の端だけ動かした。
「エルドラだな」
「深部の再調査。危険度が上がっている」
「上がってる。だが、依頼そのものは真っ当だ」ガルドは木札を一枚、机の中央へ滑らせた。「宮廷から流れてきた匿名依頼じゃない。うちの調査員が地熱の異常を報告して、支部が正式に立てた。西の水路跡の地面が、この時期に妙に温かい。井戸の水位も揺れてる」
「原因は」
「わからんから調査だ」ガルドは肩をすくめた。「昔の変換施設が、何かの拍子に動き出したのかもしれん。深部で発光と、周りの魔素が薄くなる現象が確認されてる。壁が魔力を乱反射するから、感知も通信も鈍る。中で一人になったら、外の仲間の居場所も掴めん」
壁が魔力を乱反射する。アルシアは、その一言を身体の内側で受け止めた。
命紬は距離で細る。結界の干渉でも細る。エルドラの石壁が魔力を乱すなら、遺構の中では、数十歩の距離でも供給が危うくなるかもしれない。リエッタを外に残して、自分だけ奥へ入る――その絵は、最初から成り立たなかった。
「深部までは、どのくらいだ」
「入口から下って、まる一日。上層の水路、中層の避難室、その先が変換核の区画だと図面にはある。ただし図面は三百年前のものだ。落盤で通路が変わってる可能性が高い」ガルドは指で机を二度叩いた。「守護機構が残ってるという話もある。動くとは限らんが、動いたら厄介だ。魔道具の類は、止め方を知らずに触ると人を選ばん」
「止め方」
「そこを見抜けるやつがいれば、話は別だがな」
ガルドは木札の束の下から、擦り切れた報告書を一枚引き出した。
「先月、隣街の三人組が上層まで入った。腕は悪くない連中だ。だが、中層の手前で引き返してる。理由がこれだ」指が一行をなぞる。「『灯が理由なく消える。導晶の残量が、使ってもいないのに減る』。三人とも、頭痛と寒気で動けなくなって撤退した」
アルシアは報告書の文字を追った。魔素が薄い場所では、魔炉の弱い者から先に堪える。壁が魔力を乱反射し、周囲の魔素まで薄くなっているなら、遺構の奥は、健康な冒険者にとってさえ、緩やかに力を吸われる場所だ。
リエッタなら、どうなる。
自分で魔力を作れない身体で、魔素の薄い区画へ入る。命紬の流れは石壁に乱される。供給が細れば、頭痛と寒気では済まない。アルシアの喉の奥が、氷を含んだように締まった。
「地熱のほうは」
「西の水路跡の一帯が、雪解けでもないのに温い。井戸の水位が日によって上下する。地面の下で、何かが熱を出したり吸ったりしてる」ガルドは報告書を戻した。「昔の変換施設が動いてるなら、それ自体が金になる。だが、動いてる機械の腹に手を突っ込むのと、止まった機械を調べるのは、危険がまるで違う」
「止まっていない、ということか」
「少なくとも、完全には眠ってない」ガルドは頷いた。「だから深部は二人以上、と条件を付けた。単独許可は出さん。一人で奥に落ちたら、誰も気づかずに終わる」
単独では入れない。ギルドの規定が、アルシアの逃げ道を一つ塞いだ。
ガルドの視線が、一瞬だけアルシアの後ろへ流れた。まるで、そこに誰かがいるかのように。アルシアの隣に、白い髪の魔道具師を置いて見ているのだと分かった。
アルシアは机の上の木札へ目を落とした。
「相棒は連れてくのか」
「まだ決めていない」
嘘ではなかった。決めていない。決めたくなかった。
アルシアは、家から持って来た依頼書を、机へ出した。今朝、母屋の卓に置いていた、あの紙だ。ギルドの封蝋はすでに割られ、隅にはアルシア自身の「確認」の走り書きがある。ガルドは、それを覗き込んだ。危険度、想定日数、同行可能人数。要約の欄に、あの一行がある。古代の魔力生成遺物である可能性。
「一つ、聞いていいか」
ガルドの声が、少しだけ低くなった。冗談を言うときの大声とは違う。
「アルバスの遺したもんで、この手の遺物を扱った記録はあるか」
アルシアの指が、依頼書の角で止まった。
父の名を、ガルドが口にした。アルバスがリュネへ来る前、宮廷にいたことは、この街の年長者なら知っている。だが、ガルドの声には、ただの噂を確かめる響きとは別のものがあった。何かを知っていて、それを今は言わない者の慎重さだった。
「父は薬師だった」アルシアは言った。「魔道具の研究帳は、リエッタが持っている」
「そうか」
ガルドはそれ以上、踏み込まなかった。踏み込まないことを選んだのが分かる引き方だった。彼は木札を束へ戻す。机の中央には、アルシアが持って来た依頼書だけが、残った。
「受けるなら、明日でいい。準備は要る。地熱の場所は逃げん」
アルシアは依頼書へ手を伸ばした。
紙を摘まむ指が、わずかに震えた。
握力が足りないわけではない。斧を三本余分に割れる手だ。それでも、この一枚を持ち上げる動作にだけ、身体が抵抗した。
この紙の先に、リエッタを自由にするものがあるかもしれない。壊れた魔炉の代わりが。命紬を解く鍵が。リエッタが、誰にも繋がれずに朝を迎えられる仕組みが。
それを取りに行くのは、自分の手だ。
自分の手で、繋がりを断つ道具を持ち帰る。
アルシアは依頼書を折り目に沿って畳んだ。リエッタが端に付けた、爪の折り目があった。同じ紙を、同じ場所で、二人が別々に握っていた。
「明日、正式に受ける」
「聞いた」ガルドは頷いた。それから、去りかけたアルシアの背へ、一言だけ足した。「アルシア。助けに行くのと、二人まとめて遭難するのは別だ。準備は、愛情の反対じゃないぞ」
アルシアは足を止めなかった。だが、扉を押す手が、来たときより一拍遅れた。
*
家に戻ると、工房の窓から灯りが漏れていた。
日はまだ落ちきっていない。西の空が濃い橙に沈み、花壇の青い花はすべて閉じかけていた。アルシアは外套の裾から夜露の匂いを払い、母屋ではなく工房の扉を先に開けた。
リエッタは作業台にいた。約束どおり、炭炉には火が入っていない。刻印板を万力で固定し、細い金槌で爪の周りを叩いている。魔力は流していない。印を付けているだけだ。振り向いたリエッタの頬に、また刻印墨がついていた。
「おかえり。どうだった」
「正式な依頼だ。宮廷絡みじゃない」
「よかった」
「深部は危ない。壁が魔力を乱す。中では命紬が細る」
リエッタの手が、金槌を置いた。
道具を置いて、両手を空ける。それが、この人が本当のことを言うときの前触れだと、アルシアは知っている。何度も見た。
「私、行くよ」
来た、と思った。
明るい声だった。旅の危険を、遺物への好奇心が上回っている声。アルシアの胸の奥で、朝から積んでいた薪が、また一つ崩れた。
リエッタは行きたがっている。魔力を生む遺物のところへ。自分を命紬から解き放つものへ。危険な深部へでも、そのためなら行く。それだけ、この繋がりから出たいのだ――
アルシアは、その解釈を止められなかった。止められないまま、言葉が硬くなった。
「一人で行く」
「え」
「お前は残れ。取ってくる。動くかどうかも分からない遺物のために、お前が危ない場所へ行く必要はない」
言い終える前から、その提案が成り立たないことを、アルシア自身が知っていた。
リエッタも、すぐに気づいた。笑いが消えた。目が細くならなかった。作り笑いのできない顔で、リエッタはアルシアを見た。
「アルシア。エルドラまで、歩いて四日か五日だよ」
「知っている」
「その間ずっと、私に魔力を送りながら歩くの? 着いたら、壁が乱反射する遺構の奥へ、私を家に残したまま入るの?」リエッタは指を一本立てた。「リュネからエルドラまでの距離で、命紬がもつと思う?」
もたない。
数百メートルの結界干渉でも危うい流れが、四日ぶんの距離に耐えるはずがなかった。アルシアが遺構へ着く前に、リュネで待つリエッタの供給は途切れる。数時間から数日で、リエッタの身体は止まる。
「一人で行く」という言葉は、リエッタを守る案ではなかった。リエッタを、死なせる案だった。
アルシアは分かっていて、それを口にした。分かっていて、自分だけが動く形を探した。危険を、自分の側へ寄せたかった。リエッタを、この件のどこにも立たせたくなかった。守るというより、消したかった。リエッタの人生から、この依頼ごと自分を。
「――すまない」
アルシアは、めったに使わない言葉を落とした。
リエッタは首を振った。怒ってはいなかった。ただ、真っ直ぐに見ていた。
「一緒に行こう。私が要るんだよ、これは」リエッタは万力の刻印板を指した。「守護機構が残ってるなら、止め方を読めるのは私。遺物が本物かどうか、変換器なのか蓄積器なのか、その場で見分けられるのも私。アルシアは私を守れる。私はアルシアが触っちゃいけないものを見分けられる。役割が違うだけだよ」
一人が常に救われる側にはならない。
それは、アルシアがこの五年、認めそこねてきた形だった。守る者と守られる者。強い側と、弱い側。だが今、リエッタは自分を「守られる荷物」ではなく「読み手」として、旅の中央に置いていた。
アルシアは、反論を探した。見つからなかった。
リエッタの言うことは、技術として正しく、安全として正しかった。感情だけが、それを認めたくなかった。認めれば、二人で危険へ向かうことになる。リエッタを、自分の目の届く場所で危うくすることになる。
「準備が要る」アルシアは言った。「防護具、予備の導晶、食料。距離が延びるほど、命紬の余裕を作らないと動けない」
「うん」
「三日か、四日。急がない」
「うん」リエッタの口元が、ようやく戻った。今度は目も、少し遅れて細くなった。「じゃあ、決まりだね」
決まりだ。二人で行く。アルシアが、繋がりを断つ道具を取りに、繋がっている相手と並んで。
アルシアは、リエッタの手首へ指を伸ばした。訊く前に、リエッタは腕を差し出していた。この所作だけは、五年で言葉が要らなくなっている。内側へ触れ、流れを測る。朝より、少しだけ戻っていた。豆のせいか、休んだせいか。
「旅に出るなら」アルシアは指を離した。「導晶を余分に持つ。道中で、お前の側を切らさないだけの余裕を作る。それができるまで、出発は遅らせる」
「重くなるよ、荷物」
「私が持つ」
「そういうところ」リエッタは小さく笑った。咎める笑いではなかった。「まあ、いいや。今は」
今は、とリエッタは言った。いつか、その荷物を持たなくてよくなる日を、たぶん指している。遺構の奥にあるかもしれない、あの遺物のことを。アルシアは聞き返さなかった。聞けば、また薪が崩れる。
*
夕食のあと、リエッタは工房へ図面を取りに戻り、アルシアは食卓を片づけた。
皿を重ね、鍋を洗い、布で拭く。三つ目の椅子の座面に、夕方の最後の光が触れていた。背の高い人が使っていた椅子だ。その人なら、この依頼書を見て何と言っただろう。アルシアは、父の声を思い出そうとして、やめた。思い出せる声より、思い出せない部分のほうが多くなっていた。
卓の中央に、昼から持ち帰った依頼書が置いてある。
四つ折りの紙。リエッタが端に付けた爪の折り目。アルシアが折り目に沿って畳み直した線。二人ぶんの折り目が、一枚の紙で交わっていた。
風が、半分開いた窓から入った。
依頼書が、卓の上で滑りかけた。
アルシアは手を伸ばした。同じ瞬間、工房から戻ったリエッタも手を伸ばした。二人の指先が、紙の同じ端を、同時に押さえた。
指と指は触れていない。紙一枚ぶん、離れている。
アルシアは手を引いた。ちょうど同じ拍で、リエッタも引いた。押さえるものを失った依頼書が、卓の上で一度だけ、かすかに鳴った。
どちらも、先に手を引いた。
第三章 旅支度の距離
腕帯の留め金が、三度目でようやく素直に閉じた。
リエッタは作業台の上で、細い革帯を裏返した。内側に薄い刻印板を縫い込み、二つの導晶を並べて留めてある。表からは、ただの補強入りの腕帯にしか見えない。けれど衝撃が加わった瞬間、導晶が受けた力を熱へ逃がし、周りへ薄く散らす。強い一撃を、面で受け流すための試作だった。
指の腹で導晶の座りを確かめる。片方がわずかに浮いていた。爪を戻し、押し込む。今度は動かない。
「アルシアの腕まわりで組んだ」とは言えない。
寸法は覚えていた。冬に外套の袖を繕ったとき、肘から手首までを一度測った。その数字で組めば、渡す相手は一人しかいなくなる。だから会話の中では、この帯は「試作の余り」ということにする。余った部品で、ついでに、たまたま腕帯の形になった。そう言えば、アルシアは重い顔をせずに受け取れる。
自分のために作った、と言われるのが、あの人はいちばん困るのだ。
工房の扉が開いた。アルシアが導晶の入った木箱を抱えて入ってくる。旅のあいだ、命紬の流れを切らさないための予備だった。数を確保するのに、二日、市場と鍛冶屋を回っていた。
「それは」
アルシアの目が、作業台の腕帯で止まった。
「ああ、これ」リエッタは帯を軽く放るように差し出した。「試作の余り。導晶が半端に余ったから、腕帯にしといた。要らないなら解体するけど」
アルシアは木箱を置き、帯を受け取った。
そして、リエッタが説明する前に、内側を裏返した。刻印板の縫い目を指でたどり、導晶の位置を確かめ、留め金を一度開いて閉じる。それから帯の端を両手で持ち、軽く捻った。刻印の向きと、力の逃げる方向を、目で追っている。
「衝撃を熱へ散らすのか」
「……まあ、そういう向き」
「熱はどこへ抜ける」
「外側。肌側には板を一枚挟んである。火傷はしない」
アルシアは何も言わず、帯を左の前腕へ巻いた。留め金を締め、拳を握って可動を確かめる。動きを妨げないことを確認すると、袖を下ろして隠した。
「余りにしては、私の腕に合いすぎている」
リエッタは鑢を手に取り、要らない一擦りをした。
「……余りが、たまたま合っただけだよ」
「そうか」
アルシアはそれ以上、追わなかった。追わないことで、全部分かっていると伝えてくる。リエッタは俯いて、もう座りの直った導晶を、もう一度押し込む振りをした。
アルシアが導晶の木箱を数え直しに母屋へ戻ると、工房はまた静かになった。
リエッタは、渡したのと同じ腕帯を、もう一本、作業台の下から出した。自分の試作の控えだ。昨夜、これで試験をした。硬い木片を万力に挟み、腕帯を巻いた別の木片で、上から思いきり叩く。導晶が力を受け、刻印板が熱を持ち、木片は割れずに残った。三度叩いて、四度目で導晶の一つに細い罅が入った。
三度まで。四度目からは、作り直しになる。
それが、この帯の限界だった。強い一撃なら一度、並の衝撃なら三度まで受け流し、そこから先は、ただの革帯に戻る。リエッタは、その数字を紙に書いて、控えの帯へ結んでおいた。渡したほうには、書かなかった。書けば、アルシアが「三度で壊れるなら、要らない」と言いかねない。壊れることを承知で、それでも一度は守れる。その一度を、渡したかった。
魔道具師は、万能ではない。現場で仕組みを読むのは速いが、素材の耐久を上げるには、時間と、失敗の数がいる。四日では、この帯が精一杯だった。リエッタは、割れた導晶を控えの帯から外し、革箱へ落とした。乾いた音がして、失敗が一つ、箱の底へ増えた。
いつか、三度が十度になる帯を作れる日が来る。そのころには、たぶん、渡す口実に「余り物」と言わなくてよくなっている。そう思ってから、リエッタは、その「いつか」に命紬がまだあるのかどうかを、考えないことにした。
*
市場は、昼前がいちばん人が多い。
リュネの中央広場には、乾物、革、鍛冶の小物、薬草を並べる露店が環になって出る。リエッタとアルシアは、荷を早く揃えるために、広場の左右へ分かれた。半刻したら、井戸の前で落ち合う約束だった。
一人になると、リエッタの足はまず乾物屋へ向かった。
塩気の強い干し肉を、板ごと二枚。アルシアは、旅の夜に、これを薄く削って湯に落とす。味の話はしない人だが、これがあるときとないときで、翌朝の口数が違う。リエッタはそれを、五年かけて観察してきた。
次に、苦い番茶を一袋。甘い茶は自分が飲む。苦いのはアルシアだ。荷に入れておけば、「余っていたから」と言って出せる。
紙に包んでもらいながら、リエッタは気づいた。自分の分は、まだ何も買っていない。
「まあ、いいや」
甘いものは、あとで。そう思って井戸へ向かうと、先に着いていたアルシアが、露店の紙包みを荷へ押し込むところだった。こちらに気づくと、押し込む手が少し速くなった。
「何、買ったの」
「消耗品だ」
「見せて」
「見なくていい」
リエッタは笑って、アルシアの荷袋を覗いた。中に、蜜漬けの干し杏が一袋あった。リエッタの、甘いもの用の袋だ。旅の途中、疲れた午後にひとつ食べると、指先まで戻る気がする。アルシアはそれを、味の話をしない顔で、黙って買っていた。
そして、その隣に。
同じ形の、防水布が一巻き。
リエッタは、自分の荷を開いた。同じ防水布が、同じ店の同じ包みで、一巻き入っていた。互いの装備が濡れないように、相手のぶんを買っていた。二人とも。
「……これ」
「重複だ」アルシアが短く言った。
「うん。重複だね」
どちらの防水布も、返しに行かなかった。二巻きぶん、荷が重くなった。干し肉と、干し杏と、二枚の防水布を抱えて、二人は井戸の前で少しのあいだ黙っていた。
リエッタは、結局、自分の甘いものを買い忘れたことに、家へ帰るまで気づかなかった。荷の底に、アルシアの買った干し杏があったからだ。
*
出発の二日前、二人はギルドへ最後の確認に寄った。
ガルドは、色の褪せた図面を広げ、遺構内の構造を指でなぞった。上層の水路、中層の避難室、深部の変換核。そのどこにも、赤い線で「感知不良」と書き込みがある。
「言っておくが、中じゃ共鳴札は当てにするな」ガルドは札を一枚、机に置いた。短距離の連絡に使う、対になった魔道具だ。「壁が魔力を乱反射する。数十歩離れたら、対の札でも反応が鈍る。奥で逸れたら、声を出して探すしかない」
リエッタは札を手に取り、裏の刻印を見た。共鳴の原理は、命紬の伝達と近い。札の反応が鈍る場所では、命紬の流れも同じように鈍る。ガルドが言っているのは、通信の話だが、リエッタが聞いているのは、自分の命綱の話だった。
「アルシアと私は、離れないようにする」リエッタは言った。「札より確実な方法で」
「どうやって」
「紐でいい」
ガルドが片眉を上げた。リエッタは市場で買った細い麻紐を思い出しながら、指で長さを示した。
「遺構の狭い区画では、互いの腰を軽く繋いでおく。魔力を使わない、ただの紐。札が鈍っても、紐は鈍らない。引けば、そこにいる」
古い方法だ。洞窟に潜る者が、灯を消さないために、互いを繋ぐのと同じ。魔道具師の答えとしては素朴すぎて、リエッタは少し恥ずかしかった。けれど、魔力が当てにならない場所でいちばん確かなのは、たいてい、魔力を使わない物だった。
アルシアは、その紐の案に、反対しなかった。むしろ、腰帯の留め位置を目で測っていた。互いを繋ぐことに、この人は、ためらいがない。
繋がっていることを、確かめられる方法を、増やそうとしている。
リエッタは、その横顔から目を逸らした。繋がりを解くために旅へ出るのに、旅のあいだは、もっと強く繋がろうとしている。矛盾は、口にしなかった。口にすれば、どちらかが傷つく。
ガルドは図面を巻き戻しながら、道のりの話へ移った。
「リュネから西へ、街道沿いに歩いて四日。三日目にレグナの宿場がある。そこで一泊、湯と寝床を確保しておけ。四日目からは宿がない。エルドラの入口手前で野営だ」ガルドは指を二本立てた。「レグナには、うちの息のかかった宿がある。名を出せば、部屋を取りやすい。それと、あの宿場は情報が集まる。エルドラへ入った連中の話も、聞けるかもしれん」
「情報は多いほうがいい」リエッタは頷いた。罠や落盤の噂を、先に聞けるなら、備えられる。
「ただし」ガルドは声を落とした。「余計なことは喋るな。特に、遺物が魔力を生むという一行はな。金の匂いに敏感な連中は、どこにでもいる。誰が動いてるかも、まだ分からん」
誰が動いているか。ガルドの言い方に、リエッタは一瞬、引っかかった。ただの遺物荒らしを警戒しているのか、それとも、もっと別の何かを。けれどガルドは、それ以上は言わず、図面を筒へ収めた。年長者が、若い者に持たせたくない不安を、飲み込んだ顔だった。
*
出発の前夜、リエッタは工房で、研究帳の前に座っていた。
命紬解除のノート。五年ぶんの試験と失敗が綴じてある。持っていけば、遺構で何か思いつくかもしれない。けれど、旅の荷は軽いほうがいい。濡れれば、墨が流れる。落とせば、拾えないかもしれない。
リエッタは、革表紙を開いた。
前半は、自分の書いた試験記録だ。斜線と、迂回路の図と、焼き切れた線の観察。これは頭に入っている。持っていかなくても書ける。
後半に、アルバスの頁がある。二人の間を渡る一本の線と、結び目を示す円。「解除には、供給を止める前に代わりの流れを用意すること」。その先が、途中から墨が薄くなって、欠けている。
リエッタは、綴じ糸を切らないように、アルバスの頁だけを、丁寧に外した。
父の字を、旅へ連れていく。自分の五年ぶんは家に置いて、父の欠けた数頁だけを持つ。そうすると決めた理由を、リエッタは自分でもうまく言えなかった。ただ、遺構の奥で古い仕組みに触れるとき、隣にあってほしいのは、自分の失敗の記録ではなく、父が最後まで書けなかった頁のほうだった。
外した頁を、防水布で包む。市場で二巻きになった、あの防水布の片方だった。
*
出発の朝は、まだ暗いうちに来た。
リエッタが母屋へ下りると、アルシアはもう起きていた。竈の火を落とし、灰を均し、水瓶に蓋をしている。留守にする家を、閉じる手つきだった。
「戸締まり、手伝う」
「もう終わる」
アルシアは窓の掛け金を一つずつ確かめ、食器棚の扉を閉め、三つ目の椅子を、いつもの位置へ戻した。それから外へ出て、花壇の前でしゃがんだ。
青い花の株に、細い支柱を足している。傾いた茎を起こし、根元の土を寄せる。留守のあいだに雨が降っても、倒れないように。数日で帰るなら、そこまでしなくていい。けれどアルシアは、帰ってきたときに花が倒れていることを、許さないらしかった。
リエッタは、その背を見ていた。
戸締まりも、花壇も、全部、帰ってくる人の準備だった。竈の火を落とすのは、また点けるためだ。水瓶に蓋をするのは、また開けるためだ。花を起こすのは、また咲いた花を見るためだ。
二人とも、この旅を、最後かもしれないと思っている。遺物が本物なら、命紬は解ける。解ければ、何かが終わる。それでも手は、帰る準備しかしていない。終わりへ向かう支度を、帰るための形でしか、組み立てられなかった。
アルシアが立ち上がり、土を払った。
「行くか」
「うん」
玄関に、二人分の荷が並んでいた。
アルシアの大きな荷袋と、リエッタの工具袋。防水布は、それぞれの一番上にある。そのあいだに、一本の杖が立て掛けてあった。
アルバスの杖だった。長く、握りの黒ずんだ、古い木の杖。魔法士だった父が使い、リュネへ来てからは、ほとんど壁に掛けたままだった。アルシアが、いつの間にか荷のそばへ持ってきていた。
「持っていくの」
「杖として使う」アルシアは、それだけ言った。「山道は長い」
理由は、たぶん、それだけではない。けれどリエッタは、聞かなかった。父の杖が、二人の荷のあいだに立っている。その景色を、崩したくなかった。
外はまだ暗く、花壇の青い花は、閉じたままだった。
リエッタは荷を背負い、杖を一度だけ見た。それから、扉を開けた。
第四章 同じ道、違う願い
西の街道は、森の際を縫って続いていた。
朝のうちは平坦だった。踏み固められた土の道が、若葉の匂いのする林を左に、麦畑の広がる緩い斜面を右に置いて、まっすぐ西へ伸びている。アルシアは父の杖を突きながら歩いた。握りの黒ずんだ古い木は、思ったより手に馴染んだ。石突きが土を噛む音が、一定の間隔で背後へ流れていく。
その音の合間に、アルシアはもう一つの音を聞いていた。
リエッタの足音だ。踵から置く軽い歩き方。工具袋の金具が、一歩ごとに小さく鳴る。呼吸は、まだ乱れていない。歩幅は、いつもと変わらない。半歩後ろを歩くその人の状態を、アルシアは、風向きや道の先を確かめるのと同じ精度で、絶えず測っていた。
半刻ほど歩いて、道が浅い上りに差しかかった。
アルシアは、足を止めた。
「休む」
「え、もう?」リエッタが顔を上げた。「まだ全然、平気だよ」
「私が休みたい」
道の脇に、倒れた古木があった。腰を下ろすのにちょうどいい。アルシアは杖を立て掛け、水袋を差し出した。リエッタは受け取りながら、こちらの顔を窺うような目をした。
嘘だった。アルシアは、休みたくはなかった。
けれど、この上りをリエッタの脚で登れば、心拍が上がる。心拍が上がれば、魔力の消耗が早まる。消耗が早まれば、アルシアの側が余分に流す。それ自体は構わない。構わないが、リエッタは無理をしても顔に出さない。出さないから、倒れる寸前まで気づけない。倒れられたら、この街道の途中では、どうにもならない。
だから、上りの手前で止める。まだ余裕のあるうちに。
理由は言わなかった。言えば、リエッタが「自分のせいで足を止めさせた」と思う。もう、思い始めているのが、水を飲むときの、あの遠慮がちな飲み方で分かった。
「アルシア」リエッタが水袋の口を閉じた。「私、遅くないよね」
「遅くない」
「なら、いいけど」
いいけど、と言いながら、リエッタは残りの水を、半分だけ飲んで返した。喉は渇いていたはずだった。飲みきらなかったのは、荷を軽くしないためではない。次に止まる口実を、こちらへ与えないためだ。
アルシアは、その計算を見抜いて、何も言えなくなった。
*
昼を過ぎると、道は林の中へ入った。
木漏れ日が、地面にまだらな模様を落としている。風が梢を鳴らし、遠くで鳥が二声鳴いた。アルシアは、道の両側の茂みを、目の端で追い続けた。獣道の入口、折れた枝、踏まれた下草。危険の兆しはない。けれど、確かめるのをやめられない。森は、五年前を思い出させる。
前を――いつの間にか、リエッタが前を歩いていた。
アルシアは、自分の歩調が、また相手に合っていることに気づいた。半歩前に出たリエッタの、その歩幅へ、意識せずに速度を落としている。追い越そうと思えばできる。けれど、脚が、勝手にその幅を守る。
五年、そうしてきた。リエッタの隣を歩くとき、アルシアの歩幅は、自分のものではなくなる。
「その杖」リエッタが、隣に並んだ。「使ってるの、久しぶりに見た」
アルシアは、握りへ目を落とした。黒ずんだ木肌に、指の当たる場所だけ、色が薄い。父の手が、そこを何十年も握った跡だった。自分の手は、まだその窪みに、ぴたりとは収まらない。
「山道で要る」
「うん。でも、それだけじゃないでしょ」
リエッタは、詰め寄る言い方をしなかった。ただ、道の先を見たまま、こちらの返事を待つ幅を、半歩ぶん空けた。道具を置いて両手を空けるときの、あの間だった。
アルシアは、しばらく石突きの音だけを鳴らして歩いた。
「父が、これで歩いた」ようやく、それだけ言った。「宮廷を出て、リュネへ来る道も、この杖だったと聞いた。私は、その道を知らない。生まれる前だからな」
「私も知らない」
「だが、同じ杖が、また西へ歩いている」アルシアは前を見た。「それだけだ。意味はない」
意味はない、と言いながら、握りを離せなかった。父は、この杖で歩き、この杖を壁に掛け、そして、杖を突く暇もなく死んだ。命紬の反動を、自分の生命で引き受けて。あのとき、アルシアはそばにいながら、何もできなかった。守れなかった。守るべき父を。守るべきリエッタを。父だけが、二人を守って、逝った。
その杖を、今、自分が突いている。父が守ろうとしたものの隣を、歩くために。
「アルシアのお父さんの話、あんまり聞いたことないなって」リエッタが、そっと言った。「私、育ててもらったのに。杖のことも、知らなかった」
「話さなかった」
「うん」
「話すと、消える気がした」アルシアは、めったに言わないことを言った。「覚えていることが、少ない。話せば、話したぶんだけ、輪郭が減る。だから、しまっておいた」
リエッタは、それ以上、聞かなかった。代わりに、少しだけ、歩調をこちらへ寄せた。合わせられているのが、今度は、分かった。
林を抜けた先に、道が二股に分かれる小さな辻があった。
その辻に、人が三人、立ち往生していた。
荷車を引いた中年の男と、その妻らしい女、それに、十ばかりの子ども。荷車の車輪は無事だ。だが、三人は辻の柱の前で、困った顔を突き合わせていた。柱の上に、魔導灯の街道標が据えてある。夜、旅人へ道を示すための灯だ。
それが、消えていた。
「灯が、点かないんです」男が、近づいた二人へ、すがるように言った。「この先の分かれ道、夜は灯を頼りに進むんですが……日が暮れる前に次の宿場へ着けなければ、この辻で野宿になる。子どもがいるもので」
アルシアは、街道標を見上げた。
魔導灯は、蓄えた魔力で光る。魔力が尽きたなら、補充すれば済む。だが、男の話では、昨日まで点いていたという。昨日まで点いて、今日消えたなら、尽きたのではない。どこかが、壊れている。
アルシアには、それがどこかは分からなかった。灯を灯すことはできる。だが、灯そのものの臓腑を読むのは、自分の領分ではない。
「リエッタ」
呼ぶより先に、リエッタは工具袋を下ろしていた。
*
リエッタは、街道標の根元に膝をついた。
「台座、開けていいですか」男に断って、蓋の留め具を外す。中には、導晶を収めた受け皿と、刻印板と、細い銀線が這っている。リエッタは指先で一つずつたどり、時々、耳を近づけた。壊れた場所を、音で探しているようだった。
アルシアは、その斜め後ろに立って、周囲を見ていた。辻は見通しがいい。茂みに動くものはない。危険はない。それを確かめたあとも、目は、しゃがんだリエッタの背へ戻ってくる。
「あ、これだ」
リエッタの声が、少し弾んだ。工程を見つけたときの、あの調子だ。
「導晶は生きてる。線も切れてない。刻印板の接点が、酸化してるんだ。ここ、緑青が浮いてる。昨日の雨で湿気が入って、一晩で膜が張ったんだと思う。膜が電を通さないから、魔力が刻印まで届かない」
「直せるのか」男が身を乗り出した。
「膜を削って、油を薄く塗れば。永久じゃないけど、次の点検までは保つ」
リエッタは、細い鑢と、油の小瓶を取り出した。接点を、ごく軽く擦る。緑の膜が剥がれ、下から金属の色が出る。息で粉を払い、油を綿の先へ取って、薄く塗った。手つきに迷いがない。工房で毎日、同じことをしている手だった。
蓋を戻し、リエッタは、灯の側面の小さな窪みへ指を当てた。
「起動、いきます」
窪みへ、ほんのわずか魔力を通す。命紬で受けた、貴重な魔力だ。それを、見知らぬ旅人の灯へ、惜しまずに使った。
街道標の頂で、灯がともった。昼の光の中でも分かる、淡い橙の光だった。
「点いた……!」子どもが声を上げた。
「よかった」リエッタは立ち上がり、膝の土を払った。「湿気の多い季節は、また曇るかもしれません。そのときは、蓋を開けて、接点を乾いた布で拭いてください。それだけで、しばらくは点きます」
男は何度も礼を言い、女は荷車から干した果実をひと掴み、リエッタの手に握らせた。子どもは、点った灯と、リエッタの顔を、代わる代わる見上げていた。魔法使いを見るような目ではない。もっと近い、頼れる大人を見る目だった。
アルシアは、その光景を、少し離れて見ていた。
胸の奥が、妙に温かかった。命紬の温度ではない。もっと別の場所が、静かに熱を持っている。
リエッタが、誇らしかった。
守るべき、壊れやすい相手ではなく。自分の手で、他人の夜に灯をともせる人として。街道標の臓腑を、音で読み、緑青を削り、見知らぬ子どもへ道を返した。その一部始終に、アルシアの助けは、要らなかった。周囲を見張ること以外、何も。
アルシアの「守る」は、そこで、小さくつまずいた。
守られる側だと思っていた人が、今、他人を助けている。この人は、弱くない。少なくとも、アルシアが思い込んでいたほどには。では、自分が絶えず半歩後ろから測っているものは、いったい何を守るためなのか。
問いは、名前を持たなかった。ただ、胸の温かさだけが残った。
「行こう」リエッタが工具袋を背負い直した。果実を分けてくれた家族へ、もう一度手を振る。「日が暮れる前に、川のところまで行きたいね」
「ああ」
アルシアは杖を取った。歩き出したリエッタの、半歩後ろへ。今度は、その位置が、守るためなのか、隣にいたいためなのか、自分でも分からなかった。
*
その夜は、川のそばの草地で野営した。
アルシアが火を熾し、湯を沸かした。リエッタが荷から干し肉を出し、薄く削って湯に落とす。市場で買った、あの塩気の強い肉だった。二人ぶんの椀から、同じ湯気が立った。
「昼の子、灯を見て喜んでたね」リエッタが椀を両手で包んだ。「ああいうの、いいな。壊れたものが、また動くの」
「お前の得意なことだ」
「得意っていうか」リエッタは湯気の向こうで、少し笑った。「壊れてるものは、たいてい、全部が駄目なわけじゃないんだよ。どこか一つ、噛み合わせがずれてるだけ。そこを直せば、また動く。全部を作り直さなくていい」
アルシアは、その言葉を、火を見ながら聞いた。
どこか一つ、ずれているだけ。そこを直せば、また動く。リエッタは、灯の話をしている。けれど、アルシアの頭には、別のものが浮かんだ。壊れた魔炉。命紬。二人のあいだの、名前のつかない距離。あれも、全部が駄目なわけではないと、この人は思っているのだろうか。どこか一つを直せば、また、と。
聞かなかった。夜の焚火のそばで聞くには、重すぎる。
「昼のさ」リエッタが、椀の縁を指でなぞった。「接点が酸化してただけなんだよ。導晶も、線も、刻印板も、全部生きてた。たった一か所、緑青が膜になってただけで、灯は消えてた。膜さえ削れば、また点く」
「聞いた」
「あれ、けっこう、すごいことだと思うんだ」リエッタの声が、少し早くなった。工程を語るときの調子だ。「全部が壊れてるように見えても、本当に駄目な場所は、うんと小さかったりする。人はそれを見ないで、灯ごと捨てちゃう。柱を建て替えようとする。でも、要るのは、鑢一本と、油ひと塗りだったりするんだよ」
火が、薪の節を弾いて、小さく鳴った。
アルシアは、湯の椀を両手で包んだまま、その話を聞いていた。リエッタは、灯の話をしている。ただの、今日の仕事の話だ。けれど、この人の目は、火を映して、もっと遠くを見ていた。壊れたもの。捨てられずに済んだもの。削れば、また動くもの。
自分の身体のことを、言っているのかもしれない、とアルシアは思った。壊れた魔炉。それでも、命紬という一本の線で、まだ点いている灯。リエッタは、自分をそう見ているのだろうか。全部が駄目なわけじゃない、と。
だとしたら――そのたった一か所を直す旅が、この旅だ。エルドラの遺物が、リエッタの言う「鑢一本と油ひと塗り」になるのかもしれない。
そして、直ったあとの灯は、もう、アルシアの魔力を必要としない。
アルシアは、湯を飲んだ。塩気の強い干し肉の味が、喉の奥で少し尖った。
「冷める前に飲め」
「アルシアが話をさせたんじゃない」
「私は聞いていただけだ」
「聞き上手だ、って言われない?」
「言われない」
リエッタは笑って、残りの湯を飲み干した。椀を置くと、大きく伸びをして、防水布の上に身を横たえた。
火の番は、アルシアがした。リエッタは、防水布を敷いた上で、外套にくるまって眠った。眠る前、「交代するから、起こしてね」と言ったが、起こすつもりはなかった。この人の眠りを、削りたくない。星の巡りで夜半を過ぎたころ、リエッタの寝息が、川音に混じって規則正しくなった。
アルシアは、火に枝を足しながら、眠るリエッタの横顔を、一度だけ見た。
それから、長いあいだ、川の対岸の闇を見張っていた。
*
朝は、露で始まった。
草地の一面が、細かな水の粒で白く霞んでいる。アルシアが先に起き、火の始末をし、荷をまとめた。リエッタが目を覚ましたとき、湯はもう沸いていた。
「起こしてって言ったのに」
「よく寝ていた」
「アルシア、寝てないでしょ」
「野営はこういうものだ」
リエッタは、何か言いかけて、やめた。代わりに、沸いた湯で顔を洗い、髪を耳へ掛け直した。露に濡れた草を踏んで、川で水袋を満たしに行く。その背を、アルシアは、やはり目で追った。
野営地を発つとき、二人は並んで草地を横切った。
数歩進んで、アルシアはふと、後ろを振り返った。
露の草地に、二人の足跡が残っていた。
踏まれた草が倒れ、露が払われて、地の色が二筋、点いている。左の筋と、右の筋。歩幅が、同じだった。背の高さも、脚の長さも違うのに、二本の足跡は、寸分違わぬ幅で、並んで草地を横切っていた。
アルシアは、自分の歩幅が、いつからリエッタのものになっていたのか、思い出せなかった。
「どうしたの」
「なんでもない」
アルシアは前へ向き直り、また歩き出した。二筋の足跡は、露の中に、しばらく残っているだろう。日が昇れば、露は乾き、草は起き上がり、跡は消える。
消える前の、その一瞬だけ、道の上に、同じ幅の二本が並んでいた。
第五章 一人部屋が二つ
レグナの宿場は、街道が緩く曲がる場所に、鉤の手に軒を連ねていた。
三日ぶんの土埃を踵に溜めて、リエッタはその通りへ入った。日は西の丘へ半分沈み、宿の窓には、もう橙の灯がともり始めている。荷馬車が数台、厩の前に停まり、旅装の人々が食堂の暖簾をくぐっていく。乾いた道と、炊事の煙と、馬の匂いが、一つに混じっていた。
「あそこだね」
リエッタは、通りの奥の宿を指した。看板に、麦穂と車輪の絵。ガルドが言っていた、息のかかった宿だ。名を出せば部屋を取りやすいと。三日歩いて、湯と寝床がある。それだけで、足の裏の疲れが、少し軽くなる気がした。
疲れは、顔に出さないようにした。
ここまでの三日、リエッタは自分の足が重くなるたび、歩幅を保つことに神経を使った。アルシアは、こちらが少しでも遅れると、休憩を早める。早めれば、アルシアは「自分の脚のせいだ」と思わせないために、必ず別の理由をつける。私が休みたい。喉が渇いた。景色がいい。その口実を、これ以上、増やさせたくなかった。だから、疲れは隠す。隠すのは、たぶん、アルシアから教わった。
宿の帳場で、アルシアが先に立った。
「二人。一泊」
「相部屋かい、別々かい」帳場の女将が、鍵の束へ手を伸ばした。
「別々だ」
アルシアの返事は、迷いがなかった。考える間もなく、当たり前のように、一人部屋を二つ。
リエッタは、その横顔を見た。
家では、同じ屋根の下で眠る。母屋と工房で部屋は分かれているが、壁一枚だ。旅の野営でも、同じ焚火のそばに横たわった。それが、宿に入った途端、別々の部屋になる。二枚の壁と、二つの鍵で、隔てられる。
なぜ、と口から出かけて、飲み込んだ。
聞けば、アルシアは理由をつける。そのほうが休める。荷の管理がしやすい。何か、もっともらしい理由を。そして、その理由の下にある本当のところを、こちらへは渡さない。いつものように。
リエッタの頭に浮かんだのは、いちばん単純な答えだった。
近くにいたくないのかもしれない。
三日、狭い道を並んで歩いて、夜も焚火のそばで、ずっと一緒だった。同じ椀から湯気を分けて、同じ足跡を草地に残して。アルシアは、それに、疲れたのかもしれない。命紬で繋がれた相手と、四六時中、身を寄せていることに。宿でくらい、一人になりたい。そう思っても、おかしくない。
義務で世話をしている相手なら、なおさら。
リエッタは、その考えを、いつもの場所へしまった。胸の奥の、名前をつけない箱へ。
「はい、二階の奥。隣同士だよ」女将が、二つの鍵を差し出した。木札に、五番と六番。「湯は下の裏手。食堂は六つ時から」
「ありがとう」リエッタは五番を受け取った。「隣同士、なんだね」
「壁は厚いよ。いびきは聞こえない」女将が笑った。
隣同士でも、壁は厚い。リエッタは、その言葉を、なぜか長く覚えていた。
*
湯を使って部屋へ戻ると、身体は軽くなったが、心のほうは、まだ道の土を引きずっていた。
五番の部屋は、狭かった。寝台が一つ、小さな卓が一つ、窓が一つ。窓から、宿場の通りが見下ろせる。灯のともった軒が、鉤の手に連なっている。壁の向こうが、六番だった。アルシアがいる。壁一枚だが、扉は別で、鍵も別だった。
リエッタは、腰の工具袋から、命紬の残量を測る小さな導晶を出した。旅のあいだ、朝夕に自分で確かめている。指を当てる。流れは、安定していた。三日歩いても、アルシアはきちんと供給を保っている。義務なら、これほど丁寧に、途切れさせないだろうか。
――義務だから、途切れさせないんだよ。
自分で自分に答えて、リエッタは導晶をしまった。
壁の向こうで、水を使う音がした。アルシアも、湯から戻ったらしい。それから、ことん、と小さな音。荷を置いたのか、寝台に腰を下ろしたのか。壁越しの音は、輪郭だけで、中身が分からない。
リエッタは、壁に手を当てかけて、やめた。
代わりに、食堂へ下りることにした。一人で部屋にいると、しまったはずの箱の蓋が、勝手に開く。人のいる場所のほうが、気が紛れる。それに――エルドラの話を、誰かが知っているかもしれない。ガルドは、この宿場は情報が集まると言っていた。
リエッタは、髪を耳へ掛け、扉を開けた。六番の扉は、閉まっていた。
*
食堂は、旅人で賑わっていた。
長卓が三つ並び、行商人、荷運び、若い斥候の一団が、皿を囲んでいる。奥の竈で、女将が大鍋をかき回していた。麦の粥に、根菜と、塩漬け肉。素朴だが、湯気の匂いが濃い。リエッタは椀を受け取り、端の席へ着いた。
しばらくして、アルシアも下りてきた。
食堂の入口で一度足を止め、出入口と窓の位置を確かめてから、リエッタの向かいへ座る。いつもの癖だ。だが、その頬が、少し赤い気がした。湯のせいか、と思ったが、湯から出て時間が経っている。リエッタが見ていることに気づくと、アルシアは目を逸らし、椀を引き寄せた。
「顔、赤くない?」
「湯だ」
「もう乾いてるよ、髪」
「……熱くしすぎた」
アルシアは、それで話を終わらせた。リエッタは、引っかかりを感じたが、追わなかった。追えば、また壁が厚くなる。隣同士でも、壁は厚い。
ただ、椀を運ぶアルシアの手を、リエッタは横目で見ていた。
食べる量が、少ない。三日歩いて、いちばん腹が減っているはずの夜に、粥を半分も残している。塩漬け肉には、手をつけていない。旅の初日なら、二人ぶんを平らげる勢いだった人が。それに――赤い顔をしているのに、一度、肩が小さく震えた。暑いのではない。寒いのだ。熱があるとき、人は、火照りながら震える。
リエッタは、手を伸ばしかけた。手首へ触れて、確かめたかった。命紬の流れではなく、熱のほうを。だが、その手が卓の中ほどまで来たとき、アルシアは椀を持ち上げ、腕を引いた。触れさせない位置へ、自然に。
「なんだ」
「……ううん。肉、食べないなら、もらうよ」
「食べる」
アルシアは、手をつけていなかった肉を、無理に口へ運んだ。噛む速さが、いつもより遅い。リエッタは、それを見て、確信に近いものを持った。この人は、隠している。疲れか、熱か、その両方か。守る側は、弱っていることを、いちばん最後まで言わない。
言わせる方法を、リエッタは、まだ知らなかった。だから、今は、肉を一切れ、譲ってもらった振りをして、話を変えた。壁を、これ以上、厚くしないために。
粥を食べていると、隣の席の女が、リエッタの工具袋へ目を留めた。
「あんた、魔道具師かい」
三十くらいの、日に灼けた女だった。革の胸当てに、使い込んだ弓。冒険者だ、と一目で分かる。腰に提げた獲物入れの金具が、リュネのギルドとは違う紋だった。
「うん、そう」リエッタは頷いた。「工具、目立つよね」
「その袋の締め方でわかる。うちの相方も、同じ結び方をする」女は椀を持って、席を一つ移ってきた。「ミラってんだ。北のギルドから流れて、この辺で仕事してる。あんたら、どっちへ」
「西。エルドラのほう」
ミラの眉が、わずかに動いた。
「あの遺構か。よしときな、とは言わないけど」ミラは声を落とした。「あたしも先月、入口の手前まで行った。依頼じゃなく、下見でな。中の話を、いくつか拾ってる」
リエッタは、椀を置いた。話を聞く姿勢になる。
「上層は、ただの水路跡だ。歩ける。問題は、その下」ミラは、卓に指で線を引いた。「中層から下で、灯が理由なく消える。導晶が、使ってもいないのに減る。そこまでは、まあ、聞く話だ。だが、もう一つ、妙な噂がある」
「妙な噂」
「深部に、光る仕掛けがあるってんだ」ミラの指が、卓の上で、小さな円を描いた。「光って、人を弾く。触れたやつが、次の瞬間、別の場所にいたって話だ。眉唾かもしれん。だが、そいつを見たっていう連中は、口を揃えて言う。仲間が、目の前から消えた、と」
目の前から、消えた。
リエッタは、その言葉を、頭の隅へ書き留めた。光って、人を弾く。触れたら、別の場所へ。ただの怪談かもしれない。だが、古代の遺構だ。転移の術式が、装置として残っていても、不思議ではない。もしそんなものがあるなら、命紬で繋がれた二人には、致命的だ。離れれば、供給が切れる。目の前から消えたら、探す間もない。
「もう一つ、いいか」ミラは声をさらに落とした。「深部に、番人がいるって話もある。石でできた、大きな仕掛けだ。動いたやつを見た冒険者が言うには、川の流れみたいな音を立てて動くらしい。関節のところに、水の弁が見えたって。魔力じゃなく、水圧で動く番人なんじゃないかって、そいつは言ってた」
水圧で動く番人。リエッタは、その一言に、指が止まった。
魔力で動くものなら、魔力の流れを読んで止められる。だが、水圧で動くなら、止め方は別だ。弁を見つけて、流れを断つ。関節の同期を狂わせる。魔道具ではなく、水車や、樋の理屈に近い。ミラの相方が見たという「水の弁」が本当なら、その番人は、戦って倒すものではなく、仕組みを読んで止めるものだった。
「落盤の予兆は」リエッタは尋ねた。
「天井から、細かい砂が先に落ちる。それと、風だ。閉じた通路のはずなのに、急に風が動いたら、どこかが崩れかけてる。あたしは、それで一度、助かった」ミラは自分の耳を指した。「音より、まず砂を見ろ。音が聞こえたときは、もう遅い」
リエッタは、その一つ一つを、頭の中の図面へ書き込んだ。砂、風、水の弁、光る仕掛け。ミラの言葉は、怪談ではなく、生きて帰った者の観察だった。観察は、対策になる。
「教えてくれて、ありがとう」リエッタは言った。「対策、考えられる。知ってると、知らないとじゃ、全然違う」
「役に立つならいい」ミラは肩をすくめ、それから、少し笑った。「あんた、いいな。冒険者ってのは、他人の遺構情報を、ただじゃ渡さないもんだ。でも、あんたの聞き方、まっすぐでな。隠す気が失せた」
「えへへ」リエッタは、つい、素の声を漏らした。「情報は、多いほうが、みんな生きて帰れるから」
ミラが声を上げて笑い、リエッタも笑った。落盤の避け方、水路の水位、灯の保ち方。ミラの話は具体的で、リエッタはそのひとつひとつに、頭の中で対策を組み立てた。会話は弾んだ。旅に出て初めて、リエッタは、気を張らずに笑っていた。
向かいのアルシアが、椀を置く音が、少しだけ硬かった。
リエッタは、それに気づかなかった。ミラの描く遺構の図に、夢中だったからだ。
*
食堂を出るころには、外はすっかり暗くなっていた。
ミラは「気をつけて行きな」と言って、自分の卓へ戻った。リエッタは、拾った情報を頭で整理しながら、階段を上った。落盤は音で予兆がある。水位は朝と夕で変わる。光る仕掛けは――離れないこと。紐で繋ぐ案が、いっそう大事になった。
アルシアは、先に上っていた。食堂で、ほとんど喋らなかった。ミラとリエッタが話しているあいだ、椀を空にして、周囲を見張るように座っていた。リエッタが「行こう」と声をかけると、黙って立ち上がった。
二階の廊下で、二人は、それぞれの扉の前に立った。
五番と、六番。隣同士。
「じゃあ、おやすみ」リエッタは言った。「明日は、朝早いね」
「ああ」アルシアは、鍵を回した。「……よく寝ろ」
「アルシアも」
短い間があった。何か、言いかけて、言わなかった間だった。どちらの間なのか、リエッタには分からなかった。アルシアは扉を開け、中へ入った。リエッタも、五番の扉を開けた。
二つの扉が、ほとんど同時に閉まった。
*
寝台に横たわっても、リエッタは、しばらく眠れなかった。
天井の梁を見上げる。壁の向こうに、アルシアがいる。手を伸ばせば届く距離に、扉二枚と、鍵二つ。同じ屋根の下なのに、こんなに部屋を分けたのは、旅に出て初めてだった。
アルシアの頬は、赤かった。湯のせいだと言った。けれど、湯から出て、ずいぶん経っていた。食堂でも、赤かった。何か、隠している。いつものように。守るとか、義務とか、そういう理由の下に、本当のところを畳んで。
近くにいたくないわけじゃ、ないのかもしれない。
そう思い直してみても、確かめる方法はなかった。聞けば、理由をつけられる。壁は厚い。隣同士でも。
リエッタは、寝返りを打った。
床のほうへ目をやると、扉の下の隙間から、廊下の灯りが、細く漏れ入っていた。宿の廊下には、夜通し、小さな灯がともっている。その光が、五番の扉の下に、一本の線を引いている。
きっと、六番の扉の下にも、同じ線が引かれている。同じ廊下の、同じ灯りが。閉じた二枚の扉の、それぞれの下へ、細く、同じ光を届けている。
隔てているのは、扉だ。灯りは、隔てていない。
リエッタは、その一本の光を見ながら、目を閉じた。
壁の向こうで、アルシアも、たぶん、まだ起きている。同じ光を、扉の下に見ながら。互いに、相手を休ませるために、距離を取ったつもりで。そのつもりが、相手にどう届いているかは、確かめないまま。
灯りは、朝まで、消えなかった。
第六章 白い花の髪飾り
朝のレグナは、昨夜とは違う顔をしていた。
夜のあいだに市が立ち、通りの両側に、露店の天幕が張られている。野菜、干物、革紐、鍋。行商人の声と、荷を解く音と、朝餉の匂いが、細い通りに満ちていた。アルシアは、その人混みが、あまり得意ではない。人が多いほど、出入口が読みにくい。誰が誰の後ろにいるのか、視界が塞がれる。それでも、荷を補う場所は、ここしかなかった。
リエッタは、通りへ出るなり、目を輝かせていた。
「見て、あの鍋。底の厚さ、ちょうどいい」「あっちの店、導晶の屑を売ってる」「朝の市って、なんでこんなに楽しいんだろうね」
半歩前を歩くその声を、アルシアは、後ろから聞いていた。楽しそうだった。昨夜、食堂で、あの女冒険者と話していたときと、同じ声だった。
――ミラ。
名を思い出して、アルシアは、胸の奥に、覚えのない感触を見つけた。
昨夜、リエッタは、初めて会った相手と、あんなに打ち解けていた。遺構の話に夢中になって、声を上げて笑って。ミラのほうも、「あんた、いいな」と言って、心を開いていた。二人の会話は、弾んでいた。アルシアが、五年かかっても届かない場所へ、あの女は、一晩で入っていった。
それが――嫌だった。
なぜ嫌なのか、アルシアには、うまく言えなかった。ミラは親切な相手だ。遺構の情報を、惜しみなくくれた。リエッタが人と打ち解けるのは、いいことだ。旅の役に立つ。危険を減らす。頭では、そう分かっている。分かっているのに、あの二人が笑い合う姿を思い出すと、胃の底が、冷たい石を飲んだように重くなる。
これは、何だ。
守る責任とは、関係がない。リエッタの安全は、あの会話で、むしろ増した。なのに、この重さは、安全の話をしていない。もっと別の、狭くて、みっともない場所から来ている。
アルシアは、その感触に、名前をつけなかった。つければ、認めることになる。認めれば、リエッタから、もう一歩、引かなければならなくなる気がした。
「アルシア、どうしたの。怖い顔してる」
「人が多い」
「あ、そっか。ごめん、はしゃいだ」リエッタは、少し歩調を緩めた。「必要なものだけ、さっと買お」
違う、と言えなかった。人混みのせいではない。だが、そう思わせておけば、リエッタは、こちらの本当の重さを見ずに済む。アルシアは、いつものように、本当を、別の理由の下へ畳んだ。
*
荷を分けて買うことにした。
リエッタは食料と、工具の消耗品を。アルシアは、火口と、繕い用の革と、予備の紐を。半刻したら、通りの端の井戸で落ち合う。昨日と同じ約束だった。
一人になると、人混みが、少しだけ楽になった。
アルシアは、必要なものを順に買った。火口。革。紐。荷は、それで足りた。井戸へ向かおうとして、通りの角の、小さな店の前で、足が止まった。
装身具の店だった。
木の台に、櫛や、耳飾りや、髪を留める品が並んでいる。旅の女が、髪をまとめるのに使うような、素朴なものが多い。その中に、一つ、白い花の髪飾りがあった。
小さな白い花を、細い銀の枝に留めた品だった。花弁は、薄い貝を削って作られている。朝の光を受けて、内側から淡く光る。派手ではない。むしろ、地味なくらいだ。けれど、その白は、アルシアの知っている白に、似ていた。
リエッタの髪の色だった。
五年前まで、リエッタの髪は、深い紫だった。魔炉が壊れて、白くなった。あの白は、失ったものの色だ。病の色だ、と、アルシアは長いあいだ思ってきた。守れなかった証の色だと。
けれど、この髪飾りの白は、違って見えた。
失ったものの白ではなく、そこにある白。リエッタの、あの緩い波の髪に、この花を挿したら。想像した瞬間、アルシアの指が、無意識に、髪飾りへ伸びていた。
「お目が高い」
店主が、にこやかに言った。歳のいった女だった。
「それは、貝細工でね。汗をかいても曇らない。旅のあいだも、挿していられる。――大切な人へ、かい」
大切な人へ。
その一言で、アルシアの指が、止まった。
伸ばした手が、宙で、行き場を失う。店主は、こちらとリエッタの関係も知らずに、ただ商売の言葉として言ったのだろう。大切な人へ。多くの客が、そう言われて、財布を開くのだろう。
だが、アルシアには、その言葉が、刃のように刺さった。
大切な人。確かに、そうだ。リエッタは、アルシアにとって、この世でいちばん大切な人だった。だからこそ、贈れない。
この花を、リエッタの髪へ挿すことは、贈り物ではない。もっと重いものを、渡すことになる。好きだ、と言うのと、同じことになる。家族として、ではなく。命紬で繋がれた相手として、でもなく。ただ、アルシアが、リエッタに、そうしたいから。
そして、アルシアには、その資格がなかった。
自分は、リエッタを縛っている側だ。命紬で繋がれているのは、五年前、アルシアを庇ったからだ。リエッタは、アルシアのために魔炉を失い、アルシアの魔力に、生かされている。その相手へ、花を贈る。喜ばせる。近づく。それは、繋がりを、もっと強くすることだ。逃げ道を、もう一本、塞ぐことだ。
リエッタが、いつか自由になったとき。この髪飾りが、足枷の一つに、ならないと言えるか。
言えなかった。
アルシアは、手を引いた。
「……いや」低く言った。「間違えた」
「そうかい」店主は、あっさり引いた。無理に勧めるふうもなく、髪飾りを、元の台へ戻した。白い花が、木の台の上で、また朝の光を受けて、内側から淡く光った。
アルシアは、その店の前を、離れた。
数歩歩いて、一度だけ、振り返りそうになった。振り返らなかった。振り返れば、また、指が伸びる。伸びた指を、また、引かなければならない。二度も、同じ痛みを、味わう必要はなかった。
井戸へ向かう道すがら、アルシアは、自分の胸を、初めて、正面から覗いた。
これは、家族への責任では、ない。
責任なら、花は要らない。責任なら、髪の白を、失ったものの色として、悼めばいい。だが、アルシアは、あの白へ、花を添えたいと思った。喜ぶ顔を、見たいと思った。それは、守ることとも、償うこととも、違う場所から来ていた。
初めて、アルシアは、その場所に、名前があることを、疑った。
名前は、まだ、つけなかった。つけるには、井戸までの道は、短すぎた。
*
井戸の前で、リエッタは、もう待っていた。
荷袋から、何かの端が覗いている。近づくと、それは、防水布だった。また、防水布だ。
「これ、もう一巻き買っちゃった」リエッタが、少し照れたように言った。「昨日ので足りるんだけど、雨、来そうだから。工具、濡らしたくなくて」
「三巻きになったな」
「うん。もう、防水布の旅だね、これ」
リエッタは笑った。素の笑いだった。髪飾りのことも、アルシアが装身具の店の前で手を引いたことも、何も知らない。ただ、防水布を三巻き抱えて、雨の心配をしている。その無防備な明るさが、アルシアの胸の、名前をつけかけた場所を、また、静かに疼かせた。
この人は、知らない。アルシアが、白い花を、諦めたことを。
知らないままで、いい。知れば、リエッタは、また何かを背負う。アルシアの諦めまで、自分のせいにしかねない。だから、髪飾りは、通りの店に、置いてきた。リエッタの髪に、白い花はない。それでいい。
そう思うのに、胸の疼きは、消えなかった。
*
雨は、街道へ出て、半刻ほどで降り出した。
ミラの言った通りだった。西の空から、灰色の雲が押し寄せ、細い雨が、街道の土を叩き始めた。二人は、道の脇の、大きな樹の下へ入った。枝が広く張り、幹のそばは、まだ濡れていない。雨脚は、次第に強くなった。
リエッタは、さっそく防水布を出し、工具袋を包んだ。三巻きのうちの一巻きが、さっそく役に立った。「ほらね」と、得意げに言う。
アルシアは、幹に背を預け、雨の向こうを見ていた。
雨は、道の輪郭を、少しずつ消していく。灰色の中で、リエッタの白い髪だけが、妙に明るかった。あの白へ、白い花を。もう、届かない場所にある花のことを、アルシアは、また考えた。
リエッタが、身を震わせた。雨で、気温が下がっている。工具は包んだが、自分の肩は、濡れ始めていた。
アルシアは、外套の留め具に手をかけた。
熱があるのは、自分のほうだった。微熱は、朝から続いている。外套を脱げば、身体は冷える。だが、リエッタを濡らしたままにするより、いい。アルシアは、外套を外し、リエッタの肩へ掛けた。
「着ろ」
「え、アルシアが濡れるよ」
「私は乾かせる」
熱変換は、アルシアの得意な調律だ。濡れた布を、身体の周りで乾かすことは、できる。魔力を使うが、微熱一つぶんなら、賄える。事実だけを渡せば、リエッタは、遠慮の理由を失う。アルシアは、そう計算した。
リエッタは、外套の襟を、少しのあいだ、握っていた。それから、素直に、肩へ引き寄せた。アルシアの体温が、まだ残っている布だった。
「……あったかい」
小さな声だった。
アルシアは、雨のほうを見たまま、答えなかった。答えれば、声が、いつもの硬さを、保てない気がした。
二人は、樹の下で、雨がやむのを待った。リエッタは、アルシアの外套にくるまり、アルシアは、微熱の身体で、その隣に立っていた。半歩の距離。近づけば、守りやすい。近づきすぎれば、手を伸ばす理由を、探してしまう。
アルシアは、半歩を、守った。
*
雨は、四半刻で、上がった。
雲の切れ間から、薄い日が差し、濡れた街道が、鈍く光った。二人は、樹の下を出て、また西へ歩き出した。リエッタは、アルシアへ外套を返そうとしたが、アルシアは「乾くまで着ていろ」と言って、受け取らなかった。
しばらく歩いて、アルシアは、来た道を、一度だけ振り返った。
雨に洗われたレグナの通りが、遠く、小さく見えた。あの通りの、角の店に、白い花の髪飾りが、まだ並んでいるはずだった。貝細工の花弁が、雨滴を受けて、内側から、淡く光っているだろう。誰かが買うまで、あそこに在る。アルシアが、買えなかった花が。
歩くごとに、レグナは遠ざかった。
白い花も、店先ごと、雨の向こうへ、遠ざかっていった。
第七章 エルドラ遺構
エルドラの入口は、丘の崩れた斜面に、口を開けていた。
リュネを発って、六日目だった。ガルドは歩いて四日と見積もったが、レグナで一泊し、雨に降られ、道は捗らなかった。二日、余計にかかった先。地図では「墓所」と記された場所に、実際にあったのは、崩れた石組みの水路跡だ。かつては地上を流れていたらしい水路が、地盤ごと沈み、斜面へ半ば埋もれている。入口の縁石には、古い彫りがあった。二つの星を、細い線で繋いだ紋様。土地の者が墓標だと思ったのも、無理はなかった。
「ここから下だ」アルシアが、洞の奥を見た。「空気が動いている。中に、抜け道がある証拠だ」
リエッタは、腰の麻紐を確かめた。二人の腰を、四歩ぶんの長さで繋いでいる。魔力を使わない、ただの紐。壁が命綱を鈍らせる場所で、いちばん確かな命綱だった。
「離れそうになったら、引いて」
「わかっている」
二人は、洞へ入った。
*
上層は、乾いた水路だった。
かつて水が流れていた石の樋が、下り勾配で奥へ続いている。天井は低く、アルシアは杖を短く持って、背をかがめた。灯は、リエッタの提げた小型灯具。壁が魔力を乱反射するせいか、光がいつもより届かず、輪郭がぼやける。導晶の残量が、使っていないのに、じわりと目盛りを下げていた。ミラの言った通りだった。魔素が、薄い。
しばらく下ると、壁一面に、彫りが現れた。
星形の模様だった。中心に大きな星が一つ。そこから、細い線が幾重にも枝分かれし、壁を這って、床のほうへ消えている。入口の縁石と、同じ星の意匠だ。一見すると、墓所の装飾に見える。死者を送る、星の紋様。
だが、リエッタは、その前で足を止めた。
「これ、飾りじゃない」
「墓の紋ではないのか」
「墓の紋なら、左右で対称にする。装飾は、揃ってると美しいから」リエッタは、灯を近づけた。「でも、これ、対称じゃない。中心の星から出てる線、太さがバラバラだよ。太い線、細い線、途中で分岐する線。飾りなら、こんな不揃いにしない」
指で、太い線をたどる。線は、壁を下り、床の樋へ繋がっていた。細い線は、別の方向へ枝分かれし、壁の窪みへ消える。
「わかった。……たぶん、だけど」リエッタは、まだ断定しなかった。「これ、流量図だ。中心の星が、水か魔力を配る節点。太い線は、たくさん流す経路。細い線は、少し流す経路。線の太さは、流す量を表してる。墓じゃなくて、設備の見取り図だよ」
「確かめられるか」
「うん。太い線の先に、大きい樋があれば、当たり」
リエッタは、太い線をたどって、壁沿いに数歩進んだ。線が消えた床下を覗くと、そこに、上層でいちばん大きな樋の口があった。太い線は、いちばん流量の多い経路へ繋がっていた。仮説が、一つ、裏を取った。
「当たりだ」リエッタは、少しだけ声を弾ませた。「エルドラは、墓所じゃない。水を、魔力を、どこかへ配ってた施設。この星は、その配電盤の図なんだ」
アルシアは、その説明を、壁の図と、リエッタの指を、交互に見ながら聞いていた。理解しているというより、リエッタが理解していることを、確かめる目だった。
「星が、中心か」アルシアが、ぽつりと言った。「――王家の紋に、似ている」
リエッタは、顔を上げた。
言われてみれば、そうだった。二つの星を線で繋ぐ意匠は、この国の王家の紋章に近い。だが、なぜ古代の設備の見取り図に、王家の紋が使われているのか。リエッタには、分からなかった。分からないことは、頭の隅へ書き留めた。星形。双つの星。依頼書の透かしにも、星があった。まだ、線は繋がらない。
「先に進もう」リエッタは言った。「わからないことは、奥に答えがあるかも」
*
下り勾配が急になったところで、アルシアが、突然、腕を横へ伸ばした。
リエッタの胸の前で、腕が止まる。進むな、の合図だった。
「どうしたの」
「砂だ」
アルシアの視線の先、通路の天井から、細かい砂が、糸のように落ちていた。ほんの一筋。だが、閉じた通路の天井から、砂が落ちる理由は、一つしかない。上の石が、動いている。
ミラの言葉が、リエッタの頭で鳴った。天井から、細かい砂が先に落ちる。音が聞こえたときは、もう遅い。
「落盤だ」リエッタは、灯を天井へ向けた。「まだ崩れてない。予兆だけ。……なら、引き金がある」
罠だとすれば、何かが引き金を引く。人が通れば崩れる仕掛け。リエッタは、床を灯で照らした。通路の中ほどに、他より色の薄い石板が、一枚あった。周りの石と、目地の詰め方が違う。踏めば沈む、圧の板だ。
「あの板、踏むと崩れる。たぶん、板の重みが、天井の石を留めてる楔を外す仕組み」リエッタは、しゃがんで、板の縁を見た。「昔は、水の重みで釣り合ってたのかも。水が抜けて、釣り合いが崩れて、今は人の重みで落ちる罠になってる」
「壊すか」
「駄目。壊したら、その瞬間に崩れる」リエッタは首を振った。「避ける。板を踏まなきゃいい。端が、少し広い。壁際を、一人ずつ、体重をかけないように」
戦って突破するのではない。仕組みを読んで、避ける。アルシアは、リエッタの読みに、異を唱えなかった。麻紐を少し緩め、リエッタを先に、壁際へ通した。リエッタが渡りきると、紐が張る前に、アルシアも壁際を渡った。二人とも、色の薄い石板を、踏まなかった。
天井の砂は、落ちるのをやめた。
「……通った」リエッタは、詰めていた息を吐いた。「ミラのおかげだ。砂を見ろって、教えてくれたから」
「お前が、板を見つけた」アルシアが言った。短い言葉だった。だが、それは、守られる側への言葉ではなかった。判断を、任せた者の言葉だった。
リエッタは、その響きに、胸の奥が、少し熱くなった。命紬の温度ではなかった。
*
中層へ下りると、命紬の流れに、妙な感触が混じり始めた。
リエッタは、腰の残量計へ指を当てた。流れは、細っている。距離のせいだ、と最初は思った。深くなるほど、地上のアルシア――いや、アルシアはすぐ後ろにいる。距離ではない。なのに、流れが、揺れる。
細り、戻り、また細る。
一定の間隔で、脈のように、強弱していた。
「アルシア、ちょっと止まって」リエッタは、指を当てたまま、数えた。「……命紬が、脈打ってる。距離で細るなら、ずっと細るはず。でも、これ、強くなったり弱くなったりしてる。波みたいに」
「私の魔力は、一定に流している」
「うん。アルシア側じゃない。何かが、外から、流れに触ってる」リエッタは、壁の星形図を思い出した。「この遺構が、まだ、生きてるんだ。動いてる仕組みが、命紬の流れに、干渉してる。……なんでかは、わからないけど」
分からなかった。命紬は、アルバスが施した術だ。古代の遺構と、繋がる理由がない。だが、遺構の奥へ近づくほど、脈は、はっきりしてきた。まるで、命紬のほうが、この場所の何かに、応えているように。
書き留めた。星形。双つの星。脈打つ命紬。線は、まだ繋がらない。だが、繋がる予感だけが、指先に残った。
そのとき、水路の奥から、殻を擦るような音がした。
*
魔物だった。
腕ほどの長さの、甲殻を持つ、水路に棲むものだ。節くれ立った脚で壁を這い、頭部の裂け目から、薄く発光する気体を吸っている。魔素を喰う虫だ、とリエッタは直感した。魔素の薄いこの場所で、生き延びている理由が、それだった。
一匹ではなかった。奥の暗がりから、数匹が、擦れる音を重ねて近づく。
「下がれ」アルシアが、前へ出た。
だが、下がる場所は、狭かった。背後は、さっきの落盤通路だ。逃げれば、板を踏む危険がある。前で、止めるしかない。
アルシアが、掌を突き出した。冷却の魔法。先頭の一匹が、脚を白い霜に包まれ、動きを鈍らせる。だが、甲殻が厚い。凍りきる前に、別の一匹が、横から跳んだ。アルシアの腕へ、鋏のような脚が振り下ろされる。
リエッタは、叫ばなかった。
代わりに、アルシアの左腕を、見ていた。そこには、腕帯がある。渡した、あの防護具だ。
鋏が、腕帯を打った。
導晶が、衝撃を受け止め、熱へ散らした。アルシアの腕は、切れなかった。帯の表面が、じ、と熱を持ち、力が面へ逃げる。一度なら、受け流せる。三度までの、その一度目だった。
「アルシア、関節!」リエッタは、凍りかけた先頭の一匹を指した。「脚の付け根、霜で脆くなってる。そこ!」
アルシアは、冷却で鈍らせた一匹の、凍った関節へ、杖の石突きを打ち込んだ。脆くなった殻が、割れる。魔物が、崩れた。
冷却だけでは、甲殻を割れない。防護具だけでは、攻撃を止められない。二つを組み合わせて、初めて、突破できた。アルシアが霜で脆くし、リエッタが弱点を見つけ、アルシアが砕く。役割が、噛み合っていた。
残りの数匹は、仲間の崩れる音に、水路の奥へ引いた。
「……いける」リエッタは、腕帯を見た。「一度、使ったね。あと二度」
「余り物にしては、よく働く」アルシアが、腕帯の熱を、袖の上から確かめた。
「余り物、だからね」
リエッタは笑った。今度の嘘は、二人とも知っている嘘だった。
だが、笑いながら、リエッタは、アルシアの息を聞いていた。
魔物を退けたあと、アルシアの呼吸は、すぐには戻らなかった。冷却の魔法を二度使い、杖で殻を砕いた。それだけなら、この人は、息一つ乱さない。街道で、もっと大きな獣を、平然と沈めるのを見てきた。なのに、今は、肩がわずかに上下している。掌の指先に、自分でかけた霜が、溶けずに白く残っていた。
魔素が、薄いのだ。
この遺構は、環境の力を吸い上げている。周りの魔素が、絶えず削られている。健康な冒険者でも、じわじわと力を奪われる場所だ。そこでアルシアは、冷却の魔法を使い、そのうえ、リエッタへ命紬を流し続けている。自分の魔炉で作った魔力を、薄い空気の中で、二人ぶん、回している。微熱の身体で。
「アルシア」リエッタは、笑うのをやめた。「魔力、どのくらい残ってる」
「足りている」
「数字で」
「必要なぶんはある」
数字を、言わなかった。それが、答えだった。足りているなら、数字を言う。言わないのは、言えば止められると分かっているからだ。リエッタは、腰の残量計へ手をやった。自分の側の流れは、まだ保たれている。アルシアが、自分を削って、保たせている。
「奥まで行けば、変換の核がある」リエッタは、努めて静かに言った。「そこで、少し休もう。アルシアも」
「私は平気だ」
「うん。平気だよね」
平気じゃない、と言えなかった。ここで言えば、アルシアは、なお無理をして、平気を証明しようとする。守る側は、弱っていることを、いちばん最後まで認めない。リエッタは、その頑固さを、五年、見てきた。
胸の奥で、何かが、少しずつ、熱を持ち始めていた。命紬の温度ではない。もっと、腹の立つ種類の熱だった。
*
中層のいちばん奥に、制御室があった。
円い部屋だった。中央に、大きな石の台。壁には、あの星形図が、上層のものより精密に彫られている。台の上には、古代文字の刻まれた盤が、いくつも並んでいた。リエッタは、防水布に包んだアルバスの頁を出し、盤の文字と照らし合わせた。
「読める……ところと、読めないところがある」リエッタは、慎重に言った。「全部はわからない。でも、この記号、父さんのノートにもあった。たぶん、『変換』を表す字」
盤の図を、指でたどる。地下から上がる矢印。それが、中央の星形を通って、上層へ広がる。矢印の根元に、熱を表す波形と、水の流れを表す線が、描かれていた。
「わかってきた」リエッタは、頁と盤を、交互に見た。「エルドラは、地熱と、水の流れを――地面の熱と、水路の水の動きを、集めて、魔力に変える施設だったんだ。深部に、その変換の核がある。それが、たぶん」
魔力を、生成する遺物。
依頼書の一行が、頭に浮かんだ。だが、リエッタは、その言葉を、そのまま信じなかった。この盤が正しければ、深部の核は、無から魔力を生んでいるのではない。地熱と水流という、入力を、魔力へ変換している。生成器ではなく、変換器だ。
「無限に湧く機関じゃない」リエッタは、静かに言った。「入力があって、初めて出力がある。地熱と、水が要る。……でも、それでも、すごいことだよ。人の魔炉を通さずに、環境の力を、魔力に変えられるなら」
人の魔炉を、通さずに。
リエッタの胸が、動いた。壊れた魔炉を持つ自分でも、この変換の仕組みがあれば――。だが、その先を、まだ確かめてはいなかった。仮説だ。深部の核を、見るまでは。
そのとき、部屋が、震えた。
*
地の底から、低い響きが上がってきた。
制御室の床の樋が、乾いていたはずの石の溝が、湿り気を帯びた。どこかで、止まっていた水が、動き出したのだ。二人が中層まで下りたことで、あるいは、盤に触れたことで、眠っていた仕組みの一部が、目を覚ました。
床の下で、光が走った。
石畳の目地に沿って、淡い金色の線が、一本、灯った。星形図の中心から、深部へ向かって伸びる線だった。それが、脈打つように、一度、強く光り――消えた。
同じ瞬間。
リエッタの胸の奥、壊れた魔炉の周りを流れる命紬が、床下の線と、同じ拍で、脈打った。
床の淡金と、身体の中の一拍が、揃った。
リエッタは、息を止めて、その一致を、聞いていた。
第八章 熱のある手
避難室は、円い小部屋だった。
制御室のさらに奥、中層の行き止まりに、それはあった。かつては、作業者が休むための部屋だったのだろう。壁に石の寝台のような段があり、天井は他より高い。魔素の薄さは、ここでも変わらないが、少なくとも、魔物は入ってこられない造りだった。入口は一つ。アルシアが、その一つを、座る前に確かめた。
「今夜は、ここで休む」リエッタは言った。「深部は、明日」
アルシアは頷き、石の段に腰を下ろした。腰を下ろす、というより、崩れるように座った。
リエッタは、それを、見逃さなかった。
灯具を近くの窪みへ置き、アルシアの前へ回る。膝をついて、顔を見上げた。灯の下でも、頬が赤い。レグナからずっと、この赤みは引いていない。むしろ、濃くなっている。
「手」
「なんだ」
「貸して」
アルシアが、いつものように手首を差し出す。命紬の流れを測るときの、慣れた所作だ。だがリエッタは、今日は、流れを測らなかった。
手首の内側ではなく、手の甲へ、掌を重ねた。それから、その手を、アルシアの額へ持っていった。
熱かった。
命紬の温度ではない。病の熱だった。指の腹が、はっきりと、それを拾った。額から、こめかみへ、首筋へ。どこも、熱を持っている。掌を離すと、自分の掌にまで、熱が移っていた。
「いつから」リエッタは訊いた。
「……何が」
「熱。いつから」
アルシアは、答えなかった。目を、逸らした。言えない時に袖口の留め具へ触れる癖が、出かけて、止まった。
「レグナだね」リエッタは、答えを、自分で置いた。「宿で、顔が赤かった。湯のせいって言った。あれ、嘘だ。あのときから、熱があった。三日、隠して歩いた」
「歩ける熱だ」
「歩けるかどうかを、聞いてない」
リエッタの声が、少し、低くなった。
アルシアの手首を、今度は測った。流れは、まだ、リエッタの側へ届いている。だが、その源が、細く、荒い。魔炉が、無理をしている音が、指先に伝わってくる。熱で弱った身体が、魔素の薄い場所で、二人ぶんの魔力を回している。命紬の供給と、遺構の干渉。二つの負荷が、同時に、アルシア一人へ、かかっている。
「わかった」リエッタは、指を離した。「二重だ。命紬で私に流して、遺構に魔素を吸われて、そのうえ熱がある。三つ、一度に。魔炉が、保つわけない」
「保っている」
「今は、ね」
リエッタは、腰の工具袋から、小さな冷却具を出した。導晶と刻印板を組んだ、掌大の道具だ。熱を、一方へ移す。旅の常備品だった。窪みへ置き、起動する。青い光が、灯った。
「額、冷やす。動かないで」
「魔力を使うな。お前の――」
「私の残量なら、大丈夫。今、測った」リエッタは、冷却具をアルシアの額の近くへ寄せた。「アルシアが、勝手に測らないで。私の身体は、私が測る」
青い光が、アルシアの熱を、少しずつ引いていく。アルシアは、抵抗しなかった。抵抗する力も、もう、あまり残っていないのかもしれなかった。
しばらく、二人とも、黙っていた。
冷却具の青い光だけが、避難室の壁を照らしていた。
「――早く」
アルシアが、口を開いた。掠れた声だった。
「早く、遺物を取れば」
その先を、アルシアは、言いかけて、止まった。
リエッタには、続きが、聞こえる気がした。早く遺物を取れば、お前が自由になる。命紬が、要らなくなる。私が、お前を削らずに済む。だから、無理をしてでも、進みたい。熱を隠したのも――止められて、遺物が遠のくのが、怖かったからではないか。声にならなかったその先を、リエッタは、勝手に、そう読んだ。読んでしまえるほど、この人のことを、知っていた。
けれど、アルシアは、口にした言葉を、途中で、別のものへ換えた。
「……早く取れば、依頼が、片づく。それが、私の、仕事だ」
責任へ、戻した。いつものように。本当のところを、義務の下へ、畳んだ。
リエッタの中で、芽生えていた熱が、そこで、火になった。
「やめて」
短かった。
リエッタは、笑っていなかった。嫌われないための笑顔も、場を軽くするための笑いも、消えていた。目が、細くならなかった。作り笑いのできない顔で、リエッタは、アルシアを、真っ直ぐに見た。
「仕事、じゃないでしょ」
「リエッタ」
「私を自由にするために、アルシアが死んだら、意味ないんだよ」
声は、大きくなかった。だが、避難室の石壁に、それは、はっきりと響いた。
「遺物を取って、命紬が解けて、私が一人で生きられるようになって。それで、アルシアが、無理して倒れて、いなくなったら。私、何のために、自由になるの」
アルシアが、口を、開きかけた。何か言おうとして、言葉が、見つからないようだった。
「守るって、いつも言う。私を守るって。でも、アルシアが倒れるのは、守るうちに入らないの?」リエッタは、膝を、一歩詰めた。「アルシアが熱を隠して、魔力を削って、私に何も言わないで倒れるのは、私を守ってることになるの? ならないよ。全然、ならない」
文が、短くなっていた。怒ると、そうなる。飾りが、削げ落ちる。
「今夜は、命紬、絞って」リエッタは言った。「私が、生きるぎりぎりまで、流すのを減らして。私の残量が減ったぶんは、私が我慢する。アルシアの熱が引くまで、私が、少し、しんどいのを引き受ける。それでいい。それが、いい」
「駄目だ」アルシアが、掠れた声で言った。「お前が、危ない」
「アルシアだって、危ない」
「私は――」
「アルシアは、私を守る係じゃない」リエッタは、遮った。「一緒に、生きて帰る係だよ。二人で。どっちかが倒れる帰り方は、なし」
避難室が、静かになった。
冷却具の青い光の中で、アルシアは、リエッタの、笑っていない顔を、見ていた。長いあいだ、見ていた。
そして、アルシアの肩から、力が、抜けた。
安心すると、肩がわずかに下がる。その癖が、出ていた。怒鳴られて、責められて、それなのに、この人は、肩の力を抜いた。リエッタは、その変化に、気づいた。
「……なんで、ほっとしてるの」
「していない」アルシアは言った。それから、少しの間を置いて、言い直した。「……わからない」
わからない、と言った。だが、その声は、避難室へ入ってきたときより、ずっと、楽になっていた。止められて、安堵している。義務ではなく、心配されて。削ることを、許されずに。アルシア自身が、その安堵に、戸惑っているのが、分かった。
リエッタは、それ以上、問い詰めなかった。代わりに、冷却具の向きを、少し直した。青い光が、アルシアの額を、また冷やし始める。
「今夜は、絞って。約束」
「……わかった」
初めて、アルシアが、無理を、手放した。
リエッタは、石の段に背を預けた。命紬の流れが、少し細くなるのを、感じた。約束通り、アルシアが、供給を絞ったのだ。自分の側が、じわりと、心許なくなる。それでいい、と思った。この夜、しんどいのは、自分の番だった。
供給が絞られると、身体は、正直だった。
指先から、体温が引いていく。魔素の薄い避難室では、自分で温める術がない。リエッタは、外套を深く引き寄せ、膝を抱えた。眠気とは違う、鈍い重さが、手足の芯へ溜まっていく。これが、供給の要る身体だった。命紬がなければ、こうなる。何日か続けば、臓腑が、緩やかに止まる。今夜は、そこまではいかない。一晩、絞るだけだ。それでも、身体は、細くなった流れを、正確に数えて、震えた。
アルシアの熱を下げるために、自分の生命を、少し前借りする。天秤の、こちら側へ、錘を移す。ちょうど、工房の模型で、力の向きを試したときのように。ただ、今度の模型は、二人の、本物の身体だった。
寝台の段で、アルシアの呼吸が、深くなった。
冷却具の青い光が、その寝顔を、照らしている。額の赤みは、少し、引いていた。熱が、下がり始めている。眠れたのだ。三日、隠して歩いた身体が、ようやく、休むことを、自分に許した。リエッタが、許させた。
リエッタは、冷たくなった指で、冷却具の目盛りを、少しだけ弱めた。冷やしすぎれば、今度は身体が冷える。額へ手をかざし、熱を確かめ、また目盛りを直す。夜のあいだ、それを、何度か繰り返した。眠らずに。かつて、アルシアが、作業台で眠る自分に、毛布を掛けたように。今夜は、順番が、逆だった。
「……起きてるのか」
夜半、アルシアが、薄く目を開けた。
「冷やしすぎてないか、見てるだけ」リエッタは言った。「寝てて」
「お前が、寒いだろう」
流れを絞られたリエッタが、冷えていること。それを、アルシアは、分かっているはずだった。分かっていて、それでも、絞ってくれた。リエッタが、そう望んだから。この人が、自分の判断より、誰かの望みを、先に置くところを、リエッタは、初めて見た気がした。その代償が、自分の震える指だと、アルシアも知りながら。
「寒いよ」リエッタは、正直に言った。嘘の笑顔は、もう、今夜は使わなかった。「でも、これは、私が選んだ寒さ。アルシアが勝手に決めた無理じゃない。全然、違う」
アルシアは、何か言いかけて、やめた。代わりに、石の段の上で、身をずらした。空いた半分を、リエッタへ、譲るように。
「……壁際は、冷える。こっちは、まだ、温い」
熱のある身体は、それ自体が、火だった。リエッタは、少し迷って、それから、段の端へ腰を移した。アルシアの熱が、隣から、じんわりと伝わってくる。病の熱だ。下げるべき熱だ。それでも、その熱は、絞られて冷えたリエッタの身体を、確かに、温めた。
二人は、それ以上、何も言わなかった。一人は熱を下げられ、一人は熱を分けてもらい、青い光の中で、朝を待った。
夜明けが近づくころ、アルシアの寝息は、すっかり深くなっていた。
額に手をかざすと、熱は、ほとんど引いている。魔炉も、供給を絞ったぶん、休めたのだろう。荒かった魔力の音が、指先で、落ち着いていた。もう、大丈夫だ。リエッタは、そっと、石の段を下りた。眠るアルシアの、その眠りを、崩さないように。
避難室の床へ、リエッタは、座り込んだ。冷却具のそばだった。目盛りを、いちばん弱くする。青い光が、細く残る。もう冷やす必要はないが、消すと、この部屋は、暗くなりすぎる。番をするには、少しの光が要った。
膝を抱えて、リエッタは、天井を見上げた。
笑っていない自分の顔が、冷却具の青い光に、照らされていた。床の石にも、壁にも、その青が、淡く映る。怒ったあとの顔は、まだ、少しこわばっている。頬の筋が、笑うときの形を、忘れかけている。
けれど、笑わなかったことを、リエッタは、後悔していなかった。
嫌われるのが、怖くなかったわけではない。笑わずにアルシアを責めれば、この人が離れていくかもしれない。そう思う心は、まだ、胸のどこかにある。それでも、今夜は、笑顔より、アルシアの命のほうを、選んだ。初めて。
青い光の中で、リエッタは、眠るアルシアの寝息を、数えた。一つ、二つと、その息が続くたび、自分の選択が、間違っていなかったことが、静かに、確かめられた。
青い光は、朝が来るまで、消えなかった。
第九章 守護者の部屋
変換核室は、深部の底にあった。
避難室を発ち、暁から、半日ほど下った先。天井の高い、広い円堂だった。中央に、石の台座が据えられ、その上に、掌大の遺物が載っている。淡く光を帯びた、環の刻まれた珠。転律珠だ、とアルシアには、確信があった。依頼書の一行が、そこに、実物として在った。
そして、台座の手前に、それはいた。
石でできた、大きな影だった。人の三倍はある背丈。腕は太く、脚は柱のようで、関節ごとに、金属の弁が嵌まっている。眠っているように、うずくまっていた。守護者だ。ミラの言った、水圧で動く番人。
アルシアは、リエッタを、半歩後ろへ庇った。魔力の残量は、心もとない。昨夜、熱で削られた魔炉は、まだ、本調子ではなかった。それでも、前に立つのは、自分の役だと思った。
一歩、踏み込んだ。
守護者が、目を覚ました。
*
低い音が、円堂を満たした。
関節の弁が開き、水が押し出される音。石が擦れ、腕が持ち上がる。守護者は、ゆっくりと立ち上がった。その動きは、機械のはずなのに、生き物のようだった。関節の水が、体液のように巡り、石の腕が、獲物を探して、宙を掻く。
その音を、アルシアは、知っていた。
関節を巡る液の音。石とも骨ともつかないものが、擦れて動く音。この五年、雨の夜に、幾度も夢で聞いた音だった。
――五年前。
新暦三一三年の、森の夜。二人は、まだ十三だった。父の使いで、薬草を採りに、リュネの外れの森へ入った。日が落ちて、帰り道を急いでいた。そのとき、下草の向こうから、それが現れた。
魔脈を狙う獣だった。断脈獣、と父は呼んだ。なぜ、あんなものが、あの夜、あの森にいたのか。それは、今も、分からない。関節から、粘つく液を滴らせ、擦れる音を立てて、闇の中を、こちらへ来た。目のない頭が、二人の魔力の匂いを、嗅ぎ分けるように、ゆっくりと、向きを変えた。
アルシアは、前に出ようとした。冷却の魔法を、練った。守るのは、自分の役だと、そのときも思った。
だが、先に動いたのは、リエッタだった。
アルシアの腕を、突き飛ばすように押しのけて、リエッタが、前へ出た。獣の狙いを、自分へ引くように。なぜ、と問う間もなかった。獣の爪が、振り下ろされた。アルシアの立っていた場所ではなく、その半歩前の、リエッタの胸へ。
貫かれる音を、アルシアは、生涯、忘れないだろう。
リエッタの魔炉が、砕けた。血の匂いが、夜気に散った。崩れ落ちるリエッタを、アルシアは、受け止めた。深い紫だった髪が、腕の中で、みるみる、色を失っていった。獣は、目的を果たしたように、闇へ退いた。父が駆けつけたのは、そのあとだ。父が、命紬を施したのも。
守れなかった。前に出たのは、リエッタだった。アルシアは、そのとき、ただ、動けずにいた。
そして今も。
アルシアの身体が、止まった。
脚が、動かなかった。掌に、魔力を練ろうとして、指が、震えた。守護者の腕が、振り上げられている。避けなければ。分かっているのに、身体が、五年前の森へ、縫い付けられていた。石の番人と、断脈獣の影が、重なって、剥がれない。
「アルシア!」
紐が、引かれた。
腰の麻紐が、強く引かれ、アルシアの身体が、後ろへ傾いた。守護者の腕が、たった今まで立っていた場所を、薙いだ。風圧が、頬を打つ。リエッタが、紐を引いたのだ。
「大丈夫。私は、庇わない」
リエッタの声が、耳元でした。
庇わない。五年前と、違う。リエッタは、前へ出て、囮にはならなかった。代わりに、アルシアを、後ろへ引いた。二人とも、守護者の間合いの、外へ。
「アルシア、聞こえてる?」リエッタの声は、落ち着いていた。「五年前じゃない。これは、機械。倒せる。でも、力じゃ無理。一緒に、仕組みを見て」
仕組みを、見る。
その言葉が、アルシアを、森から、少しだけ引き戻した。震えは、まだ止まらない。だが、リエッタの声が、今、ここに、ある。五年前、聞けなかった声が。アルシアは、歯を食いしばり、守護者を、獣ではなく、機械として、見ようとした。
すぐには、できなかった。
*
「弁を見て」リエッタが、守護者の関節を指した。「肩、肘、膝。動くたびに、弁が開いて、水が回ってる。水圧で、腕を動かしてるんだ」
守護者が、また腕を振るう。二人は、間合いの外へ、退がった。魔素の薄い円堂で、アルシアの息は、すぐに上がった。熱明けの身体が、悲鳴を上げている。長くは、動けない。
「規則があるはず」リエッタは、守護者の動きを、目で追い続けた。「水を回すには、順番が要る。肩の弁が開いてるときは、肘は固定されてる。じゃないと、腕全体が、ぐにゃぐにゃになる。……見えた。肩が開いてる一瞬、肘の関節は、水が抜けてる。そこが、弱い」
「一瞬だぞ」アルシアは、掠れた声で言った。
「うん。だから、私が、合図する」リエッタは、アルシアを見た。「アルシアの冷却で、肘の水を凍らせて。凍った直後に、思いきり、熱を入れて。氷は膨らむ。急に温めれば、石ごと、割れる。冷やして、温める。私が、開く瞬間を、言う」
冷却と、熱膨張。アルシアの、得手だ。だが、それを、リエッタの合図の、一瞬に、合わせる。自分の目ではなく、リエッタの目を、信じて。
五年前は、自分の目だけを、信じた。自分が前に出て、自分が守れば、と。その結果が、リエッタの、砕けた魔炉だった。
今度は、違うやり方を、選べるか。
「――信じる」アルシアは言った。「合図を、くれ」
リエッタが、頷いた。守護者の腕の動きを、数えている。肩の弁が、開く。肘の水が、抜ける。
「今!」
アルシアは、掌を、肘の関節へ向けた。冷却。凍てつく風が、関節の水を、白い氷へ変える。間髪入れず、熱。凍った氷が、急激に温められ、体積を変えようとして、石の隙間を、内側から押し広げる。
亀裂が、走った。
だが、一度では、割れきらなかった。熱明けの魔力では、熱膨張の圧が、足りない。守護者が、身をよじり、腕を、アルシアへ、振り下ろした。
避けきれない。
アルシアの左腕が、とっさに、上がった。その腕には、腕帯があった。リエッタの、余り物。
石の拳が、腕帯を、打った。
導晶が、衝撃を受け止めた。力が、熱へ散り、面へ逃げる。アルシアの腕は、折れなかった。だが、その一撃は、腕帯の、限界を超えていた。導晶が、割れる音がした。刻印板が、ひび割れ、革が、焦げる。一度だけ、直撃を防いで、腕帯は、壊れた。
「もう一回!」リエッタが、叫んだ。「同じ関節! ひびが入ってる! 今度は、割れる!」
アルシアは、壊れた腕帯を巻いたままの腕で、もう一度、掌を向けた。冷却。熱。さっきの亀裂へ、二度目の圧が、入る。
肘の関節が、砕けた。
水が、噴き出した。守護者の腕が、力を失い、垂れ下がる。片腕を失った番人は、均衡を崩し、残る腕で、巨体を支えようとして、よろめいた。リエッタは、その隙に、膝の関節を指した。アルシアは、同じ手順を、繰り返す。冷やして、温めて、割る。リエッタが、開く瞬間を、読む。
膝が、砕けた。
守護者は、立っていられなくなった。石の巨体が、水を撒き散らしながら、円堂の床へ、崩れ落ちた。関節の弁が、次々と外れ、溜めていた水を吐き出す。しばらく、痙攣のように石が軋み、やがて、静かになった。
止まった。
力で、押し切ったのではなかった。水圧の仕組みを、リエッタが読み、その一瞬を、アルシアが打った。二人の、どちらが欠けても、この番人は、倒せなかった。
*
アルシアは、床に、片膝をついた。
魔力が、尽きかけていた。指先が、しびれている。だが、それより先に、アルシアの中で、崩れたものがあった。守護者ではない。もっと、古い、思い込みだった。
自分が、リエッタを、守ったのではなかった。
さっき、五年前の森に、縫い付けられて、動けなかったのは、自分だ。守護者の腕から、自分を引いたのは、リエッタの、紐だった。弱点を見つけ、合図を出し、二度目を促したのも、リエッタだった。アルシアは、リエッタの目に、リエッタの判断に、守られていた。
守る側だと、思っていた。守られる、弱い側だと、リエッタを、そう見ていた。だが、この円堂で、守られていたのは、アルシアのほうだった。
その事実は、痛くなかった。むしろ、肩の、いちばん奥の力が、抜けた。
「アルシア、腕、見せて」リエッタが、駆け寄った。壊れた腕帯を、そっと外す。革の下の皮膚は、赤くなっていたが、折れても、裂けてもいなかった。「……守ってくれたね、これ」
腕帯は、割れた導晶を、内側にこぼしていた。三度までの、その一度目で、限界の一撃を受けて、壊れた。リエッタの作った、余り物。それが、アルシアの腕を、一度だけ、守った。
「余り物にしては」アルシアは、掠れた声で言った。「――よく、働いた」
「うん」リエッタは、壊れた腕帯を、握った。捨てなかった。壊れた部品を、そっと、防水布へ包んだ。「よく、働いた」
*
台座の転律珠は、静かに、光を帯びていた。
リエッタが、両手で、それを持ち上げた。掌に載る、環の刻まれた珠。近くで見ると、環は二重で、内側と外側が、別々に回るようになっている。リエッタは、台座の刻印を、灯で照らした。
「やっぱり、生成器じゃない」リエッタは言った。「ここに、書いてある。地下の熱と、水路の水を、この珠が、集めて、変換する。入力があって、出力がある。無から、湧くわけじゃない。……でも、それでいい。環境の力を、人の魔炉を通さずに、魔力へ変える。そういう、装置」
依頼書の「魔力を生成する遺物」は、正しくなかった。だが、リエッタの求めていたものは、たぶん、そこにあった。壊れた魔炉の、代わりになりうる仕組みが。
リエッタが、台座の側面を、指でなぞった。
「アルシア、これ」
台座に、紋が彫られていた。二つの星を、細い線で繋いだ紋。上層の星形図とも、入口の縁石とも、違う。もっと、はっきりと、二つの星が、対になっている。
「双星紋……」リエッタが、呟いた。それから、工具袋から、依頼書を出した。あの、リュネのギルドの依頼書。光へ透かすと、封印とは別に、沈んでいた模様。星が一つ、細い線の輪の中に、沈んでいる透かし。
リエッタは、台座の紋と、依頼書の透かしを、並べた。
台座には、星が、二つあった。依頼書の透かしには、星が、一つ。同じではない。けれど、依頼書の一つ星は、台座の双つ星の、片方だけを、そのまま抜き出したような形をしていた。輪も、線の引き方も、揃っている。片割れ、だった。
「片方だ」リエッタの声が、低くなった。「依頼書の透かしは、この双星紋の、片方の星だけ。二つのうちの、一つを、抜き出したもの。……なんで、リュネのギルドの依頼書に、双星紋の、片割れが、沈んでるの」
アルシアには、答えられなかった。だが、繋がっている、という感触だけは、アルシアにも、あった。この遺物と、この紋と、王家と、そして――リエッタの、脈打つ命紬と。
リエッタが、転律珠を、掌の上で、そっと回した。
*
二重の環が、回り出した。
外側の環が、ゆっくりと。内側の環が、それより、速く。二つの環に刻まれた、二つの星が、別々の速さで、光を巡らせた。
一つは、遅く。一つは、速く。
同じ珠の中で、二つの星が、違う速さで、光っていた。決して、揃わなかった。追い越し、追い越され、また離れ、それでも、同じ環の中を、回り続けた。
リエッタは、その光を、掌で受けたまま、見つめていた。アルシアも、その隣で、二つの星が、別々に光るのを、見ていた。
なぜ、二つなのか。なぜ、揃わないのか。
問いは、まだ、答えを持たなかった。ただ、掌の上で、二つの星が、別々の速さで、光り続けていた。
第十章 罠の光
転律珠が台座を離れた瞬間、円堂の空気が、変わった。
リエッタは、掌の遺物を、防水布へ包もうとしていた。その手が、止まった。壁の星形図が、いっせいに、光を帯び始めたのだ。上層で見た、あの流量図。線という線に、淡金の光が走り、床下の溝が、脈打つように明滅する。
「アルシア、下がって」リエッタは言った。「何か、動いてる」
核を、外した。ということは、この施設にとって、転律珠は、心臓のようなものだったのだろう。心臓を抜かれた身体が、最後の反応を起こす。安全機構だ、とリエッタは直感した。侵入者が核を持ち去ろうとしたとき、それを、閉じ込めるための仕掛け。
床の光が、一点へ集まり始めた。
円堂の中央、二人の立つ場所の、すぐ脇。淡金の光が、渦を巻いて、床から立ち上がる。光の柱だった。触れたものを、どこかへ運ぶ――ミラの言った、光る仕掛け。触れたやつが、次の瞬間、別の場所にいた。転移の罠。
光の柱が、膨らんだ。
アルシアが、いた。ちょうど、その位置に。魔力の枯れた身体で、とっさに退がろうとして、遅れた。光が、アルシアを、飲もうとした。
リエッタの身体は、考える前に、動いていた。
アルシアの肩を、両手で、突き飛ばした。渾身の力で、光の外へ。アルシアの身体が、円堂の床を転がり、光の縁から、外れた。
代わりに、光が、リエッタを、包んだ。
淡金が、視界を、埋め尽くした。足の下の床が、消えた。上も下も、分からなくなる。身体が、糸で引かれるように、どこかへ、引き伸ばされる。最後に見えたのは、床に転がったアルシアが、こちらへ、手を伸ばす姿だった。その手は、届かなかった。
光が、弾けた。
*
固い床の感触が、背中に戻ってきた。
リエッタは、目を開けた。狭い、暗い部屋だった。灯具は、手にない。転移の瞬間に、落としたらしい。わずかに、壁の一部が、燐光を放っている。それだけが、光源だった。四方は、石壁。継ぎ目のない、閉じた区画。隔離区画だ、とリエッタは思った。核を持ち去る者を、閉じ込めるための、独房。
そして、掌には、転律珠が、まだあった。突き飛ばす瞬間も、これだけは、離さなかったらしい。
「アルシアは……」
外へ、押し出せた。光の縁の外に、アルシアの身体は、あった。転がったけれど、飲まれなかった。守れた。
安堵が、胸に、広がった。
間に合った。今度は、間に合った。五年前、前に出られなかった自分。今度は、突き飛ばせた。アルシアを、光の外へ。この身体一つで、あの人を、危険の外へ、出せた――
そこで、リエッタの安堵が、凍りついた。
胸の奥。命紬の流れが、細っていた。急激に。この隔離区画は、閉じている。石壁が、魔力を遮る。アルシアとの距離も、分からない。転移で、どれだけ離されたのか。数十歩か、数百歩か。エルドラの石は、数百メートルで、供給を危険域へ落とす。ここは、それより、悪いかもしれない。
供給が、止まる。
止まれば、リエッタは、死ぬ。
そして――リエッタが死ねば、命紬の反動が、アルシアへ、返る。切断しない限り、片方の死は、もう一方を、致死状態にする。
リエッタの指が、冷たくなった床を、掴んだ。
自分は、アルシアを、光の外へ、押し出した。守ったつもりだった。だが、この区画で、自分の供給が尽きて死ねば、外にいるアルシアも、死ぬ。突き飛ばして、離れて、それで、二人とも死ぬ。
自己犠牲は、成立しない。
リエッタは、初めて、それを、身体で知った。頭では、分かっていた。片方が死ねば、もう一方も死ぬ。研究帳に、何度も書いた。だが、実際に、こうして、離されて、供給が細っていく中で、それは、ただの知識ではなくなった。
自分だけを差し出す、という選択は、二人には、ない。
アルシアを守るために、自分が死ぬことは、できない。自分が死ねば、アルシアも死ぬのだから。守りたいなら、自分も、生きなければならない。突き飛ばして、満足して、ここで冷えて死ぬことは、いちばん、アルシアを、殺すやり方だった。
「……間違えた」
リエッタは、掠れた声で、呟いた。
突き飛ばしたことが、間違いだったのではない。あれは、反射だった。考える前に、身体が動いた。悔いてはいない。だが、そのあとで、安堵してしまったことが、間違いだった。守れた、と思ってしまったこと。守るとは、そういうことではないと、この冷たい床が、教えていた。
生きなければ。
リエッタは、冷たい指で、壁を探った。継ぎ目を。抜け道を。空気の動きを。この区画にも、水を通す溝が、あるはずだ。エルドラは、水の施設だ。水の通る場所には、隙間がある。
指先が、湿った石に、触れた。
*
アルシアは、円堂の床で、跳ね起きた。
光の柱は、消えていた。転律珠も、リエッタも、ない。突き飛ばされた肩が、じんと痛む。リエッタが、両手で、押した。渾身の力で。そして、リエッタ自身が、光に、飲まれた。
「リエッタ!」
叫んでも、返事はなかった。円堂は、静まり返っている。壁の星形図の光も、役目を終えたように、褪せていく。転移の罠は、一度、獲物を運んで、閉じた。
アルシアは、胸へ手を当てた。
命紬の流れ。アルシアから、リエッタへ、渡している魔力。それが、細っていた。糸が、遠くで、引き伸ばされている。届いてはいる。まだ、届いてはいる。だが、その先が、細く、頼りない。距離が、開いている。転移が、リエッタを、この遺構の、どこか遠くへ、運んだ。
細る流れの、その方向を、アルシアは、探った。
命紬は、感情を伝えない。言葉も、痛みも、読めない。ただ、魔力の流れる、その向き。上流から下流へ、水が流れるように、アルシアの魔力は、リエッタの、いる方へ、流れていく。目を閉じ、その微かな向きを、掌で、掬うように、確かめた。
下だ。そして、東。
崩落した通路の、その奥。
アルシアは、立ち上がった。魔力は、枯れかけている。腕帯は、壊れた。熱は、まだ、身体の芯に、燻っている。それでも、脚は、動いた。リエッタの供給が、細っていく。時間が、ない。区画に閉じ込められて、供給が尽きれば、リエッタは死ぬ。リエッタが死ねば、自分も死ぬ。だが、そんなことは、どうでもよかった。自分の生死ではなく、リエッタの命が、細っていることだけが、アルシアを、走らせた。
一人で、抱え込むな。
頭の隅で、声がした。ガルドの声に、似ていた。助けに行くのと、二人まとめて遭難するのは、別だ。地上には、あとから来る調査隊がいるはずだった。ガルドが、手配した、後続の隊。合図を、残さなければ。自分が倒れても、誰かが、リエッタを、掘り出せるように。
アルシアは、崩落通路の入口の石に、杖で、印を刻んだ。父の杖で。矢印を一つ。自分の進む方向を。それから、来た道の壁にも、剥がれやすい燐光の苔を、擦りつけて、目印を残した。後続が、追えるように。
一人で、全部を、背負わない。リエッタが、避難室で、そう言った。二人で、生きて帰る係だと。
アルシアは、崩落通路へ、踏み込んだ。
*
狭い、崩れかけた通路だった。
天井から、砂が落ちている。ミラの言った、予兆。だが、避ける余裕は、なかった。アルシアは、崩落の危険を、承知で、進んだ。細る命紬の向きだけを、頼りに。杖で、足元を探り、崩れた石を、乗り越える。
どれほど、進んだだろう。
通路の奥から、音が、聞こえてきた。
水の音だった。古い、水路を流れる、水の音。ずっと止まっていたはずの水が、転律珠を外したことで、また、動き出したのかもしれない。低く、絶え間ない、水の流れる音。
アルシアは、足を止めて、その音を、聞いた。
*
同じ頃。
隔離区画で、リエッタも、水の音を、聞いていた。
冷たい壁を探る指の、その向こう。石の継ぎ目の奥から、水の流れる音が、届いていた。古い水路の音。この区画も、水の通り道と、どこかで、繋がっている。抜け道の、手がかり。あるいは、ただの、遠い水音。
リエッタは、冷えていく身体で、その音に、耳を澄ませた。
二人は、別々の通路で、同じ、古い水の音を、聞いていた。
石を隔てて。光に、引き裂かれて。それでも、同じ水が、二人のあいだを、流れていた。
第十一章 命の距離
水の音を、辿った。
アルシアは、崩落通路を抜け、下層の水路へ出ていた。転律珠を外したことで、止まっていた水が、また流れ始めている。浅い流れが、古い石の樋を、暗い奥へ運んでいく。命紬の圧は、その流れの向きと、同じ方角を、指していた。細く、途切れそうな向きを。
一晩、探し続けた。地上へ戻る道を、一度も選ばなかった。魔力は、とうに枯れかけている。それでも、脚を止めれば、リエッタの供給が、その分、遠のく気がした。
樋の曲がる先で、水が、淀んでいた。
そこに、白いものが、見えた。
リエッタだった。
浅い水の中に、半身を浸して、倒れていた。隔離区画から、水路を伝って、ここまで来たのだろう。抜け道を、見つけて。だが、力尽きたのだ。白い髪が、暗い水に、扇のように広がっている。動かない。
「リエッタ!」
アルシアは、水を蹴って、駆け寄った。冷えた身体を、水から引き上げる。抱き起こした胸は、氷のように冷たかった。命紬の流れは、極限まで、細っている。距離が縮んだことで、わずかに戻ろうとしているが、追いついていない。
呼吸を、確かめた。ある。浅い。ほとんど、ない。
脈を、確かめた。ある。遅い。指の下で、消えかけている。
供給が、間に合っていない。
アルシアは、リエッタの手首を握り、掌から、魔力を流し込もうとした。いつもの、接触供給。だが、皮膚を通した流れは、遅すぎた。緩やかに滲むように渡るそれでは、消えかけた命の速さに、追いつけない。手首から、腕から、じわじわと満たしていては、その前に、リエッタの呼吸が、止まる。
もっと、速い経路が、要る。
アルシアの頭に、父の教えが、蘇った。魔法士の、緊急の心得。魔力を、最も速く、直接、相手の身体へ流すには。皮膚ではなく、粘膜を通す。呼気とともに、魔脈のいちばん浅い場所――喉の奥へ、口から、直接、送り込む。
救命の、手順だった。
アルシアは、リエッタの顎を、そっと上げた。冷えた唇に、自分の唇を、重ねた。
そして、息とともに、魔力を、流し込んだ。
皮膚越しの何倍もの速さで、魔力が、リエッタの中へ、下りていく。喉から、胸へ。消えかけていた流れが、直接、注がれる。アルシアは、自分の残りの魔力を、惜しまず、その一点へ、集めた。枯れかけた魔炉を、絞り尽くすように。
処置だった。命を、繋ぐための、手順。
そのはずだった。
けれど、唇を重ねた、その瞬間。アルシアの中で、手順ではない何かが、混じった。魔力を送る、その行為に、それ以上のものが。冷えた唇の感触。腕の中の重み。息を分けている、この近さ。守るとか、責任とか、救命とか、そういう言葉の、どれとも違う何かが、胸の奥から、せり上がってきた。
それが、何なのか。
アルシアは、名前を、つけなかった。
今は、つけている場合ではなかった。つければ、手が、止まる。リエッタの命が、優先だった。だから、その何かを、名づけずに、胸の奥へ、押し込んだ。あとで。あとで、考える。今は、息を。魔力を。
リエッタの呼吸が、戻り始めた。
浅かった息が、深くなる。脈が、指の下で、力を取り戻していく。アルシアは、唇を離した。リエッタの胸が、確かに、上下していた。
*
リエッタの睫毛が、震えた。
薄く、目が、開いた。淡い紫の瞳が、焦点の合わないまま、アルシアを、映した。意識は、朦朧としている。何が起きたのか、分かってはいないだろう。
その目が、アルシアの顔を、捉えた。
アルシアの頬を、水滴が、伝っていた。水路の水では、なかった。いつから流れていたのか、自分でも、分からなかった。リエッタを見つけてからか。息を分けているあいだか。とうに、涙は、頬を、濡らしていた。
「……アル、シア……」
掠れた、声にならない声で、リエッタが、呼んだ。
「生きていて」
アルシアは、言った。命令ではなかった。願いだった。いつもの硬い声は、どこにもなかった。ただ、生きていて、と。それだけを。
リエッタの瞳が、その涙を、映した。それから、その言葉を、聞いた。断片的に。半ば夢のように。理解する前に、瞼が、また、重く落ちた。意識が、安堵の中へ、沈んでいく。生きて、いる。今度は、目覚めたら、戻ってくる沈み方だった。
アルシアは、リエッタを、背負った。
冷えた身体を、自分の背に、負う。命紬の流れは、距離がなくなり、もう、細っていない。安定へ、戻りつつある。地上まで、この人を、運ぶ。一人で。
――いや。
一人で、ではない。
アルシアは、水路を、上流へ辿った。地上の入口へ。そこには、ガルドが手配した、後続の調査隊が、着いているはずだった。崩落通路に残した印。壁の燐光の苔。あれを追って、隊が、近づいている。アルシアは、声を、上げた。喉が裂けるほど、大きく。二人の位置を、知らせるために。抱え込まず。全部を、自分だけで、背負わずに。
上流の暗がりから、灯りが、応えた。
*
地上の森は、朝だった。
エルドラの入口を出ると、日が、木々の間から差していた。ガルドの調査隊が、二人を、迎えた。毛布が掛けられ、湯が沸かされ、リエッタは、乾いた場所に、寝かされた。医術の心得のある隊員が、脈と呼吸を診て、「もう、大丈夫だ」と言った。アルシア一人で、抱え込まずに済んだ。
昼近く、リエッタが、目を覚ました。
「……ここ」
「地上だ」アルシアは、そばに、膝をついていた。「エルドラの、外。助かった」
リエッタは、しばらく、天井の代わりの、木の葉を見上げていた。それから、少しずつ、記憶を、手繰り寄せているようだった。転移。隔離区画。冷たい水。水の音。そして――。
「私、水路で、倒れて……アルシアが、来て……」リエッタの声は、まだ、頼りなかった。「その、あと。よく、覚えてないんだけど。息が、急に、楽になって。喉の奥が、あったかくなって」
「魔力が、尽きかけていた」アルシアは、言った。「接触供給では、間に合わなかった。だから、口から、直接、流した。呼気と一緒に、魔脈へ。救命の、手順だ」
事実を、渡した。何をしたか。なぜ、そうしたか。
そこで、いつものアルシアなら、付け加えただろう。ただの処置だ。それ以上の意味はない。人工呼吸のようなものだ、と。理由を、責任と手順の下へ、畳んで。
だが、アルシアは、それを、言わなかった。
言えば、嘘に、なる気がした。唇を重ねた瞬間、手順ではない何かが、混じった。その何かに、まだ、名前はつけていない。つけていないものを、「ただの処置だ」と、打ち消すことは、できなかった。だから、何をしたかだけを、言った。それが、どういう意味だったかは、言わなかった。言えなかった。
リエッタも、それ以上、問わなかった。
「……ありがとう」リエッタは、小さく言った。「助けて、くれて」
「礼は要らない」
「命紬、だから?」
いつもの、リエッタの問いだった。優しさを、義務の下へ、しまうための問い。アルシアが、それに、どう答えるか。義務だ、と言えば、楽だった。命紬で繋がっているから、助けた。そう言えば、涙も、口づけも、手順の内側へ、収まる。
「わからない」
アルシアは、言った。
命紬では、感情は、読めない。相手の心も、自分の心も。流れる魔力の温度は、教えてくれない。義務なのか、そうでないのか。アルシアには、まだ、分からなかった。分からないものを、義務だと、言い切ることも、できなかった。
リエッタが、アルシアを、見上げた。
その顔の上へ、アルシアの頬から、まだ乾ききっていなかった涙が、一滴、落ちた。
リエッタの、指の上に。
冷たい水路の水では、なかった。命紬を通しても、伝わらないはずのものが、その一滴になって、リエッタの指へ、落ちた。
リエッタは、その滴を、じっと、見ていた。
第十二章 帰る場所
帰り道は、来た道より、ずっと静かだった。
リエッタは、荷馬車の荷台に、毛布にくるまって座っていた。ガルドの調査隊が、リュネまで送ってくれることになった。エルドラで負った疲れは、まだ抜けきらない。けれど、命紬の流れは、もう安定していた。隣に、アルシアがいる。それだけで、身体の芯の冷えは、戻ってこなかった。
アルシアは、荷台の縁に腰かけ、道の後ろを見張っていた。時々、こちらを振り返る。眠っていないか。冷えていないか。確かめる目だった。
指を、リエッタは、見ていた。
エルドラの森で、この指の上に、一滴、落ちた。アルシアの、乾ききっていない涙だった。あのとき、確かに、落ちた。命紬は、感情を伝えない。相手の心も、温度も、流れる魔力には乗らない。なのに、あの一滴だけは、繋がりを通さずに、リエッタの指へ、届いた。
その意味を、リエッタは、問い詰めなかった。
聞けば、アルシアは、また理由をつける。命紬のせいだ、と。義務だ、と。あるいは、答えに、詰まる。どちらでも、あの一滴が、少し、遠くなる気がした。だから、聞かない。ただ、あったこととして、胸の奥へ、しまう。いちばん大切なものを、しまう場所へ。名前をつけずに、そのまま。
アルシアが、私のために、泣いた。
その事実だけを、リエッタは、握っていた。
*
帰路の三日目、二人は、小さな宿場で、一泊した。
ガルドの隊とは、途中で別れていた。あとは、二人で、リュネまで戻る。宿の帳場で、リエッタは、レグナの夜を、思い出した。別々。迷いのない、一人部屋を、二つ。壁は厚い、と女将が言った。あのときの、扉の下の、細い光。
今度も、そうだろうと、思っていた。
「二人部屋は、あるか」
アルシアが、言った。
リエッタは、顔を上げた。聞き間違いかと思った。だが、アルシアは、帳場の主に、もう一度、言った。
「二人部屋。……リエッタが、まだ、本調子じゃない。夜、様子を見られるほうがいい」
理由を、つけていた。体調のため。監視のため。いつもの、責任の言葉。だが、そのあとで、アルシアは、リエッタのほうを、向いた。
「――それで、いいか」
聞かれた。
決められたのでは、なかった。二人部屋にする、と、勝手に決めて、リエッタを従わせるのではなく。いいか、と。リエッタの返事を、待っていた。銀灰の目が、逸れずに、こちらを見ている。
レグナでは、聞かれなかった。別々だ、と、迷わず決められた。今度は、違った。
「うん」リエッタは、言った。「いい。二人部屋が、いい」
その夜、二人は、同じ部屋で眠った。寝台は二つ、離れていた。それでも、扉は一枚で、鍵は一つだった。夜半、リエッタが目を覚ますと、アルシアの寝台のほうから、規則正しい寝息が、聞こえた。壁越しではない、寝息だった。リエッタは、それを聞きながら、また、眠った。
*
リュネの家に着いたのは、五月の、二十四日だった。
留守にした工房は、出たときのままだった。作業台の失敗作。壁際の試験器。畳んで椅子の背に掛けた、あの毛布。花壇の青い花は、アルシアの足した支柱のおかげで、一つも倒れていなかった。帰ってくる人の準備は、ちゃんと、帰ってきた二人を、迎えた。
荷を解いて、リエッタは、まっすぐ工房へ入った。
転律珠を、作業台に置く。掌大の、二重の環の遺物。それと並べて、防水布から、アルバスの頁を、出した。旅へ連れてきた、父の、欠けた数頁。
頁を、灯にかざしたとき、リエッタは、気づいた。
一枚の頁の中央に、切り抜きがあった。星の形をした、小さな穴。以前は、ただの傷か、破れだと思っていた。だが、今、転律珠の環と、並べてみると――星形の切り抜きは、転律珠の内環に刻まれた、星の紋と、同じ形だった。
「合う、かも」
リエッタは、頁を、転律珠の上へ、そっと重ねた。星形の切り抜きが、内環の星と、噛み合う位置を、指で探る。かちり、と、環が、わずかに回った。切り抜きが、鍵のように、内環を、ある角度で、止めた。
転律珠が、光を、強めた。
作業台の上で、遺物が、淡く鳴り始めた。環が、ひとりでに、ゆっくりと回る。エルドラで見た、あの回転。二つの星が、別々の速さで、光を巡らせる。だが、今度は、それだけでは、なかった。
音が、聞こえた。
*
古い、掠れた声だった。
途切れ途切れの、記録された声。だが、リエッタは、その声を、知っていた。忘れるはずが、なかった。
『――これは、命を、縛るための、術ではない』
アルバスの声だった。
リエッタの手が、止まった。工房の入口に立っていたアルシアも、動かなくなった。父の声。五年、聞いていない声。それが、転律珠から、途切れながら、流れていた。
『……二人を、繋ぐのは……縛るためでは、なく……』
そこで、声は、途切れた。記録は、それきり、続かなかった。環の回転が、緩み、光が、静まっていく。短い、断片。それだけ。
リエッタは、しばらく、動けなかった。
父が、命紬について、話している。これは、命を縛るための術ではない、と。救命のために、施した術。二人を、縛るためではないと、父は、言い残していた。
そう聞けば、優しい言葉だった。父が、この繋がりを、正当化しているようにも、聞こえた。縛るためではない、と。だから、許してくれ、と。
けれど、リエッタの中で、別の疑問が、頭をもたげた。
なぜ、父の声は、転律珠に、記録されていたのか。
命紬は、父が、施した術だ。ずっと、そう思ってきた。父の研究帳にしか、記述がない。だから、父が、作ったのだと。だが、転律珠は、古代の遺物だ。父より、ずっと古い。その古代の装置が、父の声を、封じていた。父の頁の切り抜きが、その鍵だった。
まるで、父が、この古代の仕組みを、知っていて――使ったように。
命紬は、父の、発明だったのか。
それとも、父は、もっと古い何かを、どこかから、持ってきたのか。
リエッタの中で、五年間、揺るがなかった前提が、一つ、ひび割れた。父が、作った。その、たった一つの思い込みに、初めて、疑いが、差した。
*
転律珠の光が、最後に、壁へ、像を結んだ。
暗い工房の壁に、淡金の光が、投じられた。まず、双星紋。二つの星を、線で繋いだ紋。台座にも、依頼書の透かしにも、あった、あの紋。
その下に、見慣れない記号が、いくつか、並んだ。古い、王家の紋章に、似ていた。そして、記号の脇に、位置を示す線と、地名が、浮かんだ。リエッタには、一つだけ、読めた。
オルフェン。学術都市。大書庫のある街。
双星紋から、一本の線が、伸びていた。リュネを起点に、オルフェンを経て、その先――東の、王都のほうへ。二つの星と、王都へ伸びる、一本の線。それが、暗い工房の壁に、静かに、浮かんでいた。
「オルフェンへ、行くしかない」リエッタは、掠れた声で言った。「この紋も、父さんの声も、命紬の始まりも。答えが、あそこに、ある気がする」
アルシアは、壁の光を、見ていた。それから、リエッタを、見た。
「一緒に、行く」
疑問ではなかった。決定でもなかった。ただ、隣にいる、という宣言だった。リエッタは、頷いた。二人の関係は、何も、解決していない。救命の口づけの意味も、涙の意味も、命紬の始まりも、双星紋も。何一つ、答えは出ていない。
けれど、問いの質が、変わった。優しさは、命紬の義務だけなのか。その問いに、リエッタは、もう、義務だけ、とは、答えられなくなっていた。あの一滴の涙が、繋がりを通さずに、指へ落ちた。義務では、説明のつかないものが、確かに、あった。
工房の壁には、まだ、あの光が、浮かんでいた。
双星紋の、二つの星。そこから、リュネを起点に、オルフェンを経て、東の、王都のほうへ、細く伸びていく、一本の線。暗い工房の壁に、二つの星と、その線だけが、静かに、灯っていた。
リエッタは、線の先を、見ていた。まだ暗くて、そこに何があるのかは、分からない。それでも、その線は、確かに、この工房から、外へ、遠くへ、伸びていた。
やがて、転律珠の光が、尽きた。壁の二つ星も、王都への線も、暗がりへ、溶けた。
けれど、消える直前に見た、その一本の線を、リエッタは、もう、忘れられなかった。
第一章 父の声を宿す球
帰ってきて、一週間が過ぎた。
工房の作業台に、転律珠が置かれている。エルドラから持ち帰ってから、リエッタは毎日、これを見ていた。見て、考えて、まだ触っていなかった。あの夜、アルバスの頁と合わせて再起動させたとき、この珠は、勝手に回り、勝手に光り、勝手に父の声を流した。制御が、こちらの手になかった。それが、怖かった。
魔道具師として、制御できない道具を、二度、同じように動かすのは、いちばんやってはいけないことだった。
「まず、入力を、こっちで握る」
リエッタは、独り言を言いながら、転律珠を、灯にかざした。二重の環。内側と外側が、別々に回る。環の内側に、細かな刻みがある。この刻みへ、外から力を入れると、環が回り、回転が、魔力へ変換される。エルドラでは、地下の熱と、水路の水流が、その力だった。この工房には、地熱も水路もない。
だから、自分で、回す。
リエッタは、作業台の下から、壊れた置き時計のゼンマイと、糸車の滑車を出した。命紬の模型を作ったときの、あの箱だ。ゼンマイの力を、滑車で伝え、一定の速さで、転律珠の外環を回す。手回しの、小さな台。回す速さを、指で調整できるようにする。速く回せば、変換が増える。ゆっくり回せば、記録の再生だけに、抑えられるはずだった。
半日かけて、台を組んだ。
滑車の軸を、転律珠の外環へ、そっと噛ませる。歯が、合った。ゼンマイを、いちばん弱く巻く。指で、抵抗を確かめながら、ほんの少しずつ、解放する。
外環が、ゆっくりと、回り出した。
今度は、リエッタの、手の中の速さだった。暴走しない。淡い光が、環に灯る。エルドラで見た、あの明滅より、ずっと穏やかだった。制御できている。リエッタは、詰めていた息を、ゆるめた。
そして、アルバスの頁を、内環へ、重ねた。星形の切り抜きが、内環の星と、噛み合う。
記録が、流れ始めた。
*
『――双星の……片方が……』
掠れた、途切れる声。アルバスの声だ。手回しの速さに合わせて、言葉が、切れ切れに、届く。
『……オルフェンの、書庫に……原の……返し環を……』
リエッタは、手を止めそうになって、堪えた。止めれば、記録も止まる。ゼンマイの速さを、保つ。父の声を、逃さないように。
『……これは、命を、縛る……ためでは、ない……返し環さえ、あれば……二人は……』
双星。オルフェン。返し環。
三つの言葉が、断片の中に、繰り返し現れた。双星は、あの紋のことだろう。オルフェンは、学術都市。だが、返し環は――聞いたことのない言葉だった。父の研究帳にも、なかった。返す、環。何かを、返すための、環。命紬に関わる言葉だと、声の前後から、それだけは分かる。だが、意味は、欠けている。
記録は、そこで、また途切れた。ゼンマイが、緩みきる。外環の回転が、止まる。光が、静まった。
リエッタは、しばらく、動かなかった。
父の声を、また、聞いた。五年前に死んだ父の。だが、聞けば聞くほど、安心は、遠ざかった。父は、何かを、知っていた。双星のことも、返し環のことも。命紬が、縛るためのものではない、と言い切れるだけの、何かを。それを、リエッタにも、アルシアにも、話さないまま、逝った。
安心では、なかった。
新しい疑問と――怒っていい、という、資格だけが、残った。
リエッタは、記録紙に、三つの言葉を、書き留めた。双星。オルフェン。返し環。
返し環の下に、線を引く。命紬の前後に出てきた言葉だ。返す、環。何かを、返すための、輪。
工具の柄の傷を、親指でなぞりながら、リエッタは、考えた。命紬は、アルシアからリエッタへ、一方向に、魔力を流している。上流から下流へ。堰を切れば、水は、下流へ流れきる。だが、もし――流れを、戻す道が、あったら。下流へ行きすぎた水を、上流へ、返す環が。
リエッタの研究帳に、何度も焼き切れた線があった。解除しようとして、供給を止めると、反動が、どちらかへ集中して、焦げる。逃げ場のない力が、一点へ、集まるからだ。もし、その反動を、逃がして、返す環があれば。焦げずに、済むかもしれない。
父の言った「返し環さえ、あれば、二人は」。
その先は、欠けていた。けれど、返し環が、反動を返す仕組みなら。父は、命紬を、安全に解く方法の、鍵の一つを、口にしていたことになる。
仮説だった。証拠は、何もない。断片の声から、都合よく、組み立てた図にすぎない。リエッタは、その図の下に、大きく「未確認」と書いた。アルシアの言う通りだ。確かめるまでは、これは、ただの、思いつきだった。
けれど、指先は、久しぶりに、熱を持っていた。五年、焼き切れ続けた線の、その先に、置ける部品が、初めて、名前を持ったからだった。返し環、という名前を。
*
工房の扉が、開いた。
アルシアが、水差しを持って、入ってきた。この一週間、アルシアは、リエッタの作業へ、あまり口を出さなかった。過保護に、なりすぎないように。エルドラの避難室で、リエッタに怒られたことを、覚えているのだろう。心配を、監視に変えないよう、距離を、測っている。
その気遣いが、分かるから、リエッタは、今日のことを、隠さなかった。
「父さんの声、また、聞いた」リエッタは言った。「双星と、オルフェンと、返し環。三つ、繰り返してた。返し環って、聞いたことある?」
「ない」アルシアは、水差しを置いた。「父の口から、一度も」
その声が、硬かった。いつもの硬さとは、違う硬さだった。
「父は」アルシアは、転律珠を見た。「知っていたんだな。返し環というものを。双星のことを。命紬が、縛るためのものじゃないと、言い切れる何かを。……私たちには、一度も、話さなかった」
アルシアの指が、袖口の留め具に、触れた。言えないことがあるときの、癖だった。
「五年、一緒に暮らした」アルシアは続けた。「父が死んで、五年、この家で。なのに、大事なことは、全部、こんな、古い珠の中に、隠されていた。私に話すより、機械に、託した。……信じられていなかったのか。私は」
リエッタは、何と言えばいいか、分からなかった。
アルバスは、リエッタの、育ての父だった。感謝している。尊敬している。その父を、今、責めている。隠していた、と。話してくれなかった、と。それは、正しい怒りかもしれない。けれど、責めるたびに、胸の奥が、痛んだ。父は、もういない。反論できない相手を、責めている。しかも、リエッタを、生かすために、命を削った父を。
「……父さんは、たぶん、守ろうとしたんだと思う」リエッタは、小さく言った。「私たちを。知らないほうが、安全な何かから」
言ってから、それが、父を庇うための言葉だと、気づいた。都合よく、解釈している。父は優しかった、だから隠したのも優しさだ、と。証拠もなく。
「それは」アルシアが、遮った。「今の私たちが、決めることじゃない」
リエッタは、顔を上げた。
「父が、何を考えていたか。守ろうとしたのか、逃げただけなのか。私たちが、勝手に、いいほうに、決めちゃいけない」アルシアの声は、硬いまま、けれど、真っ直ぐだった。「記録は、断片だ。断片から、都合のいい父を、組み立てるのは、違う。……確かめる。オルフェンに、原の資料があるなら、そこで」
アルシアの言うことは、正しかった。
父を庇うのも、責めるのも、今は、早い。断片の声から、優しい父も、冷たい父も、どちらも、作れてしまう。作らずに、確かめる。リエッタが、壊れた道具を、憶測で直さず、まず分解して原因を見るように。父のことも、そうやって、見なければならなかった。
「オルフェンへ、行こう」リエッタは言った。「返し環が何なのか、双星紋が何なのか、原の資料で、確かめる。父さんを、庇うためでも、責めるためでもなく」
「ああ」
決まった。第一巻の帰り道、工房の壁に浮かんだ、あの線。オルフェンへ伸びる線を、二人は、今度こそ、辿ることになる。
*
その日の夕方、リエッタは、水を汲みに、庭へ出た。
日が、傾いていた。花壇の青い花は、夕闇に、閉じ始めている。井戸へ向かおうとして、リエッタの足が、止まった。
工房の外壁の下、庭の土に、白いものがあった。
近づいて、しゃがむ。土が、白く、焼けていた。丸い輪の形に。直径は、両腕を広げたくらい。輪の内側の草は、枯れ、土は、白い灰のように、色を失っている。火を焚いた跡ではない。焚火なら、黒く焦げる。これは、白い。熱ではなく、別の何かが、土から、色と力を、抜き取ったような跡だった。
リエッタは、指で、白い土に触れた。冷たかった。
いつ、できたのか。昨日は、なかった。一昨日も。この一週間、毎日、井戸へ通った道だ。あれば、気づいた。ということは、ごく最近。それも――今日。
背筋が、冷えた。
今日の、昼間。リエッタは、手回し台で、転律珠を、再起動した。父の声を、聞くために。低速で、静かに、記録の再生だけを。派手な光は、出していない。それでも、遺物は、確かに、また、目を、覚ました。……この、焼け跡は、それと、同じ頃に、できたのだ。転律珠が、動いた、その時刻に。
帰宅した夜も、この珠を、一度、起動している。だが、あのときは、庭に、こんな跡は、なかった。翌朝も、その次も。焼け跡が、生じたのは、今日。今日、また、転律珠を、動かした、そのとき。
偶然ではない、と、リエッタの直感が、告げた。
転律珠が、何かを、放った。あるいは、転律珠の光に、何かが、応えた。遠くの何かが。そして、その何かは、この庭に、印を、残していった。白い輪の、印を。
リエッタは、輪の中心を、見た。
白く焼けた土の、その中央に、二つの、小さな点が、残っていた。双星紋の、二つの星の位置に、対応するように。片方の点は、すでに、周りの白い土に、溶けかけて、消えようとしていた。
だが、もう片方の点は。
夕闇の中で、消えずに、残っていた。淡く、微かに、光を、帯びたまま。二つ星の、片方だけが。
リエッタは、その一点から、目を、離せなかった。
第二章 追跡者の印
夜明け前に、アルシアは、庭へ出た。
白い焼け跡を、もう一度、確かめるためだった。昨夕、リエッタが見つけた、あの輪。土から色と力を抜き取ったような、白い痕。転律珠を起動した夜に、生じた。偶然ではない、とリエッタは言った。アルシアも、そう思った。
問題は、これが、誰の仕業か、だった。
アルシアは、輪の周りを、ゆっくりと歩いた。地面ではなく、その先を見た。侵入者がいたなら、足跡が残る。庭の柵。生垣の切れ目。井戸端の湿った土。だが、人の足跡は、なかった。輪は、地上から誰かが焼いたのではない。空から、あるいは、地下から、あるいは――遠くから、届いた何かが、ここに、印を、落としていった。
風の匂いを、嗅いだ。
夜露と、土と、青い花。いつもの匂い。その中に、一つだけ、混じっているものがあった。焦げた金属の、微かな匂い。魔道具が、稼働しているときの匂いに、似ていた。
アルシアの目が、生垣の、一点で、止まった。
*
それは、木の枝に、留まっていた。
一見、鳥のようだった。だが、羽ばたかない。じっと、家のほうを、向いている。近づいて、アルシアは、それが、生き物ではないと知った。金属と、導晶でできた、小さな作り物。鳥を模した、偵察の魔具だった。片方の目に当たる位置に、小さな導晶が嵌まり、家を、映していた。
宮廷の道具だ、と直感した。ただの遺物荒らしや、金目当ての賊が、こんな精巧なものを、使えるはずがない。誰かが、この家を、見張っている。それも、上等な設備を持つ、誰かが。
アルシアの手が、剣の柄へ、伸びかけた。壊せば、この目は、潰れる。見張りは、途切れる。
だが、その手を、止めた。
壊せば、相手は、偵察具が失われたと知る。次は、もっと巧妙な手を、打ってくるだろう。それに――壊してしまえば、この目が、どこへ、何を、送っていたのかが、分からなくなる。
守るために、壊す。それが、いつもの、アルシアのやり方だった。危険を、即座に、断つ。だが、リエッタなら、どうする。壊れた道具を、憶測で捨てず、まず、中を見る人なら。
アルシアは、外套を、そっと、偵察具へ被せた。
視界を塞がれた作り物は、一瞬、身をよじった。その隙に、両手で、包み込む。暴れる金属の鳥を、力ずくではなく、羽の可動を止めるように、押さえた。導晶の目が、外套の闇を映して、送るものを、失った。
家へ持ち帰り、リエッタに、見せた。
「これ……宮廷級の、偵察具だ」リエッタは、作り物を、慎重に受け取った。目を輝かせたのは、一瞬だった。すぐに、その顔が、引き締まる。「壊さなかったんだね。よかった」
「発信先を、知りたい」アルシアは言った。「どこへ、何を、送っていたのか」
「うん。逆に、辿れる」リエッタは、偵察具の腹を、そっと開けた。「送信の刻印が、残ってるはず。宛先の方角と、周波の癖が。……これ、消す前に、写しを取る」
リエッタの指が、細い工具で、刻印を、紙へ写し取っていく。アルシアは、その手元を見ながら、思った。壊さなくて、よかった。壊していれば、この宛先は、闇の中だった。守るために断つのではなく、読むために残す。リエッタの、やり方だった。それが、今は、正しかった。
「方角は……北東」リエッタが、写しを見た。「王都の、方角だよ」
王都。宮廷。アルシアの中で、庭の白い焼け跡と、この偵察具と、壁に投影された王都への線が、一本に、繋がった。
宮廷が、この家を、見ている。
*
その日の昼、二人は、ギルドへ、ガルドを訪ねた。
偵察具の写しを、机に広げると、ガルドの顔から、いつもの大声が、消えた。
「宮廷の、監視具だな」ガルドは、低く言った。「間違いない。この刻印の癖は、魔導院のものだ。……お前ら、何を、掘り当てた」
「エルドラの、遺物」リエッタが言った。「それと、父さんの、記録」
ガルドは、しばらく、写しを見ていた。それから、太い指で、髭を撫でた。言うか、言うまいか、迷う顔だった。年長者が、若い者に持たせたくないものを、量る顔。
「アルバスのことは」ガルドは、ようやく口を開いた。「昔から、少しは、知っていた。あいつが、リュネへ来る前、宮廷にいたことは、な。ただの薬師じゃなかった。魔導院で、星路の研究をしていた男だ。それが、ある日、全部捨てて、赤ん坊二人を連れて、この田舎町へ来た」
「赤ん坊、二人」アルシアは、言った。
「お前と、リエッタだ」ガルドは頷いた。「事情は、聞かなかった。聞くもんじゃないと思った。アルバスは、追われている顔を、していたからな。……だが、それ以上は、知らん。なぜ宮廷を出たのか。二人の子が、どこの子なのか。あいつは、最後まで、話さなかった」
出生の秘密までは、ガルドも、知らない。
だが、アルバスが、宮廷の星路研究者だったこと。追われるように、二人を連れて、リュネへ来たこと。それだけでも、一週間前まで、二人が知らなかった父の、輪郭だった。父は、ただの、優しい田舎の薬師では、なかった。
「逃げるのか」ガルドが、訊いた。
「いいえ」
答えたのは、アルシアだった。自分でも、意外なほど、迷いがなかった。
「逃げれば、追われる。理由も分からないまま。……証拠を、持って、動く。父の記録も、この偵察具の写しも、遺物も。オルフェンへ行って、原の資料と、突き合わせる。何が起きているのか、こちらが、先に、知る」
逃げる、のではない。調べに、行く。守るために、家に閉じこもるのではなく、証拠を持って、前へ出る。それは、アルシアが、一人で、決めたことでは、なかった。
アルシアは、リエッタを、見た。
「――と、思う。だが」アルシアは、言い直した。「決めるのは、私じゃない。リエッタ。お前が、どうしたい」
リエッタが、目を、見開いた。
いつもの、アルシアなら。守るために、行き先を決めて、リエッタを、連れていった。あるいは、危ないから、と、置いていった。今日は、違った。選択を、リエッタの手に、渡した。銀灰の目が、逸れずに、リエッタの返事を、待っている。エルドラの避難室で、リエッタが、教えたことだった。一人で、決めるな、と。
「行く」リエッタは、言った。迷いは、なかった。「オルフェンへ。父さんの、本当のことを、確かめに」
「わかった」
ガルドが、二人を、交互に見て、それから、太く笑った。
「準備を、手伝ってやる。オルフェンまでの、安全な道と、書庫への、伝手をな。……アルバスの子どもたちだ。無茶は、するだろうが、準備くらいは、させろ」
*
出発は、翌朝と、決まった。
夕方、二人は、家の戸締まりを、した。第一巻の旅立ちのときと、同じように。竈の火を落とし、水瓶に蓋をし、窓の掛け金を、確かめる。花壇には、支柱を足した。だが、今度は、あのときと、少し違った。
あのときは、アルシアが、一人で、戸締まりをした。帰る人の準備を。今度は、リエッタが、隣にいた。
最後に、玄関の扉を、閉めた。
鍵を、掛けようとして、アルシアは、手を止めた。鍵は、いつも、アルシアが掛ける。家を守るのは、自分の役だと、思ってきたから。だが、今日は、その鍵を、リエッタへ、差し出した。
「お前が、掛けろ」
リエッタが、鍵を、受け取った。
戸惑いは、なかった。リエッタは、鍵穴へ、鍵を差し込み、回した。かちり、と、乾いた音がした。この家を、閉じる音。連れ去られるのではなく、自分の意思で、扉を閉じて、出ていく音だった。
「行ってきます」
リエッタは、閉じた扉へ、小さく言った。三つ目の椅子のある、あの食卓へ。父の杖が、もう一本の杖として、旅に出る、この家へ。
鍵は、リエッタの、掌の中に、あった。
第三章 書庫都市オルフェン
八日かけて、二人は、オルフェンへ着いた。
学術都市は、川の中州に、築かれていた。幾筋にも分かれた川が、いくつもの小島を作り、その島と島を、石の橋が繋いでいる。島の上には、円い塔が、林のように立っていた。書庫塔だ。どの塔も、下から上まで、細い窓が縦に並び、窓の奥に、本の背が透けて見える。街全体が、一つの、巨大な書架だった。
リエッタは、橋の上で、足を止めた。
「すごい……」思わず、声が漏れた。「島ごとに、塔が違う。あれは、たぶん、分野で分けてるんだ。あっちの塔は窓が広い。閲覧室が多い証拠。こっちの塔は窓が細くて高い。保管専用。街の造りが、そのまま、目録になってる」
「感心するのは、後だ」アルシアが、橋の袂を、目で確かめた。人の流れ。学生らしい若者、法衣の学者、荷を運ぶ者。見張りらしい影は、今はない。「まず、書庫へ。長居はしない」
ガルドの伝手で、二人は、中央の大書庫への、閲覧許可を得ていた。大書庫は、いちばん大きな島の、いちばん高い塔だった。宮廷から一定の自治を得ているこの都市には、他所で焼かれ、抹消された記録の、写本が残っているという。双星紋の、答えがあるとすれば、ここだった。
*
大書庫の内部は、螺旋だった。
塔の壁に沿って、書架が、上へ上へと、渦を巻いて続いている。中央は吹き抜けで、天井の硝子から、光が落ちていた。無数の背表紙。革の匂い。紙と、埃と、古いインクの匂い。リエッタは、その匂いを、深く吸った。工房とは違う匂いだが、どこか、似ていた。ものが、静かに、答えを待っている場所の匂い。
受付の司書に、リエッタは、目録の使い方を教わった。
「双星紋、で、引きたいんです」
「双星紋……ああ、王家の紋の、古い形ですね」司書は、大きな目録帳を、めくった。「星と、星路の関連で、几帳面に分類されているはずですが……」
司書の指が、ある頁で、止まった。
「おかしいな」
リエッタは、覗き込んだ。目録帳の、その頁。「双星」で始まる項目が、並んでいる。双星脈。双星暦。だが、「双星紋」の項目が、あるべき場所に、なかった。項目名の一覧に、そこだけ、空白が、あった。
「索引の、この頁が」司書は、眉を寄せた。「関連する分類頁が、抜かれています。ここに、双星紋の所在を示す頁が、綴じてあったはずなんですが……綴じ糸が、切られて、抜き取られている」
リエッタは、目録帳を、手に取った。
背の綴じ目を、指でたどる。他の頁は、古い麻糸で、きつく綴じられている。だが、双星紋のあったはずの箇所だけ、糸が、新しかった。抜いた頁の跡を隠すように、両隣の頁を、綴じ直してある。手際は、良かった。ぱっと見では、気づかない。けれど、糸の色と張りが、周りと、揃っていなかった。
抜かれたのだ。誰かが、双星紋の記録を、この公式の目録から、消した。
リエッタの背筋を、冷たいものが、走った。
これは、父一人の、家族の秘密ではない。父が、リエッタとアルシアに話さなかった、というだけの話では、なかった。国の公式の記録から、双星紋という項目そのものが、抜き取られている。組織的に。歴史から、消されている。父の隠しごとの、ずっと外側で、もっと大きな手が、同じものを、隠していた。
「これ……いつ、抜かれたんですか」
「わかりません」司書は、首を振った。「目録の点検は、年に一度。前回は、異常なし、と記録にあります。だとすれば、この一年以内、ということに……」
一年以内。リエッタが、まだ、双星紋を知りもしなかった頃から。
*
その夜、二人は、大書庫が手配した、塔の一室に、泊まった。
閲覧の続きは、明日だった。だが、リエッタは、眠れなかった。目録から抜かれた、双星紋の頁。父の断片の声。庭の白い焼け跡。宮廷の偵察具。全部が、繋がっている気がして、頭の中で、銀線が、勝手に、伸びていく。
確かめたくなって、リエッタは、荷から、転律珠を出した。
もう一度、あの記録を、聞きたかった。父の声を。双星、オルフェン、返し環。この街で聞けば、断片の意味が、少し、見えるかもしれない。リエッタは、手回し台を組み、外環へ、そっと、軸を噛ませた。
ゼンマイを、弱く、解放する。
外環が、回り出した。淡い光。小さな鳴動。父の声が、途切れながら、流れ始めた――その、途中だった。
「――何を、しているの!」
鋭い声が、扉の外から、飛んできた。
*
扉を開けて入ってきたのは、赤褐色の髪を短く切った、女だった。
三十くらい。丸い眼鏡の奥で、目が、鋭く光っている。指先が、インクで、黒く汚れていた。学者だ、と一目で分かった。その女が、転律珠を見るなり、大股で近づき、リエッタの手から、手回し台ごと、取り上げた。
「あなた、これが、何か、わかって回してるの」女は、早口だった。「回転で変換する、古代の転律遺物でしょう。それを、こんな、間に合わせのゼンマイ台で。回転数が、一定しない。速すぎれば、変換が暴走する。導晶が過負荷で、割れる。割れた導晶の魔力が、逆流したら、この塔、書庫塔よ。何万冊の写本が――」
「あ、」リエッタは、慌てた。「回転は、抑えてました。記録の再生だけ、できる速さに」
「抑えてた、じゃ、ないの」女は、手回し台を、机に置いた。「抑えてたつもり、でしょう。ゼンマイの解放は、指の感覚頼み。数字で、管理してない。動いたことと、安全に動くことは、別。そこを混ぜた人から、事故を起こすの」
リエッタは、言い返せなかった。
その通りだった。制御している、と思っていた。だが、それは、指の感覚頼みの、「つもり」だった。数字で、回転数を、管理していない。この人の言うことは、魔道具師として、正しかった。痛いほど。
女は、転律珠を、じっと見た。それから、リエッタの、工具の付いた手と、机の写しへ、目を移した。写しには、偵察具の刻印と、双星紋の下書きが、あった。
女の表情が、変わった。
「……その紋」女の声が、低くなった。「どこで、見たの」
「エルドラの、遺構の、台座で」リエッタは言った。「あと、父の記録に。父は――アルバスといいます。昔、宮廷で、星路の研究を」
女の動きが、止まった。丸眼鏡の奥の目が、大きく、見開かれた。
「アルバス先生の」女は、呟いた。「あなたたち、アルバス先生の……」
「知ってるんですか」
「教わった」女は、椅子に、腰を落とした。「遺物史を。十年前。……サラ。サラ・オルネ。この書庫の、遺物史研究者よ」
サラは、しばらく、転律珠と、双星紋の写しを、見比べていた。それから、大きく、息を吐いた。
「危ない起動を、叱ったのは、取り消さない。あれは、本当に危険だから。でも」サラは、眼鏡を、押し上げた。「その紋と、アルバス先生の遺物を、間に合わせの台で、素人みたいに回してる子を、放っておくほうが、もっと危ない。……手伝うわ。ちゃんとした設備で、安全に、その記録を、読みましょう」
*
サラの研究室は、書架と、工具と、書きかけの紙で、埋もれていた。
翌朝、リエッタたちは、そこへ通された。サラは、転律珠のための、精密な回転台を、あっという間に組み上げた。回転数が、数字で、表示される台だった。リエッタが、指の感覚でやっていたことを、サラは、目盛りで、管理した。
「アルバス先生は」サラは、台を調整しながら、言った。「正しかったから、偉いんじゃないの。間違いを、記録したから、私たちが、先へ行けるの。先生のノートには、失敗が、山ほど書いてあった。だから、価値がある」
その言葉は、リエッタの胸に、静かに、残った。父を、庇うのでも、責めるのでもなく。間違いも含めて、記録として、引き継ぐ。それが、この人の、父への向き合い方だった。
サラは、大書庫の、閉架の奥から、双星紋に関する、わずかに残った副本を、探し出してくれた。公式索引から抜かれた頁の、写しの、そのまた写し。かろうじて、焼かれずに、残っていたもの。
その一枚を、サラは、書架の、いちばん奥の、暗がりから、引き出した。
引き出した跡の、棚の奥。そこに、切れた綴じ糸の、端が、残っていた。かつて、この場所にあった、双星紋の記録を、誰かが、抜き取ったときの、糸だった。
他の糸は、みな、時を経て、飴色に、褪せている。だが、その一本だけが。
新しい、白いままの色を、していた。抜かれてから、まだ、間もない証だった。棚の奥の暗がりで、その白い糸の端だけが、切り取られた歴史の、しるしのように、光っていた。
第四章 もう一人の紫
書庫塔の回廊に、見張りがいた。
アルシアは、閲覧室へ向かう途中で、それに気づいた。柱の陰、階段の踊り場、窓際の長椅子。学生や学者に紛れて、褐色の肌の、若い女が一人、立っていた。黒髪を短く結い、地味な外套の下に、軽い装甲を着ている。書物には、手を伸ばさない。目だけが、閲覧室の出入りを、追っていた。
見張りだ。それも、訓練された者の。
アルシアは、足を緩めた。相手も、こちらに気づいた。二人の視線が、回廊の真ん中で、交わる。互いに、相手が何者かを、量った。武器の位置、退路、間合い。守ることを仕事にする者どうしの、無言の値踏みだった。
女の目が、アルシアの後ろの、リエッタへ、一瞬、流れた。
その一瞥に、アルシアは、身を固くした。ただの警備なら、閲覧室の全員を、等しく見る。だが、女の目は、リエッタで、わずかに、留まった。狙いが、リエッタに、ある。
アルシアは、リエッタと、女のあいだへ、半歩、身を入れた。
女は、動かなかった。ただ、値踏みを、続けた。それから、ごく小さく、顎を引いた。敵意はない、という合図にも、まだ判断を保留する、という合図にも、見えた。アルシアは、外套の下の、留め具に、指をかけたまま、その場を、通り過ぎた。
「アルシア」リエッタが、小声で言った。「あの人」
「見張りだ。お前を、見ていた」
「うん。私も、そう思った」
リエッタも、気づいていた。危険を、こういうときだけは、リエッタも、正確に、読む。二人は、閲覧室ではなく、サラの研究室のある、上の階へ、向かった。
*
階段を、半分ほど上ったところで、それは、起きた。
リエッタの荷袋の中で、転律珠が、鳴った。
サラの精密台から外し、持ち歩いていた遺物が、袋越しに、淡く、光り始めた。回してもいないのに。外環が、ひとりでに、震えている。アルシアは、足を止めた。エルドラの制御室で、これが勝手に動いたときのことを、思い出した。あのときは、床下の線が、応えていた。今は、何に。
回廊の、上の踊り場に、人影が、立っていた。
若い、女だった。歳は、リエッタと、同じくらい。深い紫の髪を、結い上げている。仕立てのいい、だが、目立たない旅装。供も連れず、一人。その姿勢は、まっすぐで、歩き方には、どこか、人前に立つことに慣れた、静かな重みがあった。
女の、淡い紫の瞳が、リエッタを、捉えた。
そして、動かなくなった。
女は、言葉を、失っていた。唇が、わずかに開いたまま、声にならない。リエッタの、白い髪。淡紫の瞳。小柄な身体。工具袋。その一つ一つを、女の目が、辿っていく。信じられないものを、見る目だった。
リエッタも、階段の途中で、止まっていた。
アルシアには、分かった。二人の顔が、似ていた。髪の色は違う。片方は白、片方は紫。それでも、目の淡い紫は、同じ色だった。顔の輪郭、鼻の形、唇の薄さ。まるで、同じ型から、色だけ変えて、抜いたように。
そして――転律珠が、二人の、ちょうど中間で、いちばん強く、光った。
リエッタの荷の中の遺物が、階段の下と、踊り場の上、二人の女の、あいだで、脈打っていた。片方へでも、両方へでもなく、その中間の一点で。二つの、別々の位相が、一つの遺物を、両側から、引き合っているようだった。
女の唇が、震えた。
「……あなた」女は、掠れた声で、言った。「まさか」
その一言で、女が、ただの旅人でも、ただの学者でもないと、アルシアには、分かった。踊り場の下から、あの褐色の肌の見張りが、素早く現れ、女のそばへ、控えた。護衛だ。ということは、この紫の女は、護衛のつく身分の者。
そして、リエッタと、同じ顔をした、身分の者。
アルシアの胸の底で、氷の板が、一枚、割れる音がした。
*
女は、すぐには、名乗らなかった。
護衛の女――閲覧室で見張っていた、あの女が、周囲を、鋭く見回した。回廊には、他の学者もいる。人目のある場所で、話すことでは、ないらしかった。
「……ここでは」紫の女が、ようやく、声を、絞り出した。「ここでは、話せません。でも、あなたと、話がしたい。二人だけで。あの、遺物のことも。あなたの、顔のことも」
リエッタは、アルシアを、見た。判断を、仰ぐように。だが、アルシアは、答えられなかった。
この女が、何者なのか。味方なのか、敵なのか。宮廷の、回収の手先なのか。それとも――リエッタの、血の、繋がった、誰かなのか。判別が、つかなかった。敵なら、退ければいい。だが、もし、リエッタの、家族だったら。アルシアには、退ける資格が、ない。
「あなたは、誰」リエッタが、女に、尋ねた。
女は、答えに、詰まった。名乗ることが、この場では、危険だと、分かっているようだった。代わりに、女は、自分の指を、見た。考えごとをするときの、癖のように、親指で、他の指の関節を、そっと、なぞった。
リエッタの手が、止まった。
アルシアも、それを、見た。女の、その仕草。親指で、指の傷を、なぞる動き。それは――リエッタが、考えごとをするときに、工具の柄の傷を、なぞる仕草と、同じだった。血の繋がりでしか、説明のつかない、同じ癖だった。
「……また、来ます」女は、言った。「必ず。それまで、その遺物を、誰にも、渡さないで。特に、宮廷の、人間には」
女は、身を翻した。護衛が、その前に立ち、二人を、遮る。
リエッタは、一歩、踏み出しかけた。もっと、聞きたいことが、あったのだろう。だが、女は、もう、回廊の奥の、扉の向こうへ、消えようとしていた。
*
扉が、閉まる、その一瞬。
扉の、向こう側から、紫の女が、こちらを、振り返った。淡い紫の瞳が、閉じていく扉の隙間から、リエッタを、見ていた。
扉の、こちら側では、リエッタが、閉じていく扉の隙間へ、同じ、淡い紫の瞳を、向けていた。
一枚の扉を、挟んで。その両側に、同じ形の、同じ色の、紫の瞳が、一つずつ。鏡に映したように、向かい合って、残っていた。
扉が、閉じきった。
リエッタの瞳は、こちらに残り、もう一つの瞳は、扉の向こうへ、消えた。
アルシアは、リエッタの、その横顔を、見ていた。白い髪の下の、淡紫の瞳。ずっと、そばにあった瞳。だが、今、同じ瞳が、もう一つ、この世界の、別の場所に、いた。アルシアの知らない、血と、名前と、居場所を持って。
リエッタには、アルシアの知らない世界が、あるのかもしれない。
その考えが、初めて、はっきりとした形で、アルシアの前に、立った。退ければいい敵とは、違う。剣で、断てるものではない。血の繋がりは、アルシアが、どれだけ隣にいても、決して、入っていけない場所だった。
閉じた扉を、リエッタは、まだ、見ていた。
アルシアは、その隣で、何も、言えなかった。
第五章 名もない王女
書庫塔の屋上に、温室があった。
硝子の壁に囲まれた、小さな庭。学者たちが、珍しい薬草を育てる場所だという。昼を過ぎ、人の姿はない。紫の女は、ここを、指定した。人目がなく、逃げ道が一つで、声が外へ漏れない。話をするには、都合のいい場所だった。
女は、硝子越しの光を背に、立っていた。護衛の――ノエル、と名乗った女が、入口を、固めている。
「まず、名乗ります」紫の女は、背筋を伸ばした。「わたくしは、ユリアナ。レヴェリア王家の、王太女です」
リエッタの隣で、アルシアの息が、止まったのが、分かった。
王太女。次の女王。この国で、いちばん高い場所に、立つはずの人。それが、こんな場所に、供も連れず、身分を伏せて。リエッタは、すぐには、言葉が出なかった。
「信じられないでしょう」ユリアナは、静かに言った。「でも、聞いてください。わたくしには、双子の、妹がいました。新暦三百年、母――王妃エレノアが、わたくしと、同時に産んだ妹。ですが、その子は、生まれてすぐ、亡くなったと、記録されています」
ユリアナは、懐から、一枚の、古い書面を出した。
「これが、その、出生と死亡の、記録です。……でも、わたくしは、ずっと、疑っていました。母が、死の前に、遺した言葉があって。『あの子は、生きている』と」
リエッタは、その書面を、見た。だが、手には、取らなかった。
似ている。それは、分かっている。屋上に来る前から、鏡を見るような、あの感覚は、あった。同じ顔の輪郭。同じ、淡紫の瞳。指の癖まで、同じだった。けれど、似ているから、妹だ、とは、リエッタは、思わなかった。
似ている、は、証拠ではない。
「見せてください」リエッタは、言った。手を、差し出す。「その記録を。ちゃんと、見たい」
ユリアナが、書面を、渡した。リエッタは、それを、灯にかざした。工房で、古い刻印を読むときと、同じ手つきで。
*
「日付を、見ます」
リエッタは、書面の、上端を、指でたどった。
「出生、新暦三百年、四月。ここに、二人、生まれたと、書いてある。姉と、妹。ここまでは、いい。……問題は、妹の、死亡の記録」
指が、下の欄へ、移る。
「死亡日が、出生と、同じ日。生まれた、その日に、死んだことになってる。でも」リエッタは、目を、細めた。「死因の欄が、空白だ。普通、王家の子が死ねば、侍医が、死因を、細かく書く。なのに、ここは、何も、ない。空欄のまま、死亡だけが、記録されてる」
ユリアナが、息を、のんだ。
「それに、この筆跡」リエッタは、書面の、署名を、指した。「出生を記した字と、死亡を記した字。同じ人が書いたことに、なってる。でも、力の入り方が、違う。出生のほうは、落ち着いてる。死亡のほうは、線が、少し、震えてる。急いで、あるいは、動揺して、書いた字だ」
嘘の記録を書く人の、手の震えを、リエッタは、知っていた。父の研究帳で、墨が薄くなった箇所を、何度も、見てきたから。人の手は、本当でないことを書くとき、正直に、揺れる。
「王妃さまの、筆跡は」リエッタは、顔を上げた。「ありますか。この、死亡記録が、本当に、王妃さまの意思なのか。それとも、誰かが、王妃さまの名を、使ったのか。比べたい」
ユリアナは、しばらく、リエッタを、見つめていた。
「……あなたは」ユリアナは、掠れた声で言った。「顔が似ている、と言われて、飛びつくと、思っていました。王家の娘だと、名乗られれば、喜ぶか、怯えるか。でも、あなたは……証拠を、要求する」
「似てるだけじゃ、私は、私じゃなくならない」リエッタは言った。「私は、リエッタ。リュネの、魔道具師。それは、変わらない。もし、私が、あなたの妹だとしても、それは、記録と、証拠が、証明することで。顔じゃ、ない」
*
ユリアナは、閉架室から、もう一つの記録を、取り寄せた。
王妃エレノアの、直筆の書簡。それと、出生台帳の、控え。閉架室の、鍵のかかった棚から、ノエルが、慎重に、運んできた。リエッタは、三つの記録を、机に並べ、一つずつ、照らし合わせた。
王妃の書簡の筆跡と、出生記録の、出生を書いた字は、同じ癖だった。「え」の跳ね方。「り」の払い。同じ手。だが、死亡を書いた字は、その癖を、真似ようとして、真似きれていなかった。別人が、王妃の字を、装った跡。
そして、出生台帳の、控えの、隅に。
小さな、受領印が、あった。子を、引き取った者が、押す印。宮廷の外へ、子を、託したときの、証。リエッタは、その印を、灯にかざした。見覚えの、ある形だった。
父の、研究帳の、裏表紙に、押されていたのと、同じ印だった。
「アルバスの、印だ」リエッタの声が、掠れた。「父さんの。……父さんが、この子を、妹を、引き取った。生まれた、その日に。死んだことにして」
証拠が、揃っていく。日付。空白の死因。震えた偽の筆跡。王妃の本物の筆跡。そして、父の受領印。一つ一つは、状況にすぎない。だが、噛み合わせると、一つの形に、なった。
生まれてすぐ死んだ、と記録された、王家の双子の妹。
その子を、王妃が、密かに、アルバスへ、託した。死を、偽装して。
そして、その子は――白い髪の、魔道具師に、なった。
リエッタは、机の記録から、目を、上げられなかった。
自分が、誰なのか。十八年、リュネの、アルバスの娘だと、思ってきた。それが、揺らいでいた。名前の、その下の、土台が。私は、リエッタ。そう言ったばかりなのに、その「リエッタ」の、生まれた場所が、思っていたのと、違っていた。
足元が、ぐらついた。
*
リエッタの手が、無意識に、動いた。
隣の、アルシアの、袖を、掴んでいた。
考える前に、手が、伸びていた。証拠が、自分の出生を、崩していく。王家の、双子。王太女の、妹。そんな、大きなものが、押し寄せてくる中で、リエッタの手は、いちばん確かなものを、掴んでいた。アルシアの、黒い袖の、布を。
アルシアが、その手を、見た。振りほどかなかった。
リエッタは、気づいた。自分が、何を、選んだのかに。
出生が、判明し始めても。王家という、大きな場所が、目の前に、開いても。リエッタの手は、王太女の記録ではなく、アルシアの袖を、掴んでいた。過去が、どこであっても。血が、どこの血であっても。今、隣にいる人を、離さない。それだけは、記録に、書き換えられない。
「……あなたは」ユリアナが、その手を、見ていた。リエッタと、アルシアの、繋がった手を。羨むような、寂しいような、複雑な目だった。「その人と、一緒に、いるのね」
「うん」リエッタは、袖を、掴んだまま、答えた。「この人が、私の、今だから」
ユリアナは、何か、言いかけて、やめた。代わりに、机の上の、出生台帳の控えを、そっと、閉じた。
古い記録の頁が、閉じる。リエッタの、生まれた日の記録が、革表紙の下に、収まる。
けれど、リエッタの指は、その頁ではなく、アルシアの袖を、掴んだままだった。閉じられたのは、過去の頁だけで、今の手は、離れなかった。
第六章 祝祭の夜
オルフェンの水灯祭は、川の上に、灯をともす祭りだった。
夕暮れとともに、街の人々が、小さな灯籠を、川へ流し始める。学問の街らしく、灯籠には、それぞれ、覚え書きや、詩の一節が、書き込まれていた。無数の灯が、幾筋にも分かれた川面を、ゆっくりと下っていく。橋の上も、広場も、その灯を見にきた人で、賑わっていた。
サラは、研究室に残った。転律珠の解析を、続けるという。ユリアナとノエルは、変装して、別々に、街へ紛れた。あの二人には、あの二人の、確かめたいことが、あるらしかった。
つまり、リエッタとアルシアは、二人きりに、なった。
祭りへ出よう、と言ったのは、リエッタだった。出生の証拠。抜かれた索引。似た顔の王女。頭が、いっぱいだった。少し、それを、置きたかった。アルシアは、危険を考えれば、宿にいるべきだと、言いかけて、やめた。代わりに、剣を、目立たないように、外套の下へ収め、「行くか」と言った。
危機のためでも、義務のためでもなく。ただ、二人で、灯を見るために、外へ出た。それは、この旅で、初めてのことだった。
*
橋の上から、川を見下ろすと、灯籠の群れが、光の帯になって、流れていた。
「きれいだね」リエッタが、欄干に、身を乗り出した。
アルシアは、まず、周囲を見た。橋の両端。人の流れ。逃げ道。危険の兆しは、ない。確かめてから、ようやく、川へ、目を落とした。灯籠の光が、水に映り、揺れている。確かに、きれいだった。だが、アルシアの目は、すぐ、リエッタへ、戻った。灯を映して、明るくなった、その横顔へ。
リエッタは、灯籠ではなく、その灯籠を、川へ送り出す仕掛けを、見ていた。
「あの、灯籠を流す装置」リエッタが、橋の袂の、大きな仕掛けを指した。「あれ、機械灯だよ。人が一つずつ流すんじゃなくて、水車で、順番に、川へ落としてる。ほら、あの歯車。一定の間隔で、灯籠台が傾いて、灯が、滑り落ちる。……よくできてる。水の流れを、そのまま、灯の間隔に、変えてるんだ」
アルシアには、歯車の理屈は、分からなかった。だが、それを語るリエッタの声が、さっきまでの、出生の重さから、少し、離れているのが、分かった。ものの仕組みを見つけると、この人は、息を、しやすくなる。
「アルシアも、見て。あの傾く角度。絶妙なんだよ」
アルシアは、リエッタの指す先を、見た。分からないなりに、頷いた。分からなくても、リエッタが、それを美しいと思うなら、アルシアにとっても、見る価値が、あった。
*
灯を見て回るうちに、広場のほうへ、人が、増えてきた。
祭りの中心は、広場だった。屋台が並び、楽師が奏で、人が、渦を巻いている。リエッタは、機械灯の屋台や、細工物の店を、覗きたがった。だが、人混みは、濃くなる一方だった。押し合う人の波に、小柄なリエッタの姿が、時々、隠れる。
アルシアは、リエッタと、はぐれそうになった。
手を、伸ばしかけた。人混みで、はぐれれば、危ない。掴んで、引き寄せれば、いい。それが、いつもの、アルシアだった。守るために、先に、動く。
だが、その手を、宙で、止めた。
エルドラの避難室で、リエッタに、言われたことを、思い出した。勝手に決めるな、と。守るという名目で、リエッタの選択を、飛び越えるな、と。手を掴むのも、リエッタに、断りなく、していいことでは、ないのかもしれない。
アルシアは、伸ばした手を、そのまま、リエッタの前へ、差し出した。掴むのではなく、開いた掌を、見せて。
「掴むか」
リエッタが、その手を、見た。
短い言葉だった。人混みで、はぐれないように。手を、繋ぐか。それを、アルシアは、勝手に掴むのではなく、リエッタに、尋ねた。掴むか、と。触れることの許可を、初めて、言葉に、した。
リエッタの目が、少し、丸くなった。それから、口元が、ゆるんだ。今度は、目も、ちゃんと、後から、細くなった。作り笑いでは、ない笑みだった。
「うん」
リエッタは、アルシアの、開いた掌へ、自分の手を、重ねた。
指が、絡んだ。工具で硬くなった、小さな手。アルシアの手が、それを、包む。人混みの中で、二つの手が、繋がった。守るためだけの、繋ぎ方では、なかった。はぐれないため、でもあり、そして、ただ、繋いでいたいから、でもあった。どちらが、どれだけの割合か、アルシアには、分からなかった。分からなくて、いい、と思った。
二人は、手を繋いだまま、広場を、歩いた。
リエッタが、屋台の細工物に、目を輝かせる。アルシアが、その隣で、人の流れを、見張る。時々、リエッタが、繋いだ手を、引いて、「あっち」と、アルシアを、導く。アルシアは、素直に、引かれた。守る側が、導かれる。それも、悪くなかった。
告白は、しなかった。
好きだ、とも、言わなかった。この手が、何を意味するのか、言葉にはしなかった。ただ、繋いでいた。灯の下で、人混みの中で。言葉より先に、手が、答えを、知っているようだった。けれど、その答えに、名を与えるのは、まだ、先のことだった。二人とも、それで、よかった。
*
広場の楽が、いちばん盛り上がった、そのときだった。
街の、どこか高いところで、鐘が、鳴った。
一度、二度。祭りの鐘とは、違う、鋭い音。警鐘だった。人々の楽しげな声が、一瞬、静まる。何事か、と、皆が、音のほうを、見る。アルシアの身体が、反射的に、緊張した。危険。宮廷の手か。あるいは、別の何か。
とっさに、アルシアは、リエッタを、庇う位置へ、動いた。
だが。
繋いだ手は、離さなかった。
いつもなら、危険を察した瞬間、アルシアは、剣を抜くために、あるいは、リエッタを背へ回すために、手を、離す。守るために、まず、繋がりを、断つ。だが、今夜は、離れなかった。警鐘が鳴っても、アルシアの手は、リエッタの手を、握ったままだった。
リエッタの手も、アルシアの手を、握り返していた。
二人は、鐘の音の中で、手を繋いだまま、顔を、見合わせた。危険が、来るなら、来ればいい。だが、その前に、この手を、離す理由には、ならなかった。守るために、離すのではなく、繋いだまま、確かめる。何が起きているのかを。一緒に。
「……何だろう」リエッタが、言った。手は、繋いだまま。
「見に行く」アルシアが、言った。手は、繋いだまま。「一緒に」
鐘は、まだ、鳴っていた。二人の手は、まだ、離れなかった。
第七章 姉という他人
昨夜の警鐘は、大事ではなかった。
祭りの屋台の一つで、灯の油が、火に触れて、小さな火事になっただけだった。すぐに消し止められた。宮廷の手でも、追跡者でもなかった。ただ、あの鐘の音の中で、二人が、手を離さなかったこと。それだけが、リエッタの中に、静かに、残っていた。
朝、ユリアナが、サラの研究室を、訪ねてきた。
ノエルが、扉の外を固める。ユリアナは、昨日より、青ざめていた。眠っていない顔だった。手には、封をされた、古い書簡があった。
「探して、いました」ユリアナは、それを、机に置いた。「母の――王妃エレノアの、私設の書箱に。母が亡くなってから、誰も、開けていなかった箱です。この中に、あなたのことが、書かれていました」
リエッタは、書簡を、受け取った。
封は、王家の蝋で、閉じられている。だが、その内側の文字は、普通の文字では、なかった。数字と、記号が、規則的に、並んでいる。暗号だった。
「読めるんですか、これ」リエッタは、訊いた。
「母と、私だけが使う、暗号でした」ユリアナは、静かに言った。「幼い頃、遊びで、母が、教えてくれた。……まさか、こんなことに、使うとは」
ユリアナが、暗号を、読み解いていく。リエッタは、その隣で、解かれた文字を、一つずつ、紙へ、書き取った。魔道具の刻印を、写すときと、同じ手つきで。感情を、挟まずに。まず、事実を、写し取る。
書簡には、こう、あった。
*
わが娘の、片方を、アルバスへ、託す。
この子を、宮廷の企てから、遠ざけるために。双つの星が、揃うことを、望む者たちがいる。二人を、生涯、一つの役目へ、縛りつけようとする者が。わたくしは、それを、許せない。だから、この子を、死んだことにして、逃がす。
アルバスよ。この子に、王家を、教えないで。名も、血も、告げないで。ただ、一人の子として、育ててほしい。この子が、いつか、自分で、自分の生き方を、選べるように。星の役目ではなく、この子自身の、人生を。
姉には、いつか、話す。妹が、生きていると。けれど、それは、姉が、妹を、連れ戻すためでは、ない。妹に、姉が、いると、知らせるため。二人が、望むなら、姉妹に、なれるように。望まないなら、それも、自由であるように。
書き終えたとき、リエッタの手は、止まっていた。
確定した。もう、疑いようが、なかった。日付。空白の死因。偽の筆跡。父の受領印。そして、この、母の――王妃エレノアの、直筆の暗号。すべてが、一つの事実を、指していた。
リエッタは、レヴェリア王家の、双子の妹だった。
生まれてすぐ、死んだことにされ、アルバスへ、託された。宮廷の、何かの企てから、守られるために。父は、それを知りながら、リエッタに、王家のことを、一言も、告げずに、育てた。母の、願いの、通りに。
「戻ってきて」
ユリアナの声が、震えていた。
「あなたは、私の、妹です。生きていた。ずっと、探していた。……戻ってきて。王宮へ。あなたの、いるべき場所へ」
リエッタは、書き取った紙から、顔を上げた。
*
ユリアナの目は、真剣だった。嘘は、なかった。この人は、本当に、妹を、探し続けていた。孤独な、王太女が。たった一人の、血の繋がった相手を。その気持ちは、リエッタにも、伝わった。
けれど。
「ユリアナさん」リエッタは、言った。工具を、置くように、書き取った紙を、机へ、置いた。両手を、空ける。本当のことを、言うときの、構えだった。「私、あなたの、妹かもしれない。証拠が、そう言ってる。それは、受け入れる。血が、繋がってる。それも、事実」
「なら――」
「でも、私の家は、リュネです」
ユリアナの言葉が、止まった。
「私は、アルバスに、育てられた。工房で、道具を直して、大きくなった。私の名前は、リエッタ。魔道具師の、リエッタ。それは、王家の血が、証明されても、変わらない」リエッタは、静かに、続けた。「血が繋がってるのと、家族になるのは、別のことだと思うんです。あなたと私は、たった今、血が繋がってると、分かった。でも、まだ、姉妹じゃない。姉妹に、なれるかもしれない。これから。でも、それは、私が、王宮へ戻る、ってことじゃ、ない」
母の書簡が、そう言っていた。連れ戻すためではない。姉がいると、知らせるため。二人が、望むなら、姉妹になれるように。望まないなら、自由であるように。
「お母さんも」リエッタは、書簡を、指した。「書いてます。妹に、選ばせてって。役目じゃなくて、私自身の人生を、って。……だから、私、選びます。今の生活を、続けることを。あなたと、姉妹に、なっていくことは、拒まない。でも、それは、あなたが、私を、王家へ、しまい込むこととは、違う」
ユリアナは、長いあいだ、黙っていた。
傷ついた顔だった。せっかく、見つけた妹に、拒まれた。だが、その顔には、同時に、別のものも、あった。母の願いを、読んだ者の、顔。妹を、所有することは、できないと、知った顔だった。
「……あなたは」ユリアナは、掠れた声で言った。「私の、思っていた、妹とは、違いました。もっと、私を、必要としてくれると、思っていた。でも、あなたは、あなた自身で、立っている」
「寂しいですか」リエッタは、訊いた。
「ええ」ユリアナは、正直に、答えた。「でも……母が、望んだのは、たぶん、こういう、あなただった。しまい込める妹ではなく、自分で選べる、あなた」
*
その日の午後、二人は、書庫の中庭で、別れの挨拶を、した。
ユリアナは、王太女として、王都へ戻らねばならなかった。リエッタは、まだ、オルフェンで、調べることがあった。次に、いつ会えるかは、分からなかった。姉妹に、なれるかどうかも、これからだった。
別れ際、ユリアナは、懐から、小さな印章を、二つ、出した。
王家の、家紋を刻んだ、対の印章だった。双子のために、作られたもの。母が、遺していた、という。ユリアナは、その一つを、自分の前に、置いた。もう一つを、リエッタの前へ、差し出した。
「受け取って、とは、言いません」ユリアナは言った。「ただ、置いておきます。あなたが、いつか、姉妹に、なってもいいと、思ったら。そのときに、手に取ってください。それまでは、ここに、置いておく」
リエッタは、その印章を、すぐには、取らなかった。
中庭の、石の卓に、二つの印章が、並んだ。同じ家紋。同じ形。双子の、片方ずつ。けれど、二つは、触れ合っては、いなかった。指一本ぶんの、隙間を、空けて、置かれていた。
姉の印章と、妹の印章。血は、繋がっている。同じ紋を、分け持っている。それでも、今は、まだ、触れない距離に、あった。
いつか、その隙間が、埋まるかもしれない。埋まらない、かもしれない。それを決めるのは、血ではなく、これからの、二人だった。
リエッタは、その二つの印章を、しばらく、見ていた。取りも、しなかった。押し返しも、しなかった。ただ、触れない距離で、並んでいる、それを。
第八章 父が隠したもの
地下書庫は、塔の、いちばん深い場所にあった。
サラが、特別な許可を取って、二人を、そこへ通した。宮廷が抹消した記録の、写本が、かろうじて、残っている区画だった。灯の油の匂いと、湿った石の匂い。アルシアは、その暗がりで、父の名前を、探した。
アルバス・レン。
サラが、目録を辿り、一冊の、綴じ込みを、引き出した。古い、宮廷の、人事の記録。その写しだった。アルシアは、灯を近づけ、父の名の項を、読んだ。
宮廷魔導院、星路研究部。
父は、薬師では、なかった。少なくとも、最初は。宮廷の、魔導院で、星路を――地下を走る、古代の魔力路を、研究する、魔法士だった。それも、下働きではない。研究部の、中核の一人。記録には、共同研究者の名が、並んでいた。その、筆頭に。
セヴラン。
「宮廷魔導院長、セヴラン」サラが、その名を、読み上げた。眼鏡の奥の目が、曇った。「今の、摂政格の。……アルバス先生と、セヴラン院長は、若い頃、同じ研究を、していたのね。星路と、それから――」
サラの指が、次の行で、止まった。
「星環織機。……古代の、星路調整装置。二人は、それを、一緒に、研究していた」
アルシアは、その名を、初めて、聞いた。星環織機。父が、セヴランと、研究していたもの。双星紋と、命紬と、どこかで、繋がっているに違いない、古代の、何か。だが、その詳細は、この記録には、なかった。ただ、二人が、共に、それを追っていたこと。そして、ある時期を境に、父の名が、記録から、消えていること。それだけが、読み取れた。
*
さらに奥の棚から、サラは、もう一つ、私的な記録を、見つけ出した。
アルバス自身の、書きつけの、写しだった。宮廷を、離れる前後の、覚え書き。公式の記録ではなく、父が、自分のために、残した言葉。アルシアは、それを、読んだ。
宮廷を、去る。
エレノア様の、依頼を、受けた。あの子を――双つの星の、片方を、連れて、逃げる。この子を、企ての、鍵になど、させない。セヴランは、止まらない。あれは、正しさを、信じすぎている。多くを救うためなら、少数を、道具にしてもいいと。私は、その手伝いを、これ以上、できない。
アルシアの指が、頁を、繰った。
年を追って、書きつけは、続いていた。リュネでの、暮らし。娘たちの、成長。アルシアと、リエッタ。二人の、幼い日の、記録。父の字は、そこでは、穏やかだった。だが、時折、同じ、悔いが、混じった。
いつか、話さねばならない。あの子の、出生を。この繋がりの、本当の意味を。だが、まだ、幼い。もう少し、大きくなってから。もう少し、平和が、続いてから。
そして、最後のほうの頁に。
――娘たちへ、話す時期を、失った。
その一行が、あった。
アルシアは、その字を、長いあいだ、見ていた。話す時期を、失った。父は、話すつもりだった。いつか。もう少し、あとで。そう思っているうちに、五年前の、あの夜が、来た。断脈獣。リエッタの、魔炉。命紬。そして、父の、死。話す時期は、永遠に、失われた。
*
「……ずるい」
アルシアの口から、その言葉が、漏れた。
自分でも、驚くほど、低い声だった。父に対して、こんな言葉を、使ったことは、なかった。父は、優しかった。父は、犠牲になった。父は、リエッタを、生かすために、命を、削った。だから、アルシアは、父を、恨んだことが、なかった。悼むことしか、してこなかった。
だが、今。
「話す時期を、失った、じゃない」アルシアの声が、震えた。怒りで。「話さなかった、んだ。ずっと。もう少し、あとで、って、先延ばしにして。私たちが、幼いから、って。……私たちを、信じて、いなかった。本当のことを、受け止められないと、思っていた。だから、機械に、託した。私たちにではなく」
リエッタが、隣で、アルシアを、見ていた。
いつもの、リエッタなら。ここで、父を、庇っただろう。父さんは、守ろうとしたんだよ、と。あるいは、自分が、謝っただろう。私のせいで、父さんは、話せなかったのかも、と。謝罪役を、引き受けて。場を、和らげて。
だが、リエッタは、今日は、そうしなかった。
庇わなかった。謝りも、しなかった。ただ、アルシアの、隣に、いた。アルシアが、父に、怒るのを。悼むだけでなく、傷つき、恨むのを。止めずに、そばで、見ていた。それが、正しい怒りだと、知っているように。
「怒っていいよ」リエッタが、静かに、言った。「父さんに。私も、少し、怒ってる。……育ててくれた。感謝してる。でも、隠されてたのは、事実だから。感謝と、怒りは、両方、あっていい」
アルシアは、リエッタを、見た。
謝る、リエッタでは、なかった。庇う、リエッタでも。ただ、隣で、同じものを、見て、同じように、傷ついている、リエッタだった。二人で、父に、怒る。二人で、父を、悼む。崇拝でも、断罪でも、ない。間違いも、含めて、父を、引き受ける。サラの言った、通りだった。
*
その夜、宿の部屋で、アルシアは、父の杖を、握っていた。
黒ずんだ、古い木の杖。宮廷を出るとき、父が、突いてきた杖。エルドラへも、オルフェンへも、アルシアが、握ってきた。父の、手の跡が、握りに、残っている。この五年、アルシアは、この杖を、父の、代わりのように、握ってきた。父を、失わないために。父を、悼み続けるために。
だが、父は、完璧では、なかった。
星路を、研究し、セヴランと、道を分かち、娘たちに、真実を、告げそびれた。優しくて、忍耐強くて、そして、一人で、抱え込んで、決めてしまう人だった。守るために。愛していたから。だが、その愛は、アルシアたちの、知る権利を、奪ってもいた。
聖人では、なかった。加害者でも、なかった。ただ、間違えた、一人の人だった。
アルシアは、握っていた杖を、見た。
握りしめる手を、少しずつ、ゆるめた。父を、悼むために、握り続けてきた手を。父を、失わないために、掴んできた手を。父は、もう、いない。杖を、握っていても、戻らない。そして、握っている限り、アルシアは、怒ることも、許すことも、できなかった。
アルシアは、杖を、机の上へ、横たえた。
初めて、だった。この五年、壁に掛けるか、手に握るか、どちらかだった杖を。今、机の上へ、静かに、横たえる。握らずに。掛けずに。ただ、そこに、置く。父を、聖人でも、罪人でもなく、一人の人として、置くように。
杖は、机の上で、動かなかった。アルシアの手も、もう、それを、握っては、いなかった。
第九章 王家の回収命令
命令書は、その翌日、オルフェンへ、届いた。
早馬だった。王都から、まっすぐ。ユリアナが、まだ、オルフェンを発つ前に、追いついてきた。宮廷魔導院の、正式な封。ユリアナが、評議館の一室で、それを、開いた。読み進めるうちに、その顔から、血の気が、引いていった。
「……見せてください」リエッタは、言った。
ユリアナは、迷った。だが、隠すことでは、ないと、判断したらしい。命令書を、机に、広げた。リエッタは、それを、読んだ。魔道具の刻印を読むときのように、一語ずつ、正確に。
回収。保護。移送。
その、三つの言葉が、繰り返されていた。
「レヴェリア王家の、失われた第二子、リエッタなる者を、速やかに、王都へ、保護・移送せよ」リエッタは、声に出して、読んだ。「非常事態条項、第七項に基づき、本人の、同意の、有無に、かかわらず」
本人の同意の、有無に、かかわらず。
リエッタは、その一行を、二度、読んだ。同意が、要らない、と書いてある。リエッタが、行きたくないと言っても、移送できる、と。保護、という言葉の下で。危険から、守るという、名目で。
「これは」リエッタは、顔を上げた。「命令、ですよね。お願いじゃ、なくて」
「……ええ」ユリアナの声は、硬かった。「セヴラン院長の、名で、出されています。非常事態を、理由に。院長は、私に、これを、形式上、支持するよう、求めています。王太女として。妹の、保護に、賛同する、という形で」
*
リエッタは、命令書の、一点を、指した。
「ユリアナさん。ここ」
文面の、下のほう。移送の、目的を、記した欄。そこに、他とは違う、小さな字で、こう、書かれていた。
「――星環織機の、第二鍵として」
第二鍵。
リエッタには、その意味が、分からなかった。星環織機。父が、セヴランと、研究していた、あの装置。その、第二の鍵。リエッタが。第一の鍵は――ユリアナだろうか。双子の、二人が。何かの、鍵に。
ユリアナも、その字を、見た。そして、動きを、止めた。
「第二鍵……?」ユリアナが、呟いた。「保護、ではなく? ……院長は、私に、これを、妹の保護だと、説明しました。危険から、守るための、移送だと。でも、ここには」
ユリアナの指が、その字を、なぞった。
「星環織機の、鍵として、と、書いてある。守るため、では、ない。使うため、だ」
リエッタは、ユリアナの、その気づきを、見ていた。
この人は、セヴランを、信じていた。父代わりに。摂政に。妹の保護を、その人が、命じたと、疑わなかった。だが、命令書の、隅の、小さな字が、別のことを、告げていた。保護ではなく、鍵。守るためではなく、装置に、組み込むため。ユリアナの信頼に、初めて、ひびが、入る音が、聞こえた気がした。
「私は」リエッタは、静かに、言った。「行きません」
*
評議館の、他の役人たちが、こちらを、見た。
リエッタは、声を、大きくは、しなかった。だが、はっきりと、言った。
「私の名前は、リエッタ。リュネの、魔道具師です。王家の血を、引いているのは、事実。でも、この国の法では」リエッタは、以前、サラから聞いた、この国の決まりを、思い出しながら、続けた。「出生が、証明されても、本人を、同意なく、拘束したり、移送したりは、できないはず。違いますか」
役人の一人が、答えに、詰まった。ユリアナが、その隙間に、言葉を、入れた。
「……そのとおりです」ユリアナは、王太女として、答えた。「表向きの、法では。本人の意思に、反する、拘束は、認められない。この命令書は、非常事態条項で、その原則を、越えようとしている」
「非常事態って、何ですか」リエッタは、尋ねた。「私を、鍵にしないと、起きる、非常事態って。それが、書いてない。ただ、非常事態、としか。何が、危ないのか、説明もなく、私を、装置に、組み込むって。……そんな命令に、同意できません」
役人たちは、互いの顔を、見た。誰も、非常事態の中身を、答えられなかった。彼らも、知らされていないのだ。ただ、セヴランの名の、命令だけが、あった。中身の、分からない、緊急を、理由に。
リエッタは、守られる、対象ではなかった。連れ去られる、荷物でも。自分の、名前を、自分の、意思を、この場で、公に、口にした。行かない、と。理由の分からない命令には、同意できない、と。それは、王女の、宣言ではなかった。一人の、人間の、拒否だった。
ユリアナは、その姿を、見ていた。
*
議論は、その日、結論を、出さなかった。
命令書は、机の上に、残された。役人たちが、退出し、部屋には、リエッタと、アルシアと、ユリアナ、ノエルだけが、残った。ユリアナは、命令書を、じっと、見つめていた。「保護」という、その言葉を。
「保護」リエッタも、その字を、見た。「優しい、言葉ですよね。守るって、意味だから。でも」
リエッタは、工具袋から、油の小瓶を、出した。移送を拒む書類を、これから、何枚も、書くことになる。その前に、ペンの、動きが渋くなった軸へ、油を、差そうとした。ほんの、少し。指先に、油を、取る。
そのとき、ユリアナが、掠れた声で、言った。
「私は、この言葉を、疑ったことが、なかった」ユリアナは、「保護」の字を、指した。「セヴラン院長が、保護、と言えば、それは、守ることだと。信じていた。……でも、あなたは、同じ言葉を、強制だと、見抜いた。保護、という名の、拘束を」
リエッタの指の、油が、一滴。
命令書の、「保護」の、その文字の上へ、落ちた。
黒い、油の染みが、じわりと、紙へ、広がった。「保護」の二文字が、油に、滲んで、輪郭を、崩していく。守るという、その言葉が、黒く、染まっていった。
リエッタは、慌てて、拭こうとした。だが、ユリアナが、それを、止めた。
「いいえ」ユリアナは、静かに、言った。「そのままに。……その染みが、いちばん、正直だから」
「保護」の文字は、黒い染みの、下に、沈んでいた。守るという言葉が、その下で、別の、暗いものに、なっていくのを、二人は、見ていた。
第十章 離れるための嘘
リエッタが、いなくなったのは、その夜のことだった。
宿の部屋に、リエッタは、いなかった。荷が、一つ、消えていた。工具袋も。アルシアは、部屋を、素早く見回した。争った跡は、ない。連れ去られたのでは、ない。自分から、出て行った。
命紬の流れを、探れば、方角は、分かる。リエッタが、どちらへ、行ったか。だが、アルシアは、それを、しなかった。命紬で、リエッタの居場所を、読むこと。それは、リエッタを、繋がりで、縛ることに、近い気がした。逃げる相手を、糸で、手繰り寄せるように。
代わりに、アルシアは、部屋を、もう一度、見た。
作業台代わりの、机の上。そこに、一本の、鑢が、残されていた。
リエッタは、工具を、残さない。旅の荷を、まとめるとき、この人は、必ず、工具を、数える。一本ずつ、確かめて、袋へ、収める。落とした留め具さえ、拾って帰る人だ。その、リエッタが。一本の鑢を、机に、置いていった。
偶然では、なかった。
これは、印だ、とアルシアは、思った。リエッタが、わざと、残したもの。命紬で、追うな、という意味かもしれない。あるいは、追ってきて、という意味かもしれない。どちらにせよ、リエッタは、この鑢に、何かを、託していた。工具を、残すという、この人にとって、いちばん、あり得ないことで。
アルシアは、その鑢を、握った。
リエッタが、どこへ行くか。命紬ではなく、リエッタを、考えた。一人で、去るなら。アルシアや、ユリアナを、巻き込まない場所へ。高くて、静かで、街を、見渡せる場所へ。この大書庫で、そういう場所は、一つ、しかなかった。
アルシアは、保守通路を、駆け上がった。屋上へ、続く、細い階段を。
*
屋上の、縁に、リエッタは、立っていた。
夜風が、白い髪を、揺らしている。足元に、荷が、置いてあった。街の灯を、見下ろす、その背中は、小さかった。アルシアの足音に、リエッタが、振り返る。驚いた顔だった。
「……どうして」リエッタが、言った。「命紬で、追ったの?」
「いや」アルシアは、握った鑢を、見せた。「これだ。お前が、工具を、残した。お前は、そんなこと、しない。だから、わかった。何か、言いたくて、残したんだと」
リエッタの目が、その鑢に、留まった。それから、少し、泣きそうな顔に、なった。
「……気づいてくれると、思ってた」リエッタは、掠れた声で、言った。「命紬じゃなくて、私を、見て、気づいてくれるって。……ずるいね、私。追ってきてほしくて、印を、残すなんて」
「なぜ、一人で、出た」
リエッタは、街の灯へ、目を、戻した。
「回収命令。第二鍵。……私が、いると、アルシアも、ユリアナさんも、巻き込まれる。私を、庇えば、二人とも、宮廷の、敵になる」リエッタの声は、静かだった。「それに。……いつか、こうなるって、思ってた。私が、どこか、遠くの、大きなものに、繋がってて。アルシアを、そこへ、引きずり込む」
「だから、一人で、行くのか」
「うん」リエッタは、頷いた。「それに――解除も。転律珠が、あれば、いつか、命紬を、解ける。そうしたら、アルシアは、自由になる。私に、魔力を、送らなくて、よくなる。危ない依頼を、断らなくて、よくなる。私が、いなくなれば……その日が、早く来る。アルシアが、自由になるのが」
来た、とアルシアは、思った。
リエッタの、いちばん深い、誤解が。
*
「リエッタ」アルシアは、言った。「一つ、聞く。先に、答えろ」
「……何」
「お前は、私から、自由になりたいのか」
リエッタが、振り返った。
「解除して。糸を、断って。私の魔力が、要らなくなって。それで、お前は、私と、離れたいのか。自由に、なりたいのか。――どっちだ」
アルシアの声は、硬かった。いつもの、硬さだった。ただ、目だけが、逃げなかった。リエッタの、答えを、待っていた。
リエッタの唇が、震えた。
「……ちがう」リエッタは、言った。小さく。けれど、はっきりと。「離れたく、ない。自由になんて、なりたくない。私は……ずっと、アルシアと、いたい。解除は、アルシアを、自由にするためで。私が、離れたいからじゃ、ない。私は、離れたくない。全然」
言ってしまった、という顔を、リエッタは、した。ずっと、隠していた本音。自分の願いを、口にしたら、アルシアを、縛ると、思っていた願い。それを、夜風の中で、言ってしまった。
アルシアの胸の、いちばん奥で、五年間、凍っていた板が、割れた。
「私も、だ」
アルシアは、言った。
「離れたく、ない」
否定形だった。守る、とも、供給する、とも、義務だ、とも、言わなかった。ただ、離れたくない、と。アルシアが、これまで、一度も、言えなかった、否定形の、本心だった。
「解除の、研究を、お前が、してるのを。私は、ずっと、お前が、私から、離れたいからだと、思っていた」アルシアは、続けた。言葉が、堰を、切ったように、出た。「命紬が、なければ、お前は、どこへでも、行ける。私に、縛られずに。だから、私は、お前を、自由にするために、解除を、手伝わなきゃと。……でも、本当は。本当は、怖かった。解除したら、お前が、いなくなるのが」
「アルシアが……?」リエッタが、目を、見開いた。「アルシアも、そう、思ってたの? 私が、離れたがってると?」
「ああ」
「私は、アルシアが、離れたがってると、思ってた」
二人は、屋上の、夜風の中で、顔を、見合わせた。
同じ、誤解だった。裏返しの、同じ誤解。リエッタは、自分がいれば、アルシアを縛ると思い。アルシアは、自分が供給者でいれば、リエッタを縛ると思い。互いに、相手を、自由にするために、自分を、消そうとしていた。相手が、離れたがっていると、信じて。五年、ずっと。
「……なんだ」リエッタが、笑った。泣き笑いだった。「私たち、ずっと、同じこと、考えてた。相手を、自由にするために、自分が、いなくなろうって。二人とも」
「ああ」アルシアも、言った。「馬鹿みたいだ」
「馬鹿みたいだね」
風が、二人の間を、抜けた。長い、誤解が、その風に、ほどけていった。もう、これ以上、「相手は自分から離れたい」とは、思わない。思えない。今夜、二人が、それを、口にしたから。離れたくない、と。互いに。
*
告白は、しなかった。
好きだ、とは、まだ、言わなかった。それは、たぶん、もっと、先のことだった。命紬を、解いて。糸が、なくなって。それでも、そばにいると、選べる日に。今夜は、ただ、離れたくない、と、確かめただけだった。それでも、それは、大きなことだった。関係の、いちばん深い、誤解が、終わったのだから。
「一人で、行かないで」アルシアは、言った。「行くなら、一緒だ。どこへでも。宮廷が、来るなら、二人で、逃げる。二人で、調べる。……お前を、一人には、しない。守るためじゃ、ない。私が、そうしたいから」
「うん」リエッタは、頷いた。「私も。アルシアを、置いて、行かない。もう」
リエッタが、足元の、荷を、持ち上げようとした。一人で、背負おうと、していた荷。
アルシアは、その荷の、反対側の、持ち手を、掴んだ。
二人で、荷を、持ち上げた。屋上の、縁で。一人が、背負って、去るはずだった荷を、二人の手で。片方だけでは、持ち上げなかった。二人で、持てば、軽かった。
「戻ろう」リエッタが、言った。
「ああ」
二人は、荷を、二人で提げて、屋上を、後にした。夜風は、まだ、吹いていた。けれど、その風は、もう、二人を、引き離しはしなかった。
第十一章 選ぶ側
宮廷の部隊が、オルフェンへ、近づいていた。
回収命令を、実行するための、兵だった。翌朝には、街へ、入るという。リエッタたちは、その前に、オルフェンを、離れなければならなかった。サラが、地下水路を通る、逃げ道を、用意してくれた。西門の下を、抜ける、古い水路。そこから、街の外へ、出られる。
出発の、直前。ユリアナが、地下水路の入口へ、来た。
「最後に、もう一度だけ」ユリアナは、言った。王太女の、声だった。「考え直してもらえませんか。王国は、今、危機に、あります。あなたの力が――双星脈が、必要なのです。あなたが、王都へ来て、姉妹で、力を合わせれば、この国を、救えるかもしれない」
リエッタは、荷を、背負う手を、止めた。
「その危機って、何ですか」
「……それは」ユリアナが、言い淀んだ。「私にも、詳しくは、知らされていません。ただ、セヴラン院長が、双子の力が、要ると」
「また、それ」リエッタは、静かに言った。「危機がある。でも、中身は、言えない。だから、来い。私を、鍵にする理由も、私を、守ると言いながら、同意なく、連れて行く理由も、全部、危機、の一言で。……ユリアナさん。私、危機を、疑ってるわけじゃ、ないんです。本当に、何か、起きてるのかもしれない。でも」
リエッタは、ユリアナの、目を、見た。
「中身を、隠したまま、私に、鍵になれって言う命令には、同意、できません。危機が、本当にあるなら、それを、全部、見せてください。その上で、私が、何を、できるか、一緒に、考えましょう。でも、それは、命令されて、連れて行かれることじゃ、ない。私が、選ぶことです」
ユリアナは、しばらく、黙っていた。
*
そのとき、ノエルが、進み出た。
ずっと、ユリアナのそばで、警備に、徹していた近衛が。初めて、口を、開いた。
「王太女殿下」ノエルは、率直に、言った。「命令は、聞きました。回収命令の、実行を。ですが、本人の、返事を、まだ、聞いていません」
「ノエル?」
「聞きました、殿下」ノエルは、リエッタを、見た。「リエッタ殿は、たった今、明確に、答えられました。同意しない、と。……ならば、記録上、これは、こうなります。『対象本人、保護に、同意せず。拒否を、明言』。近衛の、職務記録として、私が、これを、書きます」
ノエルは、帯びていた、小さな記録板に、その一文を、刻んだ。本人の返事は、拒否。それを、明文化した。
「これは、何を、意味するか」ノエルは、続けた。「非常事態条項は、本人の同意を、越えられます。ですが、越えるには、正式な、手続きが、要る。本人が、明確に拒否した場合、その拒否を、記録し、上位の、承認を、仰がねばならない。承認が、下りるまで、実力行使は、できません。……つまり、部隊は、動けない。手続きが、済むまで」
リエッタは、ノエルの、意図を、理解した。
ノエルは、命令に、背いては、いなかった。ただ、正しい、手続きを、踏んでいた。本人の拒否を、記録し、承認を、待つ、という。その手続きが、時間を、稼ぐ。宮廷部隊が、動けない、時間を。逃げるための、時間を。命令に、従いながら、その隙間で、リエッタの選択を、守っていた。
「守る対象を、動かす前に、行き先を、伝えるべきです」ノエルは、静かに言った。「本人の、返事も、聞かずに。それが、私の、職務の、筋です」
*
ユリアナは、ノエルと、リエッタを、交互に、見た。
そして、深く、息を、吐いた。
「……ノエル。あなたの、記録を、承認します」ユリアナは、王太女として、言った。「本人、拒否。手続きに、則り、承認を、上位へ、送ります。……上位とは、私です。私が、この件の、最終承認者。ならば、私は、承認を、保留します。妹の、拒否を、精査するため、と、いう理由で」
リエッタは、目を、見開いた。
ユリアナが、逃がそうと、していた。妹を。回収する、のではなく。拒否を、尊重して。時間を、稼いで。自分の、権限で。
「戻ってきて、と、言いました」ユリアナは、リエッタに、言った。「昨日も、今日も。でも……あなたは、戻る相手ではなく、選ぶ相手だった。母の、書いた通り。私は、あなたを、しまい込もうと、していた。保護、という名前で。院長と、同じように」
ユリアナの声が、震えた。
「行きなさい。リエッタ。あなたの、選ぶ、道を。私は、あなたを、回収しません。……その代わり、いつか。あなたが、望んだときに。危機の、本当の中身を、一緒に、調べてくれませんか。命令ではなく、頼みとして」
「はい」リエッタは、頷いた。「それなら。喜んで」
姉は、敵では、なかった。まだ、姉妹には、なりきれていない。けれど、敵でも、なかった。信頼を、これから、作れる相手。今、この人は、自分の、権力を使って、妹の、選択を、守った。それは、血ではなく、選択で、繋がる、始まりだった。
*
地下水路を、抜けて、西門の外へ、出た。
背後で、水門が、閉じ始めた。宮廷の追手が、この水路を、使えないように。サラが、閉じる仕掛けを、動かしていた。重い、石の門が、ゆっくりと、下りてくる。門の、こちら側に、リエッタと、アルシア。向こう側に、ユリアナと、ノエルと、サラ。
門が、下りきる、その直前。
「リエッタ」
ユリアナの声が、閉じていく門の、隙間から、届いた。
リエッタ、と。ただ、名前だけを。妹、でもなく。第二子、でもなく。王家の血、でもなく。ただ、リエッタ、と。この人が、初めて、リエッタを、役目や、血ではなく、一人の、リエッタとして、呼んだ、瞬間だった。
「気をつけて」ユリアナは、言った。「……また、会いましょう。今度は、命令じゃ、なくて」
水門が、閉じた。
石の門の、向こうに、姉の姿は、消えた。けれど、その、最後に呼ばれた、自分の名前が、リエッタの中に、残った。閉じた門は、二人を、隔てた。だが、その名前だけは、門を、越えて、こちらへ、届いていた。
リエッタは、閉じた水門を、しばらく、見ていた。それから、アルシアと、西へ、歩き出した。
第十二章 白い王女の帰路
リュネへ帰る道は、遠回りに、なった。
宮廷の追手を、避けて、西部の、街道を、外れた道を、辿った。途中、ガルドの伝手の、隠れ宿で、幾日か、身を休めた。オルフェンを出てから、家に着くまで、二十日近く、かかった。夏の、初めの、雨の多い時期だった。
家は、出たときの、ままだった。
竈の火は、落としてある。花壇の、青い花は、支柱のおかげで、倒れていない。食卓には、三つ目の椅子が、あった。窓側の、座面のわずかに沈んだ、あの椅子。父の、椅子。アルシアは、荷を下ろしながら、その椅子を、見た。
父が、宮廷の、星路研究者で。セヴランと、道を分かち。娘たちに、真実を、告げそびれた人だと。オルフェンで、知った。それでも、この椅子は、変わらず、そこに、あった。父を、聖人でも、罪人でもなく、一人の人として、悼む。その気持ちで、椅子を、見られるように、なっていた。少しだけ。
リエッタが、工房から、あの毛布を、持ってきた。
畳んで、椅子の背へ、掛ける。ずれのない、几帳面な畳み方で。旅のあいだ、二人は、この家を、思い出さなかった日は、なかった。帰る場所として。そして、これから、また、離れることになる場所として。
*
その夜、二人は、食卓で、これからのことを、話した。
「王都へ、行く」リエッタが、言った。「命紬の、始まり。返し環。第二鍵。星環織機。……全部の、答えが、王都に、ある。父さんが、セヴランと、研究していた場所。それに、危機の、本当の中身も。ユリアナさんが、一緒に、調べようって、言ってくれた」
「戻るのか」アルシアは、訊いた。「王家へ」
「ううん」リエッタは、首を、振った。はっきりと。「戻る、じゃない。行く、だよ」
アルシアは、その、言葉の、違いを、聞いた。
「戻るって、言うと」リエッタは、続けた。「私が、もともと、王家の、ものだったみたいでしょ。あそこが、私の、いるべき場所で。逃げてただけで。……でも、違う。私の、いるべき場所は、ここ。リュネの、この家。私は、王家の、ものじゃ、ない。行くのは、調べるため。答えを、見つけるため。終わったら、帰ってくる。ここへ。だから、戻る、じゃなくて、行く」
戻る、ではなく、行く。連れ戻される、のではなく、自分で、選んで、行く。同じ、王都へ、向かうのでも、その言葉が、指すものは、正反対だった。リエッタは、その違いを、正確に、選んでいた。魔道具の、部品を、選ぶように。
アルシアは、しばらく、黙っていた。それから、言いにくいことを、言うときの、癖で、袖口の留め具に、触れた。
「……私は」アルシアは、言った。「宮廷では、足手まといに、なるかもしれない」
リエッタが、顔を、上げた。
「私は、冒険者だ。田舎の。人混みも、儀礼も、苦手だ。宮廷の、駆け引きも、貴族の、言葉も、分からない。……お前は、王家の、双子で。姉が、王太女で。あそこには、お前の、血の繋がった、世界がある。私は、その、外側だ。ついて行っても、お前の、邪魔に、なるだけかもしれない」
アルシアの、恐れだった。オルフェンで、あの、紫の女を、見たときから。リエッタには、アルシアの、知らない、血と、居場所が、ある。宮廷という、アルシアの、入っていけない場所が。そこへ、リエッタが、行く。アルシアは、そこで、何者でも、なくなる。
リエッタは、道具を、置くように、汁椀を、脇へ、寄せた。両手を、空ける。本当のことを、言うときの、構えだった。
「一緒に、来てほしい」
リエッタは、言った。
「アルシアが、宮廷で、貴族の言葉を、話せなくても、いい。儀礼が、下手でも、いい。私が、欲しいのは、そういうことじゃ、ないの。……私は、あそこで、たぶん、怖くなる。王家とか、危機とか、大きなものに、飲まれそうに、なる。そのとき、隣に、アルシアが、いてほしい。私を、私のままで、いさせてくれる、アルシアが。足手まといなんかじゃ、ない。私が、いちばん、要る人だよ」
アルシアの胸の、奥が、静かに、熱くなった。
足手まといに、なるかもしれない、という、恐れ。それを、リエッタは、要る、という、言葉で、上書きした。守る側でも、供給者でも、なく。ただ、隣に、いてほしい、と。リエッタが、リエッタで、いられるために。それは、アルシアが、五年、欲しくて、言えなかった、居場所だった。
「……わかった」アルシアは、言った。「行く。一緒に」
*
数日後、王都から、書簡が、届いた。
ユリアナからだった。回収命令では、なかった。正式な、招請だった。それも、リエッタの、出した条件を、飲んだ上での。調査記録の、複写を、渡すこと。いつでも、帰れること。身体を、拘束しないこと。サラと、連絡を、取れること。リエッタが、安全に、そして、自分の意思で、王都へ行くための、取り決めだった。
その、受諾書が、同封されていた。
リエッタが、これに、署名すれば、王都へ、行くことが、正式に、なる。命令に、従うのではなく、自分の、意思で。条件を、決めた上で。リエッタは、その書面を、卓の上に、広げた。
二人部屋の、卓だった。この家には、部屋が、二つある。母屋と、工房。だが、今夜、リエッタは、工房ではなく、母屋の、この卓で、書いた。アルシアと、同じ部屋で。
リエッタが、ペンを、取った。
受諾書の、署名欄へ。「リエッタ」と、書いた。ただ、リエッタ、と。王家の、名も、称号も、付けずに。リュネの、魔道具師の、名で。自分の、意思で、王都へ、行く者として。
書き終えて、リエッタは、ペンを、アルシアへ、差し出した。
「証人の、欄。書いてくれる?」
アルシアは、ペンを、受け取った。受諾書の、隅に、証人を、記す欄が、あった。リエッタの、選択を、見届けた者の、名を、書く場所。アルシアは、リエッタの、署名の、隣へ、自分の、名を、書いた。
「アルシア」と。
二つの名前が、一枚の、書面の上に、並んだ。片方は、行く者。片方は、それを、見届ける者。連れ去られる、王女の名では、なかった。自分で、選ぶ者の、名と、その選択を、隣で、証する者の、名だった。
リエッタの署名と、アルシアの署名。
同じ卓の、同じ灯りの、下で。二つの名前が、乾いていくのを、二人は、見ていた。
第一章 王都へ向かう条件
王都へ発つ前に、リエッタは、もう一度、条件を、確かめておくことにした。
八月の、初め。オルフェンから帰って、ひと月近くが、過ぎていた。あの帰路の、宿で、リエッタは、ユリアナからの、正式な招請へ、署名していた。四つの条件を――記録の複写、いつでも帰れること、身体を拘束しないこと、サラとの通信を――ユリアナが、飲んだ上での、招請だった。アルシアが、隣で、証人に、名を、書いた。
だが、あれから、ひと月。宮廷の、様子が、変わってきた、と、ノエルからの、便りにあった。セヴランが、非常事態を、理由に、権限を、広げている。だから、リエッタは、出発の前に、もう一度、あの四条件が、今も、生きているか、確かめたかった。
「署名は、した」リエッタは、アルシアに、言った。「でも、状況は、動いてる。仕様を、決めたあとで、部品が、変わることも、ある。使う前に、もう一度、点検する。……向こうへ着いてから、話が違う、じゃ、遅いから」
リュネのギルドの、会議室で、ガルドを、証人に、リエッタは、四つの条件を、書き写し、ノエルへ、託した。ユリアナへの、問い直しとして。一つ、記録の複写。二つ、帰還の自由。三つ、身体の不拘束――命紬にも、星環織機にも、同意なく、繋がないこと。四つ、サラとの通信。招請で、飲まれたはずの、四つ。それが、今も、変わらず、守られるのか。
*
数日後、ユリアナからの、返書が、届いた。
ノエルが、それを、会議室へ、運んできた。リエッタは、封を、開けた。ユリアナは、四つの条件に、一つずつ、答えていた。だが、その答えは、招請のときとは、少し、違っていた。
すべてを、「変わらず、守る」とは、書いて、いなかった。
「一つ目と、四つ目は、変わらず、私の権限で、保証します」ノエルが、要点を、読み上げた。「記録の複写と、サラ殿との、通信。これは、王太女として、確約できる、と。……ですが、二つ目と、三つ目は」
「帰還と、拘束の禁止」
「殿下は、こう、書いておられます」ノエルは、書面を、示した。「『招請のときは、この二つも、守ると、約束した。だが、あれから、セヴラン院長が、非常事態条項で、権限を、広げた。今は、私の一存で、あなたの帰還を、完全には、保証できない。院長が、条項を、盾に、帰還を、妨げる可能性が、ある。私は、それに、抗う。全力で。だが、抗うと、約束することと、防げると、約束することは、違う。……前の約束を、下方修正する。正直に、それを、伝える』」
リエッタは、その一文を、二度、読んだ。
普通なら、こう書く。すべて、保証します、と。安心して、来てください、と。そのほうが、相手を、呼びやすい。だが、ユリアナは、そうしなかった。保証できることと、できないことを、分けて、書いた。できないことを、できる、とは、言わなかった。
「……正直だ」リエッタは、呟いた。
嘘の、全面保証よりも、この、不完全な、正直のほうが、信じられた。ユリアナは、リエッタを、騙して、連れて行こうとは、していなかった。危険が、残っていることを、隠さなかった。その上で、抗う、と。
*
「危ないな」アルシアが、書面を、覗き込んで、言った。「帰れない、かもしれない。拘束される、かもしれない。ユリアナが、それを、防げる保証は、ない」
「うん」リエッタは、頷いた。「危ない」
「行くのか」
リエッタは、すぐには、答えなかった。代わりに、アルシアを、見た。
「アルシアは、どう思う」
「私が、決めることじゃ、ない」アルシアは、言った。エルドラの避難室で、屋上で、学んだことを、守るように。「お前が、行きたいなら、行く。私は、隣にいる。……ただ」
「ただ?」
「危険を、二人で、分かった上で、行きたい」アルシアは、言った。「お前が、私を、守るために、危険を、隠さないでほしい。私も、隠さない。ユリアナが、正直だったみたいに。二人とも、これが、危ない賭けだと、分かって、行く。それなら、一緒に、行ける」
リエッタは、その言葉に、頷いた。
連れて行かれるのでは、なかった。危険を、知らずに、飛び込むのでも。二人が、危険を、正確に、理解して、それでも、行く、と、選ぶ。条件を、作り、保証の限界を、知り、その上で。受動では、なく、交渉と、選択として。
「行こう」リエッタは、言った。「条件を、飲める範囲で、飲んでもらって。飲めない危険は、二人で、引き受ける。……答えが、欲しい。命紬の始まりが。父さんの、本当のことが。それに」
リエッタは、少し、言葉を、切った。
「アルシアを、自由にする方法も。ちゃんと、安全な、解除の方法を。王都に、あるなら」
*
出発は、八月三日の、朝だった。
東行きの、乗合馬車を、ギルドが、手配した。目立たない、旅商人の、一団に、紛れる形で。宮廷の、正式な迎えでは、なかった。リエッタの、条件の、一つだった。派手な、王家の馬車で、連れて行かれるのは、嫌だった。一人の、旅人として、自分の足で、王都へ、行きたかった。
家の、戸締まりを、した。もう、何度目かの、旅立ちだった。竈の火を、落とし、花壇に、支柱を、足し、三つ目の椅子を、いつもの位置へ。毛布を、畳んで、椅子の背へ。何度、繰り返しても、この家を、閉じる手つきには、慣れなかった。帰ってくるための、準備。今度は、いつ、帰れるか、分からない、旅だった。
家の、鍵を、リエッタは、革紐に、通した。
それを、首から、下げた。荷の底に、しまうのでは、なく。首から、下げて、服の下へ。肌に、近い場所へ。この鍵が、あれば、いつでも、この家を、開けられる。帰る場所が、ここに、あると、確かめられる。王都が、どんな場所でも。危険が、どれだけあっても。この鍵の、行き先だけは、変わらない。
馬車が、動き出した。
窓の外で、リュネの街並みが、遠ざかっていく。森際の、家と、工房が、木立の向こうへ、隠れていった。リエッタは、窓辺で、首の鍵を、服の上から、握った。それから、革紐の、長さを、少し、直した。鍵が、胸の、いちばん、落ち着く場所へ、来るように。下げ、直した。
胸の上で、家の鍵が、馬車の揺れに、小さく、鳴った。
行く、のだった。戻る、のではなく。この鍵を、首から、下げて。帰る場所を、身につけて。答えを、探しに。
第二章 双子の門
王都アステラは、白い、環の街だった。
丘の上から、初めて、それを、見たとき、アルシアは、足を、止めた。白石で、築かれた、幾重もの、環。その中心に、王宮と、天を突く、白い塔――星環塔が、そびえている。街全体が、円を、描いて、広がっていた。美しかった。息を、のむほど。
だが、アルシアの、身体は、すぐに、別のことに、気づいた。
光が、均一すぎた。
夕暮れ時なのに、街のどこも、同じ明るさで、灯っていた。魔導灯の、光の、揺らぎがない。普通、灯は、油の残りや、風で、明るさが、変わる。強い場所と、弱い場所が、まだらに、できる。だが、アステラの光は、街の端から、中心まで、寸分の、ムラもなく、同じだった。まるで、誰かが、一つ一つの灯を、絶えず、同じ強さに、調整しているように。
魔力が、均されている。
アルシアには、それが、分かった。冷却や、熱変換で、魔力の、流れを、扱ってきた身体が、警告を、発していた。自然な、魔力は、こんなふうには、流れない。川に、瀬と、淵が、あるように、魔力にも、濃淡が、ある。だが、この街には、それが、ない。均一に、保たれている。誰かの、手で。
「きれいだね」リエッタが、隣で、言った。
「……ああ」アルシアは、答えた。「きれいだ。だが、変だ」
「変?」
「光が、揃いすぎている」アルシアは、街を、指した。「揺らぎが、ない。魔力を、こんなに、均一に保つには、絶えず、どこかから、力を、注いで、調整し続けなきゃ、ならない。その力は、どこから、来てる」
リエッタが、街を、見直した。魔道具師の、目で。しばらくして、その顔が、少し、曇った。
「……ほんとだ。均一すぎる。高度な、結界だとは、思うけど。でも、これだけの、規模を、均すには」
答えは、まだ、出なかった。ただ、美しい街の、その美しさが、何か、無理をして、保たれているという、感触だけが、二人の間に、残った。
*
外門で、それは、起きた。
目立たぬように、旅商人の一団に、紛れて、入城するはずだった。門番に、通行証を、見せ、静かに、門を、くぐる。そういう、段取りだった。だが、リエッタが、門の、敷居を、越えた、その瞬間。
門の、アーチに、埋め込まれた、古い、石が、光った。
淡い、金色の光。エルドラで、見たのと、同じ、星路の、光だった。門の石が、リエッタの、双星脈に、応えたのだ。それだけでは、なかった。リエッタの荷の、転律珠も、袋越しに、光り、門の石と、呼応した。二つの光が、門の下で、脈打った。
門番が、驚いて、後ずさった。周りの、市民も、旅人も、その光を、見た。
「なんだ、今の」「門が、光ったぞ」「あの、白い髪の娘が――」
ざわめきが、広がった。
秘密裏の、入城は、崩れた。リエッタが、門の石を、光らせた。それは、王家の、双星脈を持つ者にしか、起こせない、反応だった。この街の、誰かが、それを、知っている。星環塔の、方角で、鐘が、一つ、鳴った。
アルシアは、とっさに、リエッタを、庇う位置へ、動いた。
だが、遅かった。もう、大勢が、見ていた。リエッタの、存在が、この、公衆の、面前で、明らかになった。失われた、王家の、第二子。双子の、妹。それが、王都の、門を、くぐった。もう、隠せない。公的な、事件に、なった。
*
その日のうちに、二人は、王宮の、客館へ、通された。
ユリアナが、迎えた。「ごめんなさい」ユリアナは、開口一番、謝った。「門の、古い反応石のことを、忘れていました。あなたが、くぐれば、応える。……もう、街中が、知っています。あなたが、王家の血だと」
「隠すつもりも、なかったから」リエッタは、言った。「いいんです。ただ」
リエッタは、アルシアを、見た。
「一つだけ。ここでも、はっきり、させておきたいことが、あります」
リエッタは、客館の、広間で、集まっていた、宮廷の役人たちの、前で、言った。声を、大きくは、しなかった。だが、皆に、聞こえるように。
「私は、王家の血を、引いています。それは、事実。でも、私が、いちばん、大切にしている人は」リエッタは、アルシアの、隣へ、一歩、寄った。「この人です。アルシア。私の、幼馴染で、家族で、これから、王都で、一緒に、暮らす人。王家が、私を、迎えるなら、この人も、一緒です。切り離すことは、できません」
役人たちが、ざわついた。王家の、血筋の娘が、田舎の、冒険者を、隣に置く。それを、公然と、宣言した。
アルシアは、その言葉に、胸を、打たれた。
王都は、リエッタを、奪う場所だと、恐れていた。血の繋がった、姉が、宮廷が、王家という、大きなものが、リエッタを、アルシアの、届かない場所へ、連れて行く。そう、思っていた。だが、リエッタは、その、大きなものの、真ん中で、公然と、アルシアを、選んだ。隣に、置くと。切り離せないと。
奪われる、のでは、なかった。リエッタが、自分から、アルシアを、隣に、繋ぎ止めていた。
*
客館の、部屋は、二つ、続きで、用意されていた。
リエッタの、条件だった。別々の部屋でも、扉で、繋がっている、続き部屋。壁一枚で、隔てられるのでは、なく。いつでも、行き来できる、造り。宮廷は、その希望を、飲んだ。
夜、アルシアは、自分の部屋の、窓辺に、立った。
星環塔の、方角から、淡い光が、差していた。星路の、光。街の、地下を走る、古代の、魔力路が、地上へ、漏れ出た、その光。アルシアの部屋の、窓に、それが、差し込んでいる。
隣の、リエッタの部屋。その窓にも、同じ、星路の光が、差しているのが、続き扉の、隙間から、見えた。
同じ、一つの、星路の光。それが、二つの、窓に、差し込んでいた。ただし、角度が、違った。アルシアの窓には、斜めに。リエッタの窓には、また別の、角度で。同じ、光源から、来る、同じ光が、二つの、別々の窓を、別々の角度で、照らしていた。
一つの、星路。二つの、窓。二人は、同じ光の、下にいた。けれど、その光の、差し込み方は、一人ずつ、違った。同じものを、見ていても、立つ場所が、違えば、光は、違う角度で、届く。
アルシアは、その、二つの光を、しばらく、見ていた。奪われはしない。だが、リエッタには、アルシアの、立たない場所からの、光も、差している。王家という、血という、アルシアの、知らない角度の、光が。
第三章 宮廷という迷路
宮廷は、迷路だった。
石の壁でも、隠し扉でも、なかった。儀礼と、手続きの、迷路だった。リエッタが、資料を、見たいと言えば、まず、謁見の、申請が要る、と言われた。謁見には、正装が要る、と。正装には、衣装合わせが要る、と。衣装合わせには、三日、かかる、と。一つの、答えへ、辿り着くまでに、いくつもの、儀礼が、道を、塞いでいた。
だが、リエッタは、それを、全部、拒みは、しなかった。
「衣装合わせは、受けます」リエッタは、案内役の、女官に、言った。「王家の血だと、公表するなら、それに、ふさわしい、場は、要る。それは、分かる。でも」
リエッタは、女官が、広げた、豪奢な、ドレスの、山を、指した。
「これは、多すぎます。公式の、謁見に、一着。それで、十分。あとの、舞踏会だの、園遊会だの、社交の、場は、今は、要りません。私は、社交しに、来たんじゃ、ない。調べに、来た。だから、必要な、儀礼は、受けます。でも、必要ない、演出は、断ります」
女官は、戸惑った。王家の娘なら、ドレスを、喜ぶと、思っていたのだろう。だが、リエッタは、必要と、不必要を、分けた。魔道具の、部品を、要るものと、余りに、分けるように。全部を、拒めば、頑固な、田舎者に、見える。全部を、受ければ、宮廷の、時間に、飲まれる。だから、区別した。どれが、本当に、要る儀礼か。どれが、時間を、奪うための、演出か。
*
謁見を、済ませると、ようやく、魔導院の、閲覧室へ、入れた。
だが、そこにも、迷路は、あった。
星環織機の、記録。命紬の、原型の、資料。リエッタが、見たいものは、棚に、並んでいた。だが、その多くが、黒く、塗り潰されていた。頁の、半分。時には、頁の、全部。墨で、消されている。欄外に、小さく、「安全上の、理由により、閲覧制限」と、印が、押してあった。
「安全上の、理由」リエッタは、その印を、指でなぞった。「誰の、安全ですか」
司書は、答えなかった。答えられない、という顔だった。
黒塗りは、最近の、ものだった。墨の、乾き方が、周りの、古い紙と、違う。この一年以内。オルフェンの、抜かれた索引と、同じだ。誰かが、双星紋と、命紬と、星環織機の、記録を、組織的に、隠している。オルフェンでも。王都でも。
サラへ、共鳴札で、連絡を、取ろうとした。だが、札の、反応が、鈍かった。誰かが、通信を、傍受、あるいは、妨害している。リエッタの、条件では、サラとの、通信は、検閲しない、はずだった。だが、この、鈍り方は、監視の、証だった。約束は、表向き、守られ、裏で、破られていた。
リエッタは、それに、腹を、立てなかった。少なくとも、顔には、出さなかった。代わりに、黒塗りの、頁の、消され方を、観察した。何が、消されたか、より、どう、消されたか、を。墨の、濃さ。塗る、順番。消し手の、癖。壊れた道具を、憶測で直さず、まず、壊れ方を、見るように。
*
閲覧室で、権限を、使うことも、できた。
ユリアナは、リエッタに、王女としての、閲覧権限を、与えると、言った。それを、使えば、黒塗りの、下の、原本を、出させることも、できたかもしれない。王家の、命令として。
だが、リエッタは、それを、使わなかった。
「権限で、こじ開けたら」リエッタは、アルシアに、言った。夜、客館の、続き部屋で。「私は、ただの、王女に、なる。命令する、王女に。……それじゃ、ここの人たちは、私を、信じない。恐れるだけ。恐れられたら、本当のことは、出てこない。黒塗りの、下の、もっと下は、見せてくれない」
「じゃあ、どうする」
「職人として、信頼を、稼ぐ」リエッタは、言った。「私が、魔道具師だって、知られたら、閲覧室の、技師や、下働きが、私に、話しかけてきた。壊れた、測定器を、直してくれ、って。直したら、次は、別の人が。……そういう、繋がりのほうが、王女の権限より、深いところまで、届く。技師は、黒塗りの、下を、知ってる。信頼できる相手になら、それを、漏らす」
王女として、与えられる、権限。魔道具師として、稼ぐ、信頼。リエッタは、後者を、選んだ。時間は、かかる。だが、恐れではなく、信頼で、得た情報は、確かだった。
*
その、六日目の、夜だった。
リエッタは、閲覧室で、集めた、断片を、王都の、地図の上に、広げた。技師たちが、こっそり、教えてくれた、魔力の、流れ。星路の、通り道。黒塗りの、下から、推測した、節点の、位置。リエッタは、それを、一本の、線として、地図に、引いた。魔力が、街の、どこへ、集まっているか。
同じ頃、アルシアも、地図に、線を、引いていた。
アルシアは、この六日、街を、歩いていた。リエッタが、儀礼と、閲覧室で、動くあいだ、アルシアは、王都の、路地を、警戒しながら、見て回った。どこに、衛兵が、多いか。どこが、立入禁止か。どこで、市民が、倒れたと、噂されるか。アルシアの、線は、街の、不穏の、地図だった。
二人は、それぞれの、地図を、重ねた。
リエッタの、魔力の、集まる線。アルシアの、不穏の、線。別々に、引いた、二本の線。技術と、警戒。まったく、違う、方法で、集めた情報。それが。
同じ、一点で、重なった。
王都の、中心。星環塔の、真下。地下の、ある一点。そこへ、リエッタの、魔力線は、集まっていた。そして、そこの、周辺で、アルシアの、不穏線は――市民が倒れ、衛兵が固め、立入が禁じられた場所が、環を、描いていた。
「ここだ」リエッタが、その一点を、指した。「魔力が、集まって、人が、倒れてる場所。星環塔の、真下。……ここに、答えが、ある」
「二人で、同じ場所に、辿り着いた」アルシアが、言った。「別々の、道で」
リエッタの、線と、アルシアの、線。技術と、警戒。二本の、別々の線が、地図の、同じ、地下の一点で、交わっていた。どちらか一方では、辿り着けなかった、場所へ。二人が、対等に、噛み合って、初めて、届いた、一点へ。
第四章 王女の部屋、魔道具師の手
ユリアナの、私室の、奥に、小さな、工房が、あった。
「母の、部屋です」ユリアナが、扉を、開けた。「王妃エレノアの、私的な、工房。母は、王妃でしたが、手を、動かすのが、好きな人でした。ここで、古い、器械を、いじっていた。母が、亡くなってから、誰も、入れていません」
工房は、埃を、かぶっていた。作業台。工具。半分、組みかけの、器械。母の――王妃の、手の跡が、そのまま、残っていた。リエッタは、その、埃の匂いに、懐かしさを、覚えた。工房の、匂いだった。父の、工房と、同じ。ものが、答えを、待っている場所の、匂い。
「王家の、遺品には、触れないよう、宮廷からは、言われています」ユリアナが、言った。「でも」
ユリアナは、作業台の、中央の、器械を、指した。
「これを、直してほしいんです。あなたに。妹としてでは、なく。魔道具師として」
*
それは、星見儀だった。
星の、位置を、観測し、記録する、古い器械。だが、動かなかった。ユリアナが、何度、試しても、環が、回らない。母が、遺した、最後の、器械。母は、これを、組みかけで、遺した。何のために、組んでいたのかは、分からない。ただ、直せば、母の、意図が、分かるかもしれない。
リエッタは、その星見儀を、覗き込んだ。
「触っても?」
「ええ。お願いします」
リエッタは、工具袋を、開けた。慣れた、手つきで、星見儀の、外殻を、外す。中の、歯車と、環の、噛み合わせを、見る。ユリアナは、その手元を、じっと、見ていた。
「あなたの、手」ユリアナが、呟いた。「私の、手と、同じ、形なのに。全然、違うことを、する」
リエッタは、顔を、上げた。ユリアナの、手を、見た。確かに、形は、似ていた。指の、長さも、爪の、形も。双子だから。だが、ユリアナの手は、白く、傷が、なかった。政務と、書き物の、手だった。リエッタの手は、工具の、傷と、たこで、硬かった。
「同じ、手でも」リエッタは、言った。「使い方が、違えば、違う手に、なるんですね」
「……あなたは、何が、好きですか」ユリアナが、唐突に、尋ねた。
「え?」
「食べ物。好きな、食べ物」ユリアナは、少し、恥ずかしそうに、言った。「私、あなたのことを、何も、知らない。双子なのに。同じ顔なのに。あなたが、何を、好きで、何を、嫌いか。……姉なのに、知らない。だから、聞きたい。一つずつ」
*
リエッタは、その、問いに、少し、驚いた。
同じ顔だから、分かる、と、ユリアナは、言わなかった。血が、繋がっているから、通じ合える、とも。代わりに、聞いた。一つずつ。知らないことを、知らないと、認めて。
「甘いもの、が、好きです」リエッタは、答えた。「干し杏とか。作業のあいだ、一つ食べると、指先まで、戻る気がして。……ユリアナさんは?」
「私は、酸っぱいものが、好きです」ユリアナが、少し、笑った。「意外でしょう。王女は、甘いものを、好むと、思われがちですが。……子どもの頃、こっそり、厨房で、酢漬けを、つまんで、叱られました」
「全然、違う」リエッタも、笑った。
「ええ。全然」
双子でも、好きなものが、違った。似た顔で、違う手を、持ち、甘いものと、酸っぱいものを、好む。二人は、そうやって、一つずつ、互いの、違いを、確かめた。同じだから、分かるのではない。違うことを、聞いて、知る。それが、この、姉妹の、始め方だった。
リエッタは、星見儀の、歯車を、直しながら、話した。リュネの、暮らし。工房の、朝。アルシアのこと。ユリアナは、王宮の、暮らしを、話した。政務の、退屈さ。母を、亡くした、寂しさ。二人は、共有していない、十八年を、言葉で、少しずつ、埋めた。
*
四日目に、星見儀は、直った。
原因は、単純だった。環を、回す、駆動の、歯車が、一つ、外れていた。母が、組みかけたまま、遺した、その一つ。リエッタは、それを、正しい位置へ、嵌め直し、油を、差した。
環が、回り始めた。
星見儀の、上部で、二つの、小さな、星が、環に沿って、回り出した。母が、この器械に、仕込んでいた、仕掛けだった。二つの星が、同じ、円軌道を、巡る。だが、二つは、決して、重ならなかった。追いかけ、追い越し、また離れ、それでも、同じ円を、回り続ける。
「これは……」ユリアナが、息を、のんだ。
星見儀の、台座に、その仕掛けの、意味が、刻まれていた。母の、字で。双つの星は、一つに、ならず、同じ円を、行く。
「双子の、こと、だ」リエッタが、呟いた。「私と、ユリアナさんの。……お母さんは、これを、組んでいた。二つの星が、重ならずに、同じ円を、回る仕掛けを。私たちが、一つに、溶け合うんじゃ、なくて。違うまま、同じ、円の中に、いられるように、って」
そして、星見儀の、底の、隠し引き出しが、環の回転で、かちり、と、開いた。
母の、遺した、入口だった。星見儀が、正しく、回ったときだけ、開く、隠し場所。中に、一枚の、鍵と、地図の、断片が、あった。星環塔の、地下へ、通じる、王妃だけが、知っていた、道の。
二つの、重ならない星が、同じ円を、回っていた。その、円の、中心で、母の、遺した道が、開いていた。リエッタと、ユリアナは、その、開いた引き出しを、二人で、覗き込んだ。似た顔を、寄せ合って。けれど、重ならずに。
第五章 アルバスの裁判記録
王宮の、地下記録庫は、冷たかった。
王妃の、星見儀から、出た地図は、この、記録庫の、奥を、指していた。ユリアナの、許可で、二人は、そこへ、入った。古い、裁判の記録が、棚に、並ぶ、区画だった。アルシアは、灯を、掲げ、父の名を、探した。
アルバス・レン。
見つかった。分厚い、綴じ込みの、背に。アルシアは、それを、引き出し、開いた。そして、最初の頁で、動きを、止めた。
判決。
新暦三百年。被告、アルバス・レン。罪状、王家第二子の、誘拐。および、星環機密の、窃取。判決、有罪。
「誘拐……」アルシアの、声が、掠れた。
父は、リエッタを、誘拐したと、記録されていた。王家の、赤ん坊を、盗んだ、犯罪者として。そして、星環織機の、機密を、盗んだ、反逆者として。有罪。この、王国の、公式の、記録の上で、父は、そういう、人間だった。
さらに、頁を、繰る。判決は、本人が、いない場所で、下されていた。欠席裁判。父は、この法廷に、立っていない。反論の、機会も、与えられず。ただ、いない、まま、有罪と、された。逃げた、赤ん坊の、行方を、知る唯一の男。それを、捕らえられないまま、罪だけを、確定させた。
*
アルシアは、証拠の、欄を、読んだ。
有罪を、支える、証拠。そこに、並んでいたのは、たった一つ。セヴランの、証言だった。
「宮廷魔導院長、セヴランの、証言によれば、被告アルバスは、王妃の、精神が、不安定な折に、乗じ、第二子を、連れ去った。王妃は、錯乱の中で、これを、黙認したが、正常な、判断ではない」
錯乱。黙認。
アルシアは、その言葉に、指を、当てた。セヴランは、こう、言っている。王妃は、正気では、なかった。だから、アルバスの、誘拐を、止められなかった。すべては、アルバスの、単独犯行だと。
だが、リエッタは、持っていた。王妃エレノアの、暗号書簡を。オルフェンで、手に入れた、あの、母の、直筆を。そこには、こう、書いてあった。この子を、アルバスへ、託す。宮廷の、企てから、守るために。錯乱では、なかった。明晰な、意思だった。母は、正気で、自分の、意思で、リエッタを、逃がした。
「証拠が、欠けてる」アルシアは、言った。「王妃の、命令書が。母上が、父に、リエッタを、託した、その、命令が。あれば、父は、誘拐犯じゃ、ない。王妃の、依頼を、受けた、だけだ。……なのに、その、証拠だけが、この記録から、抜かれてる」
抜かれていた。オルフェンの、索引のように。閲覧室の、黒塗りのように。父の、無実を、証明する、たった一つの、証拠だけが。そして、代わりに、セヴランの、証言だけが、残されていた。父を、誘拐犯に、仕立てる、証言だけが。
アルシアの、身体の、芯で、怒りが、燃えた。
父は、間違いを、犯した。娘たちに、真実を、告げそびれた。それは、事実だ。アルシアは、父に、怒った。オルフェンで。だが、それは、隠しごとへの、怒りだった。父が、犯罪者だから、では、ない。父は、王妃の、依頼で、リエッタを、守った。それを、この王国は、誘拐と、呼び、反逆と、呼び、証拠を、抜いて、罪人に、仕立てた。
*
アルシアの、手が、剣の、柄に、伸びかけた。
この、冷たい記録庫を、壊したかった。父を、罪人にした、この、偽りの記録を。棚を、なぎ倒し、綴じ込みを、引き裂き、セヴランの、証言を、燃やしたかった。父の、名誉を、汚した、すべてを。
だが、その手を、止めた。
壊せば、記録は、消える。偽りの記録も、消えるが――それを、覆すための、証拠も、消える。この、欠落した証拠欄は、それ自体が、証拠だった。ここに、王妃の命令書が、あったはずだ、という、抜かれた跡が。壊してしまえば、その跡も、なくなる。父の、無実を、証明する、手がかりが。
アルシアは、リエッタが、いつも、していることを、思い出した。壊れたものを、憶測で、捨てず、まず、壊れ方を、見る。壊すのは、いつでも、できる。だが、壊したら、二度と、戻らない。
「……保存する」アルシアは、剣から、手を、離した。
怒りを、破壊に、使うのでは、なく。父の、名誉を、取り戻すために、使う。この、偽りの記録を、複写する。証拠が、抜かれた、その跡ごと。リエッタの持つ、王妃の書簡と、突き合わせれば、いつか、この判決を、覆せる。父を、誘拐犯から、王妃の、依頼を、果たした人へ、戻せる。
それが、破壊よりも、難しく、そして、父の、名誉を、守る、唯一の、道だった。
*
アルシアは、複写紙を、広げ、記録を、写し始めた。
判決。罪状。証拠の、欠落。セヴランの、証言。一字ずつ、正確に。魔道具師の娘らしく、感情を、挟まずに、まず、写す。リエッタが、刻印を、写すときの、あの、手つきを、真似て。
だが、被告の、名を、写す段に、なって、アルシアの、手が、止まった。
アルバス・レン。
父の、名前。誘拐犯と、書かれた、その名前。アルシアは、それを、複写紙に、写した。一度。それから、また、写した。二度。三度。同じ場所に、重ねて。父の、名だけを、何度も、何度も。
罪状の、下の、父の名を。汚された、父の名を。アルシアは、複写紙の、余白に、重ね書きした。アルバス。アルバス。アルバス。墨が、重なり、濃くなり、紙が、へこむほど。
犯罪者では、なかった。反逆者でも。ただ、王妃の、願いを、聞き、二つの星の、片方を、守り、そして、罪を、着せられた、一人の、父だった。
アルシアの、複写紙の上で、父の名だけが、何度も、何度も、重ねて、書かれていった。破壊ではなく。忘れないための、記録として。
第六章 星環織機
王妃の、鍵は、星環塔の、地下へ、通じていた。
星見儀の、隠し引き出しから、出た、鍵と、地図。それを、頼りに、リエッタ、アルシア、ユリアナ、ノエルの、四人は、公式の、通路ではなく、王妃だけが、知っていた、私設の道を、下りた。宮廷の、監視を、避けて。星環織機の、中枢へ。
中枢は、巨大な、空洞だった。
天井の、見えない、闇の中に、いくつもの、環が、浮いていた。金属の、環。導晶の、節点が、光る、環。大小の、環が、互いに、傾きを、変えて、ゆっくりと、回っている。それが、星環織機だった。星路を、観測し、調整する、古代の、装置。空間に、浮く、環の、林。
リエッタが、その中央へ、足を、踏み入れた、瞬間。
環が、応えた。
いくつもの、環が、リエッタに、向かって、傾いた。同時に、ユリアナが、反対側から、入ると、環は、今度は、二人の、中間で、均衡を、取るように、回り始めた。リエッタと、ユリアナ。双子の、二つの、位相を、装置が、読んでいた。
「燃料じゃ、ない」リエッタは、環の、動きを、見上げて、言った。「装置は、私たちを、燃やしてない。位相を――向きを、合わせてる。私たちは、この、織機の、燃料じゃなくて、調律の、基準点なんだ。二つの、違う位相が、揃うことで、環の、傾きが、決まる」
双子は、装置の、燃料ではなかった。位相を、調整する者だった。二人が、いなければ、環は、正しく、傾かない。だが、二人は、消費されるのでは、ない。ただ、基準として、在るだけ。エルドラで、脈打った、命紬。あれは、この、星環織機の、共鳴だった。リエッタの、双星脈が、遠く、この装置に、応えていた。
*
中枢の、壁に、古代の、記録が、刻まれていた。
リエッタと、ユリアナが、それを、解読した。リエッタは、記号の、構造を。ユリアナは、王家に、伝わる、古語を。二人の、違う、読み方が、噛み合って、古い文字が、意味を、持ち始めた。
誓紬。
それが、命紬の、原型の、名だった。
「二人が、互いの、魔力の、負担を、分け合う、術……」リエッタが、読み上げた。「救命と、共同作業のための。でも、安全に、使うには、三つの、要件が、要る、って」
刻まれた、三つの、要件。リエッタは、それを、一つずつ、指で、なぞった。
「一つ。双方が、繋がる、目的と、上限に、明示的に、同意すること。……勝手に、繋いじゃ、いけない。二人が、なぜ、どこまで、繋ぐか、を、決めて、同意する」
「二つ。双方が、いつでも、切断を、要求できる、返し環を、持つこと」
返し環。父の、断片の声の、あの、言葉だった。リエッタの、指が、少し、震えた。
「返し環……逃げ場だ。流れを、いつでも、返せる、環。片方が、やめたいと、思ったら、いつでも、繋がりを、返せる、仕組み。……これが、あれば、解除のとき、反動が、逃げる。焦げずに、済む」
「三つ。繋がりの、外側に、負荷と、同意を、監視する、独立した、第三点が、あること」
三つ目。独立した、第三点。二人の、外に、繋がりを、見守る、もう一つの、点。それは、人命である、必要は、ない、と、記録は、続けていた。古代には、星環装置が、その、第三点を、担った、と。
*
リエッタは、その、三つの要件を、自分たちの、命紬と、照らし合わせた。
そして、気づいた。二つが、欠けている。
「私たちの、命紬には」リエッタの、声が、掠れた。「返し環が、ない。逃げ場が、ない。だから、解除しようとすると、反動が、一点に、集まって、焦げる。五年間、私が、失敗し続けたのは、これだ。返し環が、ないから」
「もう一つは」アルシアが、言った。
「第三点」リエッタは、記録の、最後の一行を、読んだ。喉が、詰まった。「独立した、第三点。それが……私たちの、場合。生命痕に、なってる。人の、生命が、第三点に、代用されてる」
沈黙が、落ちた。
生命痕。人の、生命。五年前。父は、宮廷式の、命紬を――返し環も、同意確認も、削られた、強制術を、改変して、リエッタと、アルシアを、結んだ。数分で、死ぬ、リエッタを、救うために。だが、時間が、なかった。返し環は、作れなかった。そして、三つ目の、第三点――独立した、監視点を、装置で、用意する、暇も。
だから、父は。
「父さんが」リエッタの、声が、震えた。「第三点を、自分の、生命で、代用した。……装置の、代わりに。自分の、命を、私たちの、繋がりの、第三点に、して。その、反動を、引き受けて。死んだ」
父は、なぜ、死んだのか。ずっと、分からなかった。リエッタは、庇った自分の、負傷のせいだと、思った。アルシアは、守れなかった自分のせいだと。違った。父は、二人を、繋ぐ、その術の、足りない、三つ目の点を、自分の、命で、埋めた。だから、逝った。
そして、命紬は、父の、発明では、なかった。古代の、誓紬を、宮廷が、返し環と、同意を、削って、強制術に、改変したもの。それが、命紬だった。父は、その、危険な、宮廷式を、緊急で、使わざるを、得なかった、だけ。
*
そのとき、中枢の、入口から、足音が、した。
「――ようこそ、星環織機へ」
静かな、声だった。怒鳴らない。柔らかく、丁寧な。灰銀の髪の、初老の男が、白い手袋を、はめた手を、後ろで、組んで、立っていた。濃紺の、正装。隙の、ない、佇まい。
「セヴラン院長」ユリアナが、身構えた。
「リエッタ殿」セヴランは、リエッタの名を、丁寧に、呼んだ。「そして、アルシア殿。お会いできて、光栄です。……もう、お気づきでしょう。あなたがたの、繋がりの、構造に。返し環が、なく、第三点が、失われている。危うい、状態だ」
セヴランは、環を、見上げた。
「解除は、可能です」セヴランは、言った。「リエッタ殿。あなたが、ご自身で、生命を、維持できる、装置――自律魔炉を、作れば。命紬の、供給が、要らなくなる。そうすれば、片結びを、断てる。私が、協力しましょう。王都の、設備と、星環織機の、記録を、使えば、あなた一人では、何年も、かかる研究が、数か月で、済む」
リエッタは、その、提案に、身を、固くした。実利が、あった。本当に。ここでなら、自律魔炉を、作れる。アルシアを、自由にできる。
「ただし」セヴランは、続けた。「条件が、あります。リエッタ殿。あなたには、王都に、残っていただく。星環織機の、位相調整者として。研究に、協力していただく。……この国の、安定のために。あなたの、力が、要るのです。双星の、位相が」
*
来た、とリエッタは、思った。
自律魔炉を、作らせる。代わりに、リエッタを、王都に、繋ぎ止める。命紬の、代わりに、星環織機に。糸を、解いて、別の、糸で、縛る。それが、セヴランの、提案だった。
アルシアが、動いた。
いつもの、アルシアなら。ここで、拒否した。リエッタを、王都に、縛る条件を。守るために。断固として。「駄目だ」と、一言で。リエッタの、代わりに。
だが、アルシアは、そうしなかった。
セヴランを、睨んだまま。だが、口は、開かず。アルシアは、リエッタを、見た。答えを、リエッタに、渡した。これは、リエッタの、身体の、話。リエッタの、自由の、話。だから、リエッタが、決める。アルシアは、代わりに、答えない。エルドラで、屋上で、学んだこと。
リエッタは、その、視線を、受けた。
「持ち帰ります」リエッタは、セヴランに、言った。「その条件は、今、ここでは、答えません。アルシアと、二人で、検討します。私の、身体のことで、私の、自由のことだから。……でも、一人では、決めない。二人で、考えて、返事を、します」
セヴランは、微笑んだ。
「賢明です」セヴランは、言った。「どうぞ、ご検討を。……ただ、時間は、あまり、ありません。この国の、安定値は、日ごとに、下がっている。あなたの、決断が、多くの、負荷を、左右する」
安定値。負荷。セヴランは、そう、言った。国の、危機を。人の、命や、暮らしを。数字のように。負荷、と。リエッタの、背筋が、冷えた。この人は、悪人の、顔を、していない。むしろ、善意で、話している。だが、その言葉は、命を、資源として、扱っていた。
*
セヴランが、去り、四人だけに、なった中枢で。
リエッタは、星環の、中央を、見上げた。
環が、回っている。星路の、位相を、映して。その、中央に、リエッタと、アルシアを、結ぶ、命紬の、線が、淡金に、浮かんでいた。装置が、二人の、繋がりを、可視化していた。一本の、線が、リエッタから、アルシアへ、伸びている。
その、線の、途中に。
一つの、結び目が、あった。
片結び。返し環の、ない、結び目。線は、リエッタから、アルシアへ、流れている。だが、その結び目からは、返る、道が、なかった。流れは、一方通行。逃げ場が、ない。他の、正しい誓紬なら、結び目から、返し環が、伸びて、流れを、戻せる。だが、二人の、結び目には、それが、なかった。
返る先の、ない、結び目。
星環の、中央で、二人を結ぶ、その線だけが、淡金に、光り、返す道の、ない、結び目を、浮かべていた。父が、命で、埋めた、三つ目の点の、代わりに。逃げ場の、ない、その、一点を。
第七章 自由の意味
セヴランの、提案を、二人は、三日、話し合った。
そして、三日目に、初めて、声を、荒げて、争った。
きっかけは、リエッタの、一言だった。客館の、部屋で、リエッタは、こう、言った。
「私、王都に、残ってもいい」
アルシアは、耳を、疑った。
「セヴランの、条件を、飲めば」リエッタは、続けた。「自律魔炉が、作れる。ここの、設備なら。数か月で。そうしたら、命紬を、解ける。アルシアは、自由になる。私に、魔力を、送らなくて、よくなる。……私が、王都に、残るくらい、安いよ。アルシアが、自由になるなら」
「駄目だ」
アルシアの、声が、鋭くなった。自分でも、驚くほど。
「お前は、リュネの、魔道具師だ。工房が、あって、帰る場所が、ある。首に、家の鍵を、下げてる。それを、捨てて、王都に、縛られる? セヴランの、鍵に、なるために? ……そんなことを、私の、自由の、ために? 冗談じゃ、ない」
「じゃあ、どうするの」リエッタも、声を、強めた。「アルシアは、私に、魔力を、送り続けて。そのせいで、回復が、遅くて。危ない依頼を、断って。ずっと、私に、縛られたまま。それで、いいの? 私が、王都に、残れば、アルシアは、解放されるのに」
「私は、解放なんて、頼んでない!」
*
言ってから、アルシアは、口を、つぐんだ。
大きな声だった。五年、こんな、大きな声を、リエッタに、向けたことは、なかった。リエッタも、驚いた顔で、こちらを、見ていた。部屋が、静まる。窓の外で、王都の、均一な光が、揺らぎもせず、灯っていた。
アルシアは、深く、息を、吸った。
「……また、だ」アルシアは、言った。低く。「私たち、また、同じことを、してる。オルフェンの、屋上で、気づいたはずなのに。相手を、自由にするために、自分を、差し出そうと、してる」
リエッタが、目を、見開いた。
「お前は」アルシアは、続けた。「私を、自由にするために、王都に、残ろうと、してる。自分を、差し出して。私は、お前の、自由を、守るために、その提案を、拒もうと、してる。……離れたい、とは、もう、思ってない。それは、解けた。でも、今度は。相手のために、自分が、我慢する、っていう、癖が、残ってる。二人とも」
相手のために、決める。相手のために、我慢する。相手のために、自分を、消す。中心の、誤解は、解けた。もう、相手が、離れたがっているとは、思わない。だが、その、先に。自己犠牲の、癖が、残っていた。愛しているから、こそ、自分を、差し出す。それが、二人の、まだ、抜けきらない、病だった。
「私が、王都に、残るのを」アルシアは、言った。「私は、頭ごなしに、拒んだ。駄目だ、と。……だが、それも、間違いだ。私が、決めることじゃ、ない」
*
翌朝、二人は、王都の、外壁の、散歩路を、歩いた。
高い、白石の、壁の上。風が、強かった。街を、一望できる場所だった。均一な、光の、街を。アルシアは、そこで、昨夜の、続きを、言った。落ち着いた、声で。
「聞き直す」アルシアは、言った。「リエッタ。お前は、王都に、残りたいのか」
「え……」
「セヴランの、条件を、飲んで。星環織機の、調整者に、なって。王都に、残る。それを、お前は、望んでるのか。私を、自由にするため、じゃ、なくて。お前、自身が。……どっちだ。先に、答えろ」
リエッタは、風の中で、しばらく、黙っていた。
それから、首を、振った。
「……望んで、ない」リエッタは、言った。小さく。だが、はっきりと。「私は、王都に、残りたく、ない。ここは、きれいだけど、私の、場所じゃ、ない。私の、場所は、リュネの、工房。アルシアと、いる、あの家。……セヴランの、鍵に、なりたくない。本当は」
「なら、残るな」アルシアは、言った。「お前が、望まないなら、残るな。私の、自由のために、お前が、望まないことを、するな。……それは、自由じゃ、ない。お前が、犠牲になるのは、私の、自由じゃ、ない」
「でも、命紬は……」
「解ける、方法を、他に、探す」アルシアは、言った。「セヴランの、条件を、飲まなくても。時間が、かかっても。二人で。……いいか、リエッタ。私が、欲しい、自由は。お前が、いない、状態じゃ、ない」
風が、二人の間を、抜けた。
「私が、欲しいのは」アルシアは、言った。言葉を、選びながら。「お前の、答えを、聞ける、状態だ。お前が、何を、望んでるか。聞いて、それを、一緒に、考えられる、状態。……自由って、相手が、いなくなることじゃ、ない。相手の、望みを、聞けることだ。今、私が、お前に、残りたいか、聞けたみたいに」
*
リエッタは、その言葉を、風の中で、聞いていた。
自由の、意味が、変わった。ずっと、二人は、自由を、こう、思っていた。相手が、いない状態。繋がりが、ない状態。縛りが、ない状態。だから、相手を、自由にするには、自分が、消えればいい、と。
だが、アルシアは、違う、と言った。自由とは、相手の、答えを、聞ける、状態だ、と。繋がっていても、聞ければ、いい。縛られていても、選べれば、いい。大事なのは、いる、か、いない、かではなく。聞ける、か、聞けない、か。決められるか、決めつけられるか。
「……そっか」リエッタが、呟いた。「自由って、そういうことか」
二人は、外壁の、手すりに、それぞれ、手を、掛けていた。風が、強くて、身体を、支えるために。リエッタは、右の、手すりを。アルシアは、少し、離れた、左の、手すりを。別々に、握っていた。
「じゃあ」リエッタが、言った。「セヴランの、条件は、断る。私は、王都に、残らない。命紬は、別の、方法で、解く。二人で、探す。時間が、かかっても。……それで、いい?」
「ああ」アルシアは、頷いた。「それを、聞きたかった。お前の、答えを」
リエッタが、笑った。今度は、目も、後から、細くなった。
そして、二人は、握っていた、手すりから、手を、離した。
別々に、握っていた、二つの、手すり。それを、二人は、同時に、離した。もう、支えは、要らなかった。風は、まだ、強かった。だが、身体は、ふらつかなかった。自分の、足で、立てた。相手の、答えを、聞いた、二人は。手すりに、掴まらなくても、立っていられた。
風の中で、二人の、手は、どこにも、掴まらず、それでも、倒れなかった。
第八章 解除したあとで
王宮の庭園は、朝のうち、人が、いなかった。
セヴランへの、返事を、書いた日の、翌朝だった。条件は、断った。リエッタは、王都に、残らない。命紬は、別の方法で、解く。時間が、かかっても、二人で。その、返書を、届けたあと、アルシアが、庭園へ、リエッタを、誘った。珍しく、アルシアのほうから。
庭の、隅の、静かな場所で、アルシアは、しばらく、何も、言わなかった。
袖口の、留め具に、触れている。言いにくいことが、あるときの、癖だった。リエッタは、待った。急かさずに。アルシアが、言葉を、見つけるまで。
「これを」ようやく、アルシアが、懐から、小さなものを、出した。「……お前に」
それは、白い花の、髪飾りだった。
小さな、白い花を、細い銀の枝に、留めた品。花弁は、薄い貝を、削って、作られている。朝の光を、受けて、内側から、淡く、光った。リエッタは、それを、見た。きれいだ、と思った。だが、なぜ、アルシアが、それを、差し出しているのか、分からなかった。
「レグナで」アルシアが、言った。ぽつり、ぽつりと。「祭りの前の、市で。同じような、花を、見た。……お前に、と、思った。でも、買えなかった。あのときは。私には、贈る、資格が、ないと、思った」
「資格?」
「命紬で、お前を、縛ってる、私が」アルシアは、目を、逸らした。「お前を、喜ばせて、近づけて。……それは、繋がりを、もっと、強くすることだ、と。逃げ道を、塞ぐことだ、と。だから、あのときは、買わずに、店を、離れた」
リエッタは、レグナの、祭りの日を、思い出した。アルシアが、一人で、市を、回っていた。戻ってきたとき、少し、様子が、おかしかった。あのとき、この人は、白い花の前で、手を、引いていたのだ。リエッタの、知らないところで。
「でも」アルシアは、続けた。「あのあと、別の街で、同じような、花を、見つけて。……買った。ずっと、持っていた。渡せずに。資格が、できるのを、待って」
*
リエッタの、胸が、静かに、鳴った。
「これ」リエッタは、言った。確かめるように。「私に、くれるの?」
「ああ」
「贈り物、として? 余り物、じゃ、なくて?」
かつて、リエッタが、腕帯を、余り物だと、偽って、渡したように。アルシアも、これを、何かの、口実で、渡すのかと。だが、アルシアは、首を、振った。
「余り物じゃ、ない」アルシアは、言った。「お前に、贈りたくて、買った。……理由は」
アルシアが、言葉を、探した。その、いちばん、言いにくい、理由を。
リエッタは、待った。肯定を。この髪飾りが、何を、意味するのか。アルシアの、口から、聞くまで。急かさずに。逃がさずに。
「……好きだ」アルシアが、言った。
短かった。だが、はっきりと。
「お前が、好きだ。家族としてでも、幼馴染としてでも、ない。……命紬の、供給者としてでも。ただ、お前が。リエッタが、好きだ。だから、この花を、お前の、髪に、挿したい。ずっと、そう、思っていた。レグナから」
リエッタの、目の奥が、熱くなった。
*
リエッタも、道具を、置くように、手を、空けた。両手を、開いて。本当のことを、言うときの、構えで。
「私も」リエッタは、言った。「アルシアが、好き。……ずっと。たぶん、私も、気づかない、ふりを、してた。命紬の、義務だと、思えば、楽だったから。でも、好き。家族じゃ、なくて。恋、として」
言ってしまった。ずっと、笑顔の下に、隠していた、いちばん深い、願いを。
「だから」リエッタは、続けた。「解除したあとも。命紬が、なくなったあとも。そばに、いてほしい。……でも」
リエッタは、正直に、言った。ここが、いちばん、大事なところだった。
「今の、アルシアの、好きって。命紬が、あるから、かもしれない。私も。今、好きって、言ったけど。繋がってるから、そう、思うのかも。……糸が、あるうちの、返事は、信じきれないの。怖くて。だから」
リエッタは、アルシアを、見た。
「約束して。解除したあと。糸が、なくなったあと。もう一度、選んで。そのとき、まだ、私を、好きなら。そばに、いたいなら。……糸のない、私を、選び直して。今の、返事じゃ、なくて。糸のない、あなたの、返事が、欲しい」
アルシアは、その言葉を、静かに、聞いていた。
「約束する」アルシアは、言った。「解除したあと。もう一度、選ぶ。……だが、リエッタ。私は、今も、糸のせいで、好きなんじゃ、ない。それは、分かってる。命紬は、感情を、伝えない。温度も、心も。糸があっても、なくても、私の、気持ちは、変わらない。……でも、お前が、確かめたいなら。何度でも、選び直す。糸のない、私が、糸のない、お前を。愛してる。だが、その愛で、お前を、縛りたくない。だから、解除する。縛らずに、選べるように」
*
朝の光の中で、二人は、顔を、寄せた。
どちらからでも、なかった。同時に、だった。リエッタが、目を、閉じる。アルシアも。二人とも、意識が、あって。意思が、あって。これから、何を、するのか、分かっていて。それを、望んで。
唇が、触れた。
救命の、口づけとは、違った。あのときは、リエッタは、意識が、なかった。処置だった。手順だった。今度は、違う。二人とも、目を閉じる前に、確かめた。互いの、意思を。これは、繋ぎ止めるための、口づけでは、ない。約束の、口づけだった。解除したあとも、選び直すという。
短い、口づけだった。離れると、二人とも、少し、照れた顔を、していた。恋は、もう、謎では、なかった。確定した。二人は、愛し合っている。それは、確かめるものでは、なくなった。これから、確かめるのは、糸のない未来で、その愛を、行動で、証せるか、だった。
「花」アルシアが、言った。「挿しても、いいか」
「うん」
リエッタは、白い髪を、耳の後ろへ、寄せた。アルシアが、髪飾りを、手に取る。細い銀の枝を、リエッタの、白い髪へ、そっと、差し込んだ。貝細工の、白い花が、白い髪の上に、留まる。同じ、白でも、花の白は、失ったものの、色では、なかった。そこに、咲いている、白だった。
アルシアの、指が、花を、留め終えて、リエッタの髪から、離れた。
離れた指の、その先に、白い花が、リエッタの、白い髪の上で、朝の光を、受けて、静かに、光っていた。レグナの、店先で、遠ざかっていった、あの花が。今、リエッタの、髪の上に、あった。
第九章 自律魔炉
告白したからといって、物語が、終わるわけでは、なかった。
翌日から、二人は、また、作業に、追われた。自律魔炉の、試作。リエッタが、生きるための、人工の、変換系。それが、できなければ、命紬は、解けない。恋が、成就しても、リエッタの、壊れた魔炉は、直らない。命は、まだ、アルシアの、供給に、頼っていた。
ただ、一つ、変わったことが、あった。
以前なら、リエッタは、自分の身体のことを、一人で、抱え込んだ。研究の、行き詰まりも。解除への、恐れも。笑顔の下に、隠して。だが、今は、違った。アルシアに、話した。作業の、進み具合も。うまくいかない、理由も。怖いことも。恋人に、なったから、では、ない。相手の答えを、聞ける関係に、なったから、だった。
「今日の、試験は」リエッタは、朝、アルシアに、言った。「胸の、装具に、転律珠の、小片を、組み込んで、体温差で、回す。少量の、魔力を、作れるか、試す。……危ないのは、変換が、追いつかなくて、供給が、途切れたとき。数時間、命紬を、絞って、装具だけで、保つか、見たい」
「それは」アルシアが、眉を、寄せた。「お前の、身体で、いきなり、試すのか」
「時間が、ないから」
「駄目だ」
アルシアは、言いかけて、止めた。
かつてなら、ここで、禁止した。危ないから、駄目だ、と。守るために。だが、それは、決めつけだった。リエッタの、選択を、飛び越える。アルシアは、言い直した。
*
「駄目だ、じゃ、ない」アルシアは、言った。「……段階を、組み直そう。一緒に」
アルシアは、紙を、広げた。
「いきなり、数時間、絞るのは、危ない。だが、お前が、急ぐ理由も、分かる。だから、段階を、刻む。まず、命紬を、一割だけ、絞って、装具が、その分を、補えるか、見る。問題なければ、二割。三割。少しずつ。……各段階で、お前の、脈と、体温と、魔力残量を、記録する。私が、測る。異常が、出たら、すぐ、命紬を、戻す。それなら、お前の、身体で、試しても、いきなり、止まることは、ない」
リエッタは、その、組み直された、段階を、見た。
禁止では、なかった。かといって、リエッタの、無茶を、そのまま、許すのでも。アルシアは、リエッタの、急ぐ理由を、認めた上で、危険を、刻んだ。守る、のではなく。一緒に、試験を、設計する。守る側と、守られる側では、なく。二人の、技術者として。
「……うん」リエッタは、頷いた。「それで、やろう。段階を、刻んで。記録を、取りながら」
サラも、遠隔で、加わった。共鳴札を、通じて。監視を、掻い潜って、暗号で。サラは、オルフェンから、試験の、手順を、確認し、危険な、飛躍を、叱った。「動いたことと、安全に、動くことは、別よ」と。リエッタは、その、厳しさに、守られた。急ぎたい、自分を。
*
低速で、安定して、回る機構が、要った。
胸の装具は、体温差で、転律珠の小片を、回す。だが、人の、体温差は、小さい。回転が、遅い。遅いと、変換が、不安定に、なる。速く回せば、安定するが、体温差では、そんな速さは、出ない。
答えは、王都の、下町に、あった。
下町の、水車工房。そこの、老いた職人が、低速でも、安定して、回る、水車の、機構を、持っていた。緩い流れの、川でも、止まらずに、回り続ける、工夫。リエッタは、それを、見て、閃いた。水車の、その、低速安定の、理屈を、胸の装具の、機構へ、移す。体温差の、小さな力でも、止まらずに、回り続ける、構造へ。
「これだ」リエッタは、職人の、水車の前で、言った。「重りと、遊びの、組み合わせ。小さな力を、溜めて、一定の速さで、放す。……体温差でも、これなら、回り続ける」
下町の、職人の、知恵と、古代の、転律珠と、リエッタの、設計。三つが、噛み合って、胸の装具の、試作が、進んだ。
*
だが、試験で、欠点も、分かった。
装具は、平常時なら、動いた。低速で、安定して、少量の魔力を、作り続けた。命紬を、二割、三割、絞っても、装具が、補った。順調だった。
問題は、急な、負荷だった。
ある試験で、リエッタが、階段を、駆け上がった。心拍が、上がり、魔力の、消費が、急増した。装具の、低速の、変換は、その、急な需要に、追いつけなかった。供給が、一瞬、途切れかけた。慌てて、命紬を、戻して、事なきを、得たが。
「初期型の、欠点だ」リエッタは、記録に、書いた。「急激な、負荷に、弱い。低速で、安定してる、から、逆に、急な、需要に、応えられない。それと――」
もう一つ、あった。星環織機の、位相が、逆に、なったとき。試験中、星環の、環が、逆位相へ、傾いた瞬間、装具の、回転が、乱れた。星路の、逆位相に、弱い。この、二つが、初期型の、限界だった。
リエッタは、その、二つの欠点を、隠さずに、記録した。かつてなら、うまくいった、ところだけを、見て、喜んだかもしれない。だが、サラの、言葉が、耳に、あった。美しい設計と、安全な設計は、別。動いた、と、安全に動く、は、別。だから、欠点を、書く。次に、直すために。
*
試験の、最終夜。
リエッタは、命紬を、限界まで、絞った。九割。ほとんど、ゼロに、近い流れ。装具だけで、身体を、保つ。初めての、試みだった。アルシアが、脈を、測り、サラが、遠隔で、数値を、見守った。
命紬の流れが、下がっていく。八割減。九割減。リエッタの、指先が、冷えた。だが、倒れは、しなかった。胸の、装具が、小さく、回っていた。体温差を、拾い、低速で、安定して。ごく、わずかな、魔力を、作りながら。
夜明けまで、リエッタは、その状態を、保った。
命紬の流れが、初めて、ゼロに、近づいた。アルシアの、魔力が、ほとんど、届いていない。それでも、リエッタは、生きていた。胸の、装具が、止まらずに、回り続けていたから。低速で。小さく。けれど、確かに。
窓の外が、白み始めた。アルシアが、リエッタの、手首から、指を、離した。
「……保った」アルシアが、掠れた声で、言った。
「うん」リエッタは、胸に、手を、当てた。装具が、まだ、回っている。小さく。「保った。……糸が、なくても。少しずつ、なら」
夜明けの光の中で、命紬の流れは、ゼロに、近かった。それでも、リエッタの胸の、装具は、小さく、回り続けていた。まだ、初期型で。欠点も、あって。完全では、なかった。けれど、それは、糸のない、朝への、最初の、一回転だった。
第十章 王都の夜が止まる
下町で、人が、倒れ始めたのは、その頃だった。
アルシアが、それを、見たのは、偶然だった。試作の、部品を、下町の、水車工房へ、返しに行った、その帰り。路地の、角で、老人が、倒れていた。近くの、女も、子どもを、抱えて、座り込んでいた。誰も、怪我は、していない。ただ、力が、抜けたように、動けなくなっていた。
「魔力が……抜ける」倒れた、老人が、掠れた声で、言った。「街の、灯が、明るくなると……身体から、力が、吸われる……」
アルシアは、街の、灯を、見上げた。
均一な、光。揺らぎの、ない、あの光。今、それが、いっそう、明るく、灯っていた。そして、その、明るさに、合わせて、街区の、あちこちで、弱い者から、順に、倒れていた。魔炉の、弱い、老人。病人。子ども。
分かった、とアルシアは、思った。氷が、背筋を、伝った。
この街の、均一な光。それは、美しい、結界の、技では、なかった。街区の、天蓋の、節点が、市民から、魔力を、吸い上げていた。無断で。絶えず。だから、光は、均一だった。誰かの、身体から、抜いた力で、均されていた。強い者からは、少し。弱い者からは――倒れるまで。
*
アルシアは、リエッタと、二人で、星環塔へ、向かった。王妃の、私設回路から。ユリアナは、評議会に、留まり、避難民の、対応に、追われている。この場には、いなかった。
中枢で、セヴランが、待っていた。相変わらず、隙の、ない佇まいで。白い手袋を、はめた手で、環の、傾きを、調整しながら。
「お気づきに、なりましたか」セヴランは、静かに、言った。「街の、光の、正体に。ええ。天蓋の、節点は、市民から、魔力を、徴収しています。同意なく。……ですが、考えてもみてください。おかげで、この街は、魔物にも、天候にも、脅かされない。多くの人が、安全に、暮らしている。少しの、負荷で」
「少しの、負荷で、人が、倒れてる」アルシアは、言った。
「弱い、個体です」セヴランは、答えた。冷たくは、なかった。むしろ、穏やかに。「安定値を、保つには、多少の、損耗は、避けられない。全体の、安定のためには」
損耗。個体。安定値。セヴランは、倒れた老人を、そう、呼んだ。人を、数字に、変えて。痛みから、言葉を、遠ざけて。
「これは、まだ、序の口です」セヴランは、続けた。「私の、計画――天蓋紬は、この、無断徴収を、王国全土へ、広げる。全国民を、小さな命紬で、結び、必要なときに、自動で、力を、集める。そして、その、網の、中心に」
セヴランは、リエッタを、見た。
「双子の――あなたと、姉君、ユリアナ殿下を、固定の、鍵として、据える。星環織機の、位相調整者として。永久に。……そうすれば、誰も、災害で、死なずに、済む。魔素嵐が、来ても、魔物が、溢れても。網が、全員の、力を、集めて、守る。美しい、仕組みだと、思いませんか」
*
「離脱は」リエッタが、尋ねた。「その網から、抜けたい人は、どうするんですか」
「離脱?」セヴランは、少し、首を、傾げた。心底、不思議そうに。「なぜ、抜ける必要が。守られているのに」
「抜けたい人も、いる」リエッタは、言った。「疲れた人。もう、力を、出せない人。その人が、抜ける、仕組みは」
「ありません」セヴランは、あっさりと、言った。「離脱を、許せば、網が、緩む。緩めば、守れない。だから、離脱は、できない。……いいですか、リエッタ殿。自由は、平時の、贅沢です。危機の中で、一人が、抜ければ、その分の、負荷が、他へ、回る。誰かが、必ず、担わねばならない。ならば、全員が、等しく、担うのが、公平でしょう。同意など、確認していては、間に合わない」
同意など、確認していては、間に合わない。
その言葉に、リエッタの、顔が、こわばった。父の、書きつけを、思い出したのだ。アルシアも。セヴランは、正しさを、信じすぎている。多くを救うためなら、少数を、道具にしてもいい、と。父が、宮廷を、去った、理由。それが、今、目の前で、国家の、規模へ、育っていた。
「一つ、聞く」アルシアが、言った。低く。「五年前。私たちを、襲った、断脈獣。あれは」
セヴランの、目が、アルシアを、見た。
「……ああ」セヴランは、少しの、間を置いて、言った。悪びれもせず。「あれも、私の、手配です。リエッタ殿の、生存を、確認し、回収するための。追跡用の、魔獣を、放った。ですが、あれは、暴走した。予定より、深く、魔脈を、断ってしまった。……不本意な、事故でした。惜しいことを、した。あなたの、魔炉が、無事なら、もっと早く、鍵に、できたのに」
*
アルシアの、視界が、赤く、染まった。
五年前。あの、森の夜。リエッタの、砕けた魔炉。父の、死。すべての、始まり。それが――この男の、回収作戦だった。リエッタを、鍵にするために、放った、魔獣。それが、暴走し、リエッタの、命を、奪いかけ、父を、殺した。
不本意な、事故。惜しいこと。セヴランは、そう、呼んだ。
アルシアの、手が、剣の、柄を、握った。今、ここで、この男を。五年分の、憎しみが、腕に、集まった。一歩、踏み出せば、届く。
だが。
アルシアは、止まった。
一人で、斬れば。セヴランは、倒せるかもしれない。だが、そのあと、どうなる。リエッタと、ユリアナが、宮廷の、敵になる。天蓋紬は、止まらない。むしろ、セヴランの、後継者が、より、強引に、進めるだろう。何より――アルシアが、単独で、決めて、斬れば。それは、リエッタと、ユリアナの、選択を、奪うことだった。この、大きな、倫理の、選択を。二人が、どう、この男と、この計画に、立ち向かうかを。
守るために、斬るのでは、なく。二人が、選べる、場を、守る。
アルシアは、剣から、手を、離した。代わりに、素早く、周囲を、見た。出入口。退路。星環塔の、保守通路。撤退の、経路を、目で、確かめる。今は、退く。憎しみで、暴走せず。リエッタと、そして、この場にいない、ユリアナが――二人の、双子が、後で、次の手を、選べるように。この、断脈獣の、こともまた、証拠を、揃えてから、然るべき場で、明かす。アルシアの、腕の、独断で、消してしまわずに。生きて、ここを、出る。
「退こう」アルシアは、リエッタに、囁いた。「ここは、院長の、庭だ。今、聞いたことは、忘れない。……証拠を、揃えて、出直す」
*
そのとき、セヴランが、環の、調整を、止めた。
「時間を、差し上げましょう」セヴランは、言った。「よく、お考えください。……ただ、その間、この街が、どうなるかも、見ておくと、いい」
セヴランが、中枢の、装置の、一部を、操作した。
街の、光が、消えた。
星環塔の、窓から、見下ろす、王都全体。均一に、灯っていた、その光が、いっせいに、消えた。天蓋の、徴収を、セヴランが、止めたのだ。市民からの、無断徴収で、保たれていた光。それを、止めれば、街は、闇に、沈む。同時に、天蓋の、防護も、揺らぐ。魔物や、天候から、守る、その膜も。
見せつけて、いた。
自分が、いなければ。双子が、鍵に、ならなければ。この街は、こうなる、と。闇に、沈み、無防備に、なる、と。だから、選べ、と。網に、繋がるか。街を、見殺しにするか。
闇に、沈んだ、王都。その、真っ暗な、街の、中で。
星環塔だけが、光っていた。白い、光。均一な光より、なお、白い、冷たい光。市民の、消えた街の、真ん中で、その塔だけが、白すぎる光を、放っていた。誰の、身体からも、まだ、力を、吸い続けている、その、中心だけが。
アルシアは、闇の街と、白い塔を、見た。リエッタも、隣で。二人は、その、光景を、目に、焼き付けて、撤退の、通路へ、向かった。
第十一章 片結びを断つ
セヴランが、片結びを、天蓋紬の、導線に、しようとしていた。
星環塔から、退いたあと、リエッタは、それを、悟った。中枢の、記録を、写した紙に、その、設計が、あった。リエッタと、アルシアの、片結び――返し環の、ない、逃げ場の、ない、あの繋がり。それは、強制術の、いちばん、純粋な形だった。セヴランは、それを、天蓋紬の、雛形に、使おうとしていた。二人の、繋がりを、全国民を、縛る、網の、原型に。
「解除する」リエッタは、言った。「今夜。……セヴランに、これを、使わせない。私たちの、命紬を、天蓋紬の、種に、させない。それに」
リエッタは、アルシアを、見た。
「約束を、果たす。解除して。糸を、なくして。あなたが、糸のない、私を、選び直せるように」
条件は、揃いつつ、あった。自律魔炉の、試作機。まだ、初期型で、不安定だ。だが、動く。返し環――誓紬の、記録から、作った、逆流を、逃がす、仕組み。それも、間に合った。独立した、第三点。それは、星環織機と、ユリアナが、担う。父の、生命の、代わりに。
*
星環塔の、中枢へ、王妃の、私設回路から、忍び込んだ。
サラが、遠隔で、加わった。共鳴札を、通じて。「逆位相を、一時的に、解除する」サラの声が、札から、届いた。「星環の、環が、逆に、傾いてると、試作機が、動かない。私が、遠隔で、位相を、押さえる。……でも、長くは、保たない。四半刻。それだけ。その間に、全部、終わらせて」
四半刻。試作機を、再起動できる、時間。その中で、解除を、終える。
「危険を、確認する」リエッタは、言った。皆に。そして、アルシアに。「解除には、代償が、ある。片結びを、断つ、その反動が、アルシア側の、魔脈へ、返る。……返し環で、逃がすけど、完全じゃ、ない。アルシアの、魔脈に、傷が、残るかもしれない。それと、私の側は」
リエッタは、胸の、装具に、手を、当てた。
「解除の、瞬間、命紬の供給が、ゼロになる。その、切り替えで、試作機が、追いつかなければ、私の、生命維持が、止まる。……試作機は、初期型で、不安定。絶対、大丈夫とは、言えない」
「やる」アルシアが、即答した。
「待って」リエッタは、止めた。「即答、しないで。……アルシア。あなたの、魔脈に、傷が、残るかもしれない。大規模な、魔法が、使えなくなるかもしれない。冒険者としての、あなたの、力が。それを、分かって、選んで。私のために、じゃ、なくて」
「分かってる」アルシアは、言った。今度は、少し、間を、置いて。「魔脈の、傷。魔法の、制限。……分かった上で、やる。お前を、糸から、自由にするために。そして、私自身が、糸のない、お前を、選ぶために。私の、選択だ」
「うん」リエッタは、頷いた。「私も。試作機が、止まる、危険を、分かった上で、選ぶ。……セヴランに、命紬を、使わせないため。あなたと、糸なしで、やり直すため。私の、選択」
二人は、互いの、代わりに、決めなかった。それぞれ、自分の、危険を、引き受けると、選んだ。時間の、中で。確かめ合って。
*
ユリアナが、星環の、中央の、監視環へ、手を、掛けた。
「私が、第三点を、保持します」ユリアナは、言った。「星環の、監視環を、手動で。……本来は、装置が、担う点。それを、私が、王家共鳴で、支える。あなたたちの、繋がりの、外側から、負荷を、見張る。父の――アルバスさんの、代わりに」
父の、生命が、五年、担ってきた、第三点。それを、今夜、ユリアナと、星環織機が、引き継ぐ。人の、命では、なく。正しい、第三点として。
ノエルが、中枢の、入口を、固めた。避難路を、確保する。セヴランの、手の者が、来ても、時間を、稼げるように。
「準備、いい?」リエッタは、アルシアの、手を、取った。
命紬の、線が、二人の間に、淡金に、浮かんでいた。星環の、光が、それを、映していた。リエッタから、アルシアへ、流れる、一本の線。その途中の、返る先のない、結び目。父が、命で、埋めた、その一点。
リエッタは、返し環を、その結び目へ、繋いだ。逆流を、逃がす、仕組みを。試作機の、装具が、胸で、回り始める。サラが、逆位相を、押さえた。四半刻の、始まり。
「返しの言葉を」リエッタは、言った。「二人で、同時に。……私が、あなたを、解く。あなたが、私を、解く。同時に。片方だけじゃ、駄目。二人で、選んで、断つ」
*
二人は、結び目に、手を、重ねた。
「解く」
同時に、言った。リエッタと、アルシアの、声が、重なった。互いを、解く、という、言葉。縛りを、断つ、という、選択。二人の、意思が、一つの、瞬間に、揃った。
返し環が、開いた。
淡金の線の、結び目が、ほどけ始めた。リエッタから、アルシアへの、流れが、止まる。同時に、断たれた、繋がりの、反動が、返し環へ、流れ込む。逃げ場を、得た、反動。だが、すべては、逃げきれなかった。一部が、アルシアの、魔脈へ、返った。アルシアの、身体が、一瞬、こわばる。だが、耐えた。倒れなかった。
そして、結び目の、いちばん、深いところ。
五年間、そこに、留まっていた、父の、生命痕が。
光に、なった。
淡い、金色の光。父が、二人を、繋ぐために、置いた、自分の、命の、かけら。それが、役目を、終えて、結び目から、解き放たれた。光は、星環の、中枢を、ゆっくりと、上っていった。天井の、闇へ。星路の、光の中へ。
リエッタは、その光を、見上げた。
父さん。声には、しなかった。父の、生命が、五年、二人を、生かしてきた。返し環も、同意も、ない、不完全な術で。自分の、命を、削って。その、最後の、かけらが、今、自由になった。悼みも、感謝も、怒りも、全部、その光に、乗せて、見送った。父の、声は、聞こえなかった。父は、答えを、くれなかった。答えは、リエッタと、アルシアが、自分たちで、選んだ。解く、と。二人で。
父の、生命痕の光が、星路の光に、溶けて、消えた。
*
淡金の、線が、消えた。
リエッタから、アルシアへ、伸びていた、命紬の線。それが、跡形もなく、消えた。二人を、結んでいた、糸が。もう、なかった。
リエッタは、胸に、手を、当てた。命紬の、流れが、感じられない。ゼロ。アルシアの、魔力が、届いていない。初めて、完全に。代わりに、胸の、装具が、必死に、回っていた。低速で。不安定に。時々、乱れながら。それでも、リエッタは、生きていた。試作機が、辛うじて、生命を、維持していた。完全では、なかった。奇跡でも。ただ、辛うじて。
アルシアは、片膝を、ついていた。魔脈へ、返った、反動。その、傷。アルシアは、右腕を、押さえていた。袖口の、留め具に、細い、ひびが、入っていた。反動の、圧が、そこへ、抜けた、跡だった。アルシアの、魔脈にも、目に、見えない、傷が、残ったのだ。
だが、天蓋紬への、接続は、止まった。
セヴランが、片結びを、天蓋紬の、種に、する。その、企ては、断たれた。もう、二人の、繋がりを、網の、原型には、できない。糸は、消えたのだから。
「――残念です」
セヴランの声が、中枢に、響いた。いつの間にか、上層に、現れていた。だが、近づいては、こなかった。手には、中枢の、制御盤の、鍵が、あった。星環織機の、中央制御を、握ったまま。
「片結びは、惜しかった。ですが、天蓋紬は、これで、止まりません」セヴランは、言った。「中央制御は、私が、持って、退きます。……次に、お会いするときは、王都全体が、網の、中でしょう。よく、お考えを。自由の、代償を」
セヴランは、中枢制御の、鍵を、持って、上層の、闇へ、退いた。
*
中枢に、静けさが、戻った。
リエッタは、星環の、床に、座り込んでいた。アルシアも、そばに。二人の間に、もう、淡金の線は、なかった。糸は、消えた。命も、魔力も、距離も、独立した。約束の、前半を、果たした。
星環の、床に、光が、差していた。星路の、光。その光が、二人を、照らして、床に、影を、作っていた。
リエッタの、影と、アルシアの、影。二つの、影が、床に、伸びていた。ついさっきまで、その二つの影の、間には、淡金の線が、見えていた。二人を、結ぶ、糸が。だが、今は。
線は、消えていた。
二つの、影だけが、星環の、床に、残っていた。結ぶ、線の、ない、二つの、影。触れそうで、触れていない、二つの、影が、星路の光の中で、静かに、床に、横たわっていた。
第十二章 糸のない朝
解除の、翌朝。アルシアは、静けさで、目を、覚ました。
王宮の、診療室。隣の、寝台に、リエッタが、いる。だが、アルシアは、それを、感じなかった。
五年間、アルシアは、リエッタを、感じていた。命紬の、流れ。自分から、相手へ、絶えず、渡している、魔力の、細い糸。それが、常に、身体の、隅に、あった。リエッタが、近くにいるか。遠くにいるか。残量が、減っていないか。糸を、通じて、いつも、わずかに、届いていた。
それが、今朝は、なかった。
胸の、奥。ずっと、そこから、リエッタへ、伸びていた、流れ。それが、消えていた。糸が、断たれた場所は、静かだった。痛くはない。ただ、静か。何かが、あった場所の、空白。アルシアは、その、静けさに、しばらく、慣れなかった。リエッタが、隣にいるのに、感じられない。目で、見なければ、そこにいるか、分からない。
アルシアは、寝台から、起き上がった。隣の、寝台を、見た。
リエッタは、眠っていた。胸に、試作機の、装具を、着けて。それが、小さく、回っている。呼吸に、合わせて、胸が、上下している。生きていた。糸ではなく、目で、それを、確かめた。アルシアは、リエッタの、寝顔を、見て、ようやく、息を、ついた。
*
リエッタの、目が、覚めたとき。
「アルシア」リエッタが、掠れた声で、呼んだ。「……いる?」
「いる」アルシアは、答えた。
リエッタが、手を、伸ばして、アルシアの、手に、触れた。糸で、確かめるのでは、なく。手で。目で。声で。
「感じない」リエッタが、言った。少し、泣きそうな、顔で。「アルシアの、魔力。ずっと、胸のここに、届いてたのに。……もう、ない。糸が、ない」
「ああ」アルシアも、頷いた。「私も。お前を、感じない。……目で、見ないと、分からない」
二人は、互いの、生存を、命紬で、確かめられなく、なった。代わりに、扉を、開けて、目で、確かめる。声を、聞いて、確かめる。手で、触れて、確かめる。糸が、あった頃より、不便だった。だが、その不便さは――自由の、形でも、あった。感じるのではなく、確かめに、行く。会いに、行く。それは、繋がれているのではなく、選んで、そばにいることに、近かった。
*
診療室で、二人は、それぞれの、身体の、変化を、確かめた。
サラが、遠隔で、診断を、助けた。リエッタの、試作機は、動いていた。だが、不安定だった。王都の、設備で、絶えず、調整して、ようやく、保っている。リュネの、工房の、道具では、この、精密な、調整は、できない。リエッタは、当分、王都の、設備の、近くに、いなければ、試作機を、安定させられなかった。
アルシアの、魔脈には、傷が、残った。
冷却の、魔法を、試すと、以前より、出力が、落ちていた。大規模な、術は、連発できない。返し環へ、逃げきれなかった、反動が、魔脈を、傷つけた、跡だった。袖口の、留め具の、ひびが、その、証だった。ただ、長距離の、移動は、できた。命紬の、糸が、ないから。もう、リエッタから、離れても、供給が、途切れる、心配は、ない。どこへでも、行ける。
「皮肉だね」リエッタが、力なく、笑った。「糸が、あったときは、離れられなくて。糸が、なくなったら、離れられる。でも、私は、王都に、いなきゃ、試作機が、保たない。アルシアは、どこへでも、行ける」
*
数日、休んだあと、二人は、これからのことを、話した。
セヴランは、中枢制御を、持って、退いた。天蓋紬は、止まっていない。むしろ、これから、王都全体を、網に、しようとするだろう。それを、止めるには、証拠が、要った。セヴランの、計画の、全容。五年前の、断脈獣の、命令書。アルバスの、無実を、証明する、王妃の、記録。父が、残した、最後の、研究。
「証拠は、王都には、ない」アルシアが、言った。地図を、見ながら。「黒塗りに、されてる。抜かれてる。……原本は、たぶん、北だ。父が、宮廷を、離れたあと、隠した場所。星見修道院跡。それと、灰丘村。天蓋紬の、試験地区だと、噂の。そこへ、行けば、証拠が、ある」
「私は、行けない」リエッタが、言った。「試作機が、王都の、設備なしじゃ、保たない。それに、下町で、小さな、変換器の、実験を、続けたい。天蓋紬に、対抗する、別の、仕組みを。市民から、無断で、吸わない、方法を」
「私が、北へ、行く」アルシアが、言った。「証拠を、集めに。長距離の、移動は、もう、できる。糸が、ないから」
二人は、別々の、道を、行くことに、なった。
アルシアは、北へ。証拠を、探しに。リエッタは、王都に、残り、試作機を、安定させ、対抗する、仕組みを、作る。離れる。糸が、ないのに。いや――糸が、ないから、こそ、離れられた。それぞれの、役割を、引き受けて。
「別れじゃ、ないよね」リエッタが、確かめるように、言った。
「別れじゃ、ない」アルシアは、言った。「役割を、分けるだけだ。同じ、目的のために。……手紙を、書く。体調も、装具の、具合も、ユリアナとの、揉め事も。全部。心配させないための、省略は、しない。お前も、書け」
「うん。書く」
*
十月の、初め。アルシアは、王都の、南門を、出た。
北へ、向かうには、一度、南の、街道へ、出て、迂回する。宮廷の、目を、避けて。リエッタは、門まで、送りに、来た。試作機の、ために、遠くまでは、来られない。門の、内側で、二人は、短く、別れた。
「気をつけて」リエッタが、言った。「手紙、待ってる」
「ああ。お前も、無理を、するな」
抱擁は、しなかった。長距離の、別れなのに。ただ、手を、一度、握った。糸のない、手を。それから、アルシアは、南門を、くぐった。
門が、背後で、閉じた。
アルシアは、歩き出した。北へ。証拠を、探しに。リエッタと、離れて。
胸の、奥を、確かめた。
何も、引かなかった。
五年間、リエッタから、離れるたびに、胸の、糸が、引かれた。距離が、開けば、流れが、細り、身体が、それを、感じた。離れることは、糸を、引き伸ばすことだった。だが、今は。門を、出て、リエッタと、離れても。胸には、何も、引かなかった。糸が、ないから。距離が、開いても、何も、感じない。完全に、自由だった。どこへでも、行ける。誰にも、繋がれずに。
それは、五年、望んでいた、自由の、はずだった。
アルシアは、足を、止めた。
そして、一度だけ、振り返った。
糸は、なかった。胸は、何も、引かなかった。振り返る、理由は、どこにも、なかった。命紬が、あれば、糸が、引くから、振り返る。だが、今は、引かない。なのに、アルシアの身体は、振り返っていた。
閉じた、南門を。その、向こうに、いるはずの、リエッタを。
糸が、引いたから、ではなかった。アルシアが、そうしたかったから、だった。振り返りたいから、振り返った。会いたいから、会いに、戻りたいと、思った。糸では、なく。自分の、意思で。
それが、答えだった。糸が、なくても。何も、引かなくても。アルシアは、リエッタのほうを、振り返る。まだ、それを、行動で、証してはいない。離れて、糸なしで、また、会いに行く。そのときに、初めて、証される。今は、まだ、振り返っただけ。
それでも、アルシアは、振り返った。糸のない、朝に。
第一章 静かすぎる心臓
リエッタは、一日に、何度も、胸へ、手を、当てた。
王都の、下町。ユリアナが、用意してくれた、小さな工房。そこで、リエッタは、自律魔炉の、改良を、続けていた。作業の、合間。ふと、手が、胸へ、伸びる。五年間の、癖だった。そこに、アルシアからの、命紬の、流れが、届いているか、確かめる癖。強いか。細いか。アルシアが、無理を、していないか。
だが、そこには、もう、何も、なかった。
流れは、ない。糸は、断たれた。アルシアが、今、どこで、何を、しているか。疲れているか。魔脈の、傷が、痛んでいないか。リエッタには、感じられなかった。胸に、手を、当てても、静かなだけ。心臓の、鼓動だけが、返ってくる。アルシアの、いない、静けさが。
寂しかった。だが、リエッタは、その寂しさを、正確に、見た。
これは、アルシアを、好きじゃ、なくなったから、じゃ、ない。恋が、消えたから、でも。ただ、五年、あった、習慣が、消えたのだ。感じる、という習慣が。糸を通じて、絶えず、届いていた、相手の、気配。それが、なくなった、空白。愛の、不在ではなく。習慣の、不在。区別すれば、寂しさは、正しい形に、収まった。
「感じられないなら」リエッタは、独りごちた。「確かめれば、いい」
胸へ、手を、当てる代わりに、リエッタは、自分の、計器を、読んだ。自律魔炉の、出力。装具の、回転数。それは、感じるものでは、なく、目盛りで、確かめるもの。アルシアの、無事も、これからは、感じるのでは、なく。手紙で、確かめる。会いに、行って、確かめる。不便だ。だが、それが、糸のない、確かめ方だった。
*
ユリアナが、工房を、訪ねてきた。
「護衛を、増やします」ユリアナは、言った。「あなたは、今、命紬の、後ろ盾もない。試作機も、不安定。セヴランが、いつ、手を、出すか、分からない。……近衛を、十人、常時、付けます」
「多すぎます」リエッタは、即座に、言った。
「多い?」
「十人も、付いたら、下町の、人が、私に、話しかけてこなくなる」リエッタは、言った。「私は、ここで、市民と、一緒に、変換器を、作りたい。天蓋紬に、対抗する、仕組みを。それには、市民の、信頼が、要る。近衛の、壁じゃ、なくて」
リエッタは、紙を、広げた。工房の、見取り図。逃走経路。危険な、時間帯。
「安全は、人数じゃ、なくて、設計で、作ります」リエッタは、言った。「出入口を、二つに、絞る。夜は、この、隠し扉から、逃げられるように。危ないのは、夕方、人が、引ける時間。そのときだけ、二人、付けてください。あとは、要りません。……守ってくれる気持ちは、ありがたい。でも、監視で、私を、囲ったら、私の、仕事が、できなくなる」
ユリアナは、その、見取り図を、見た。それから、頷いた。
「……分かりました」ユリアナは、言った。「二人。夕方だけ。あなたの、設計を、信じます。……あなたは、守られる、王女じゃ、なくて。自分の、安全を、設計する、技術者、なのね」
リエッタは、少し、笑った。守られる、対象では、なかった。自分の、安全も、自分で、設計する。魔道具を、組むように。
*
同じ頃。北へ、向かう、街道で。
アルシアも、静けさの、中に、いた。
歩いても、歩いても。胸は、何も、引かなかった。五年間、リエッタから、離れるほど、胸の、糸が、引かれた。距離が、痛みに、近いものに、なった。だから、遠くの、依頼を、避けた。糸が、切れそうで。だが、今は。どれだけ、歩いても。リエッタから、どれだけ、離れても。胸は、静かだった。
自由だった。どこへでも、行ける。誰にも、繋がれずに。
その、自由は、しかし、奇妙な、空白でも、あった。アルシアは、時々、立ち止まって、胸に、手を、当てた。リエッタと、同じ、癖で。そこに、あった、糸を、探して。だが、ない。リエッタが、今、無事か。試作機が、止まっていないか。感じられない。北の、街道の、風の中で、アルシアは、その、静けさに、慣れようと、していた。
感じられないなら。確かめれば、いい。
アルシアは、宿場ごとに、手紙を、書くと、決めていた。リエッタと、約束した。体調も、装具の、具合も、揉め事も、全部、書く。心配させないための、省略は、しない。守るために、黙る、癖を、逆にする。感じられない相手へ、言葉で、届ける。それが、糸のない、繋がり方だった。
*
その夜。二人は、別々の、机で、手紙を、書いた。
リエッタは、王都の、工房で。灯の下で。今日の、こと。ユリアナと、護衛の数を、交渉したこと。試作機の、調子。下町の、職人と、変換器の、話をしたこと。それから、少し、迷って、書いた。「胸に、手を、当てる癖が、抜けない。アルシアを、感じようとして。でも、感じないの。寂しい。でも、それは、習慣が、なくなっただけ。好きなのは、変わらない。ちゃんと、確かめたいから、手紙、書いてる」
アルシアは、北の、宿場で。同じ、灯の下で。今日の、こと。歩いた、距離。魔脈の、傷が、雨の日に、少し、痛むこと。北の、村の、噂。それから、アルシアも、迷って、書いた。「胸が、静かだ。お前を、感じない。離れても、何も、引かない。……自由だが、慣れない。感じる代わりに、こうして、書いている。無事だ。お前も、無理を、するな」
二人とも、手紙の、上に、日付を、書いた。
新暦三百十八年、十月五日。
同じ、日付だった。王都と、北の街道。別々の、机で。別々の、灯の下で。二人は、同じ日に、同じ相手へ、手紙を、書いていた。糸は、なかった。互いを、感じては、いなかった。それでも、同じ日付を、記して、封を、した。
封蝋を、落とし、蝋が、固まるのを、待つ。リエッタの、封蝋と、アルシアの、封蝋。別々の場所で、同時に、冷えて、固まっていく。糸ではなく。同じ日を、生きて、互いへ、言葉を、送る。それが、二人の、新しい、繋がりだった。
リエッタが、封をした、その手紙が、北へ。アルシアが、封をした、その手紙が、王都へ。二通の、手紙が、同じ日付を、抱いて、それぞれの、宛先へ、旅を、始めた。
第二章 選んだ別れ
最初の、手紙が、届いたのは、北へ、五日、進んだ、宿場でだった。
リエッタからの、手紙。アルシアは、宿の、灯の下で、それを、開いた。几帳面な、リエッタの、字が、並んでいた。
読み進めて、アルシアは、少し、驚いた。
無事です、では、済んでいなかった。リエッタは、具体的に、書いていた。自律魔炉の、装具が、湿気の多い日に、回転が、乱れること。それを、下町の職人と、どう、直そうとしているか。ユリアナと、護衛の数で、揉めたこと。結局、二人に、減らさせたこと。試作の、変換器が、まだ、うまく、動かないこと。夜、胸に、手を、当てる癖が、抜けないこと。
昔の、リエッタなら。心配させないために、省略した。大丈夫、うまくいってる、とだけ、書いて。悪いことは、笑顔の下に、隠して。だが、この手紙は、違った。うまくいっていないことも、揉めたことも、寂しいことも、全部、書いてあった。
「……お前も、変わったな」アルシアは、呟いた。
手紙の、最後に、リエッタは、書いていた。「アルシアの、手紙、待ってる。無事だけじゃ、なくて。痛いなら、痛いって、書いて。困ってるなら、困ってるって。私、遠くにいても、一緒に、考えたいから」
*
アルシアは、返事を、書いた。
無事だ、と、書きかけて、手を、止めた。それだけでは、リエッタが、望んだ手紙に、ならない。アルシアは、いつも、そうしてきた。守るために、黙る。心配させないために、弱さを、隠す。無事だ、とだけ、伝えて。相手に、負担を、かけないように。
だが、それは。リエッタの、望みを、聞かない、ということでも、あった。
リエッタは、痛いなら痛いと書け、と言った。困っているなら、困っていると。一緒に、考えたいから、と。アルシアが、弱さを、隠せば。リエッタは、一緒に、考える機会を、奪われる。守るために、黙ることは、相手を、支援から、締め出すことでも、あった。
アルシアは、書き直した。
「魔脈の、傷が、雨の日に、痛む。冷却の、魔法を、使うと、前より、早く、疲れる。北の、山道は、思ったより、険しくて、一日の、進みが、遅い。今夜の、宿は、峠の、手前の、小さな、宿場だ。明日は、灰丘への、分かれ道に、着く。……正直、一人の、夜は、静かすぎて、落ち着かない。お前の、手紙が、届くと、少し、息が、しやすくなる」
書いてから、アルシアは、その、最後の一行を、消そうとした。弱音だった。心配を、かける。だが、消さなかった。リエッタが、望んだのは、これだった。弱さも、含めて。守るために、黙るのでは、なく。弱さを、渡して、一緒に、抱えてもらう。それが、糸のない、支え合いだった。
アルシアは、封を、した。
*
翌朝、峠の、手前の、郵便駅で、アルシアは、手紙を、出した。
小さな、郵便箱。木の、蓋。アルシアは、封をした手紙を、その、投函口へ、入れた。手を、離す。
手紙が、箱の底へ、落ちる、音が、した。
ことん、と。乾いた、小さな音。その音を、アルシアは、しばらく、聞いていた。自分の、弱さを、書いた手紙が、箱の底へ、落ちた音。守るために、黙る癖を、破った、音。この手紙は、王都へ、運ばれ、リエッタが、読む。アルシアの、痛みも、静かすぎる夜も、知る。そして、たぶん、心配して、返事を、書く。一緒に、考えようと、する。
それで、いい、とアルシアは、思った。
心配を、かけることは。負担を、かけることは。以前は、悪いことだと、思っていた。相手を、自由にするために、自分の、弱さは、隠すべきだと。だが、違った。弱さを、渡すことは。相手を、信じることだった。一緒に、抱えてくれると。締め出さずに。
郵便箱の、音が、消えた。
アルシアは、分かれ道の、前に、立った。一つは、まっすぐ、北へ。星見修道院跡へ、続く道。もう一つは、東へ、逸れて、灰丘村へ。天蓋紬の、試験地区だと、噂の、村。父の、痕跡は、どちらにも、あるかもしれない。だが、まず、被害の、現場を、見る。強制網が、人に、何を、するのか。灰丘へ。
アルシアは、灰丘への、分かれ道を、選んだ。
手紙を、出した、その足で。弱さを、箱の底へ、落とした、その音を、聞いてから。アルシアは、東の、道へ、踏み出した。別れは、後退では、なかった。役割を、分けて、それぞれの、道を、選ぶ。そして、その道の、途中から、互いへ、手紙を、送り続ける。選んだ、別れだった。破局では、なく。
第三章 アルバスの最後の道
灰丘への、旧街道は、寂れていた。
アルシアは、父の、最後の、道を、辿っていた。ガルドから、宿場ごとに、複写が、届いていた。ガルドが、リュネの、古い記録を、掘り返し、アルバスの、足跡を、探してくれたのだ。その一枚に、こう、あった。新暦三百十二年から、十三年。アルバスは、数度、この、北の街道を、往復し、星見修道院へ、物資を、運んでいた。
死ぬ、前年まで。父は、この道を、歩いていた。
何のために。物資とは、何か。ガルドの、複写だけでは、分からなかった。だが、父が、リュネの、薬師として、静かに、暮らしていた、その裏で。北の、山中の、修道院跡へ、何かを、運び続けていた、という事実が、あった。秘密は、リュネの、家の中だけでは、なかった。この、北の道の、先にも。
アルシアは、父の、杖を、突いて、歩いた。
*
三日目の、夕方。街道沿いの、廃屋で、雨を、しのいだ。
崩れかけた、石造りの、小屋。かつては、街道の、休憩所だったらしい。アルシアは、乾いた隅に、荷を、下ろした。そして、壁の、崩れた漆喰の、奥に、何かが、埋め込まれているのに、気づいた。
小さな、木箱だった。防水の、蝋で、封じられている。取り出して、開けると、中に、紙の束が、あった。父の、字だった。
アルシアの、息が、止まった。
それは、秘密の、記録では、なかった。
成長の、記録だった。アルシアと、リエッタの。「アルシア、六歳。今日、初めて、冷却の、魔法を、使えた。手が、冷たくなったと、笑っていた」「リエッタ、七歳。壊れた、糸車を、一人で、直した。仕組みを、見ただけで。この子は、ものの、声を、聞く」「二人が、喧嘩した。すぐ、仲直りした。アルシアが、先に、謝った。珍しい」
日付を、追って、その、記録は、続いていた。娘たちの、些細な、日々。初めて、できたこと。笑ったこと。泣いたこと。父は、それを、書き留めていた。北の道の、途中の、廃屋に、隠して。
そして、記録の、合間に。避難経路が、書いてあった。もし、宮廷が、二人を、見つけたら。どの道を、通って、どこへ、逃がすか。父は、それも、考えていた。娘たちを、守るための、道を。
*
アルシアは、その、記録を、長いあいだ、読んでいた。
父は、秘密を、抱えていた。命紬の、由来。リエッタの、出生。星環織機。それは、事実だ。一人で、抱えて、娘たちに、告げそびれた。それを、アルシアは、怒った。オルフェンで。
だが、父が、抱えていたのは、秘密だけでは、なかった。
この、成長の記録。娘たちの、些細な、日々を、こんなに、丁寧に、書き留めていた。逃がすための、道を、考えていた。父は、秘密を、隠す、その裏で、日常を、愛して、記録していた。守ることと、隠すことの、あいだで。不器用に。それでも、確かに、娘たちを、見ていた。
聖人でも、罪人でも、なかった。ただ、娘を、愛して、その愛を、うまく、伝えられなかった、一人の、父だった。
アルシアは、その、記録の、束を、胸に、抱いた。それから、思った。
父の、道を、辿っている。だが、父のように、なっては、いけない。父は、これを、一人で、抱えた。娘たちに、見せずに。廃屋の、壁の中に、隠して。もし、アルシアが、この記録を、一人で、抱えて、リエッタに、見せなければ。それは、父と、同じ、過ちを、繰り返すことだった。
*
アルシアは、その夜、リエッタへ、手紙を、書いた。
廃屋で、父の、成長記録を、見つけたこと。それが、秘密ではなく、日常の、記録だったこと。父が、娘たちを、どんなふうに、見ていたか。避難経路を、考えていたこと。全部、書いた。一人で、抱えずに。リエッタと、分けるために。
「お前の、七歳の、ことも、書いてあった」アルシアは、書いた。「糸車を、一人で、直した、って。仕組みを、見ただけで。……父さんは、お前を、ものの声を、聞く子だと、書いてた。今の、お前を、見たら、なんて、言うだろうな」
記録の、写しを、取って、手紙に、同封した。父の、書いた、二人の、幼い日を。リエッタも、読めるように。
翌朝、アルシアは、星見修道院跡の、麓に、着いた。
修道院への、入口は、閉じた、石門で、塞がれていた。古い、重い、石の門。父が、物資を、運び込んだ、その先。だが、今は、閉じている。開けるには、たぶん、鍵か、仕掛けが、要る。リエッタの、手が。
アルシアは、閉じた石門の前で、父の、杖を、地面へ、下ろした。
ずっと、突いてきた、杖。父の、代わりに、握ってきた、杖。それを、今、門の前の、地面へ、そっと、横たえた。オルフェンで、机へ、横たえたときのように。父を、一人で、悼むのでは、なく。父の、道を、一人で、辿るのでも、なく。
アルシアは、地図を、広げた。
そして、この、石門の、位置に、印を、付けた。合流地点、と、書き添えて。リエッタと、ここで、落ち合う。門を、開けるのは、リエッタの、手が、要る。一人では、先へ、進まない。父のように、一人で、抱えて、決めない。ここで、待つ。あるいは、ここで、合流する。二人で、この門の、先へ。
閉じた石門の前で、父の杖は、地面に、横たわっていた。その隣で、アルシアは、地図に、合流地点を、記した。一人で、進まない、という、印を。
第四章 王女の工房
リエッタの、下町の工房には、人が、集まるように、なった。
魔道具師が、王家の血を、引いている。その噂は、下町にも、届いていた。だが、下町の人々が、リエッタを、訪ねてくるのは、王女だから、では、なかった。壊れた道具を、直してくれるから。話を、聞いてくれるから。だった。
リエッタは、その人たちに、話を、聞いた。
「天蓋が、明るくなる、夕方になると」年老いた、仕立て屋が、言った。「手が、震えるんだ。針が、持てなくなる。若い頃は、平気だった。歳のせいかと、思ってたが……最近、ひどい」
「あたしも」魔炉を、損なった、若い女が、言った。リエッタと、同じ、境遇だった。「魔炉が、弱いから、余計に、堪える。天蓋に、力を、吸われると、立っていられない。この街は、きれいだけど……あたしみたいな、弱い者から、順に、削られてる気がする」
リエッタは、その、一つ一つを、記録した。天蓋紬の、無断徴収。それが、市民に、何を、しているか。強い者からは、少し。弱い者からは、倒れるまで。魔炉損傷者は、いちばん、堪えていた。リエッタが、命紬で、生かされてきたように。この人たちは、天蓋に、削られていた。
*
聞き取りながら、リエッタは、考えていた。
自律魔炉。リエッタが、自分のために、作った、人工の変換系。それは、リエッタ一人の、救命の、道具だった。だが、この、下町の人たちも――魔炉損傷者も、疲れた老人も、天蓋に、削られる、弱い者も。少しでも、自分で、魔力を、作れたら。天蓋に、頼らずに済む。削られずに、済む。
個人の、救命から。公共の、設計へ。
リエッタは、試作の、転律器を、下町の、道具へ、繋ぎ始めた。
まず、仕立て屋の、足踏みミシンへ。ミシンを、踏む、その回転を、転律器へ、送る。足で、踏むたびに、環が、回り、わずかな、魔力が、生まれる。仕立て屋が、仕事を、するだけで。次に、水車小屋の、水車へ。絶えず、回る、水車の力を、転律器へ。それから、鍛冶屋の、炉の、排熱へ。捨てられていた、熱を、魔力へ。
どれも、大きな、力では、なかった。灯を、一つ、灯すのが、精一杯。だが。
「天蓋に、頼らなくても」リエッタは、言った。「自分の、足で、踏んで。自分の、水車で。自分の、炉の、排熱で。少しずつ、魔力を、作れる。……それを、みんなで、持ち寄れば。天蓋の、無断徴収が、なくても、街を、灯せるかもしれない」
*
ユリアナが、工房を、訪ねてきたとき、リエッタは、その、構想を、話した。
「これは」ユリアナは、足踏みミシンに、繋がれた、転律器を、見て、言った。「あなたが、一人で、やることでは、ないわ。街全体の、話。制度の、話。……私が、やる。評議会を、動かす。天蓋紬に、代わる、案として、これを、提示する。政治の、部分は、私の、領分よ」
「うん」リエッタは、頷いた。「私は、技術を、作る。安全で、誰も、削らない、変換の、仕組みを。ユリアナさんは、それを、制度に、する。……役割を、分けよう」
リエッタは、王家の、象徴には、ならなかった。双子の、片方として、星環織機の、鍵に、されることも、拒んだ。代わりに、技術者として。魔道具師として。個人の、救命を、公共の、設計へ、広げる。ユリアナは、それを、制度へ。姉妹は、同じ、目的のために、違う、役割を、担った。似た顔で。違う手で。星見儀の、二つの星が、重ならずに、同じ円を、回るように。
「アルシアからの、手紙」リエッタは、ふと、言った。「北で、父さんの、記録を、見つけたって。父さんが、私の、七歳のことを、書いてたって。糸車を、直したこと」
「アルバスさんは」ユリアナが、少し、微笑んだ。「あなたを、ものの声を、聞く子だと。……今の、あなたを、見たら。街の、灯を、灯そうとしてる、あなたを。きっと」
「うん」リエッタも、笑った。
*
その夜、リエッタは、工房で、一人、最後の、調整を、していた。
下町の、いくつかの、動力を、一本の、線で、繋いだ。仕立て屋の、足踏みミシン。水車小屋の、水車。鍛冶屋の、排熱。それぞれの、転律器を、集めて。工房の、灯へ、送る。小さな、試験だった。天蓋に、頼らず。人の、手と、水と、熱だけで。この工房を、灯せるか。
リエッタは、足踏み機の、踏み板へ、足を、掛けた。
踏む。環が、回る。転律器が、わずかな、魔力を、生む。それが、線を、伝って、工房の、灯へ、届く。
暗かった、工房の、灯が、一つ、点いた。
もう一度、踏む。回転が、続く。二つ目の、灯が、点く。踏み続けると、水車の力も、排熱も、加わって。三つ目。四つ目。暗かった、工房の、灯が、リエッタの、足踏みの、回転に、合わせて、一つずつ、点いていった。
天蓋の、無断徴収では、なく。誰かを、削るのでも、なく。リエッタ自身の、足で。踏むたびに、灯が、点く。小さな、光だった。工房、一つ分の。だが、それは、削らない、光だった。誰の、命も、資源に、しない、光。
リエッタは、足踏み機を、踏み続けた。暗かった、工房が、一つずつ、明るくなっていく、その光の中で。この、小さな、灯を、いつか、街全体へ、と、思いながら。
第五章 届かない手紙
十月の、終わり頃から、アルシアの、手紙が、途絶えた。
それまで、五日か、六日に、一度は、届いていた。北の、宿場から。具体的な、報告と、少しの、弱音を、乗せて。それが、二週間、来なかった。リエッタは、工房の、作業の、合間に、何度も、郵便受けを、覗いた。空だった。
不安が、胸に、広がった。
昔の、リエッタなら。ここで、こう、考えた。返事が、来ない。アルシアは、私を、忘れたのかもしれない。糸が、なくなって。離れて。もう、私のことなんて。……そう、思って、笑顔の下に、その不安を、隠して、一人で、苦しんだかもしれない。第二巻より、前の、リエッタなら。
だが、リエッタは、その、考えを、止めた。
「違う」リエッタは、自分に、言った。「返事が、来ない、イコール、心変わり、じゃ、ない」
アルシアは、約束した。手紙を、書く、と。無事だけじゃ、なく、弱音も、全部。あの、アルシアが、二週間も、何も、書かないのは、おかしい。心変わりなら、むしろ、一言、来るはずだ。それすら、ないのは。……何か、別の、理由が、ある。手紙が、届かない、理由が。
不安を、相手への、不信に、変えない。代わりに、原因を、調べる。壊れた道具を、憶測で、捨てず、まず、壊れ方を、見るように。
*
そして、二週間ぶりに、一通、届いた。
アルシアからの、手紙。リエッタは、慌てて、開いた。だが、読み進めるうちに、違和感が、募った。
「無事です。心配、要りません。調査は、順調です。あなたも、体を、大切に」
短かった。そして――アルシアの、言葉では、なかった。
「無事です」と、アルシアは、書かない。無事だけじゃ、ない、と、約束したから。「心配、要りません」なんて、アルシアは、言わない。むしろ、心配を、かけてもいい、と、あの、郵便箱の音の、手紙で、書いてきた。「あなたも、体を、大切に」。アルシアは、リエッタを、「お前」と、呼ぶ。「あなた」なんて、他人行儀な、言い方は、しない。
リエッタは、その手紙を、灯に、かざした。
封蝋を、見た。アルシアの、封蝋。いつもの、シンプルな、印。だが。その、縁に。微細な、欠けが、あった。封蝋を、一度、剥がして、また、押し直した、ときにできる、欠け。誰かが、この手紙を、開けて、読んで、封じ直した、跡だった。あるいは――中身を、すり替えて。
「開けられてる」リエッタは、呟いた。「読まれて。……封じ直されてる。この手紙、本物の、封蝋を、使って。でも、中身は」
中身は、アルシアの、字に、似せた、偽物だった。言い回しが、アルシアじゃ、ない。「あなた」。「無事です」。「心配要りません」。アルシアを、知らない、誰かが、アルシアを、装って、書いた。リエッタを、安心させて――あるいは、油断させて。アルシアの、本当の、手紙は、どこかで、握り潰されている。
*
リエッタは、ユリアナを、通じて、郵便監査室へ、掛け合った。
一人では、なかった。不安を、抱えて、一人で、苦しむのでは、なく。証拠を、持って、助けを、求めた。過去の、アルシアの、手紙を、全部、並べて。二つの、経路――正規の、郵便と、ギルド経由の、私的な、経路。その、封蝋と、日付を、比較した。
正規の、郵便で、来た、最近の、手紙。それだけが、封蝋に、欠けが、あった。中身が、偽物だった。ギルド経由の、手紙は、無事だった。本物の、言い回しで。だが、その、ギルド経由も、最近、途絶えていた。
「宮廷が」リエッタは、証拠を、並べて、言った。「正規の、郵便を、検閲してる。アルシアの、本物の、手紙を、握り潰して。偽物を、代わりに、送ってきた。私を、安心させて、動きを、止めるために。……ギルド経由も、たぶん、嗅ぎつけられて、止められた」
郵便監査室の、役人は、その、証拠の、並びを、見て、青ざめた。宮廷魔導院の、検閲。セヴランの、手。手紙が、届かなかったのは、アルシアの、心変わりでは、なかった。宮廷が、二人の、連絡を、断とうとしていた。二人を、引き離すために。連携を、防ぐために。
リエッタの、不安は、正しかった。だが、その不安の、宛先は、アルシアでは、なかった。宮廷だった。
*
リエッタは、偽物の、手紙を、手に、取った。
「あなた」「無事です」「心配要りません」。アルシアの、字に、似せた、偽の言葉。捨てようと、思えば、捨てられた。腹立たしい、偽物。アルシアを、装った、汚いもの。
だが、リエッタは、捨てなかった。
これは、証拠だった。宮廷が、二人の、手紙を、検閲した、証拠。封蝋の、微細な、欠け。アルシアの、使わない、言い回し。それは、いつか――セヴランの、企てを、暴くときの、証拠に、なる。オルフェンの、抜かれた索引。王都の、黒塗り。父の、欠けた裁判記録。それに、この、偽の手紙が、加わる。宮廷が、情報を、操作してきた、証拠の、束に。
リエッタは、作業台の、抽斗を、開けた。そこに、アルシアの、本物の、手紙が、日付順に、仕舞ってあった。北へ、行ってからの、全部。魔脈の痛みも、峠の宿も、父の記録も、書いてある、本物の、言葉たち。
その、本物の、手紙の、隣へ。リエッタは、偽物の、手紙を、置いた。
捨てるのでは、なく。本物の、隣に、証拠として、留める。本物と、偽物を、並べて。いつか、この、並びが、宮廷の、検閲を、証明する。リエッタは、抽斗を、閉じた。
そして、思った。アルシアは、無事だ。心変わりでは、ない。ただ、手紙が、届かなかった、だけ。宮廷に、断たれた、だけ。……なら、届く方法を、探す。あるいは、会いに、行く。手紙が、断たれても。糸が、なくても。リエッタは、アルシアを、疑わなかった。疑うべきは、二人を、引き離そうとする、手のほうだった。
第六章 灰の村
灰丘村は、その名の、とおりだった。
作物は、灰色に、萎れ、畑の、土は、力を、失っていた。村人の、顔にも、生気が、なかった。アルシアが、村へ、入ると、皆、疲れた目で、こちらを、見た。天蓋紬の、試験地区。ここで、セヴランは、強制網を、試していた。村人の、魔力を、慢性的に、吸い上げて。
「若い者から、順に、都会へ、出ていった」村長の、老人が、言った。「ここに、いると、力が、抜けるから。畑も、育たない。……天蓋の、おかげで、魔物には、襲われない。それは、ありがたい。だが、その、代わりに、俺たちの、力が、少しずつ、吸われてる。気づいたときには、村が、灰みたいに、なってた」
アルシアは、村の、中央の、節点を、見た。
石の、柱に、導晶の、埋め込まれた、装置。それが、絶えず、村人から、魔力を、吸い、王都の、天蓋へ、送っていた。無断で。アルシアの、手が、剣の、柄に、伸びた。これを、壊せば。この、吸い上げを、止められる。村人を、削るのを。
「やめてくれ!」
村長が、アルシアの、腕を、掴んだ。
*
「壊しちゃ、いかん」村長は、必死だった。「その節点は、俺たちを、削ってる。だが、同時に、天蓋の、防護も、担ってる。壊せば、確かに、吸い上げは、止まる。だが、天蓋の、膜も、この村の、上から、消える。……そうしたら、北の、魔物が、下りてくる。この村は、無防備に、なる。削られるのは、辛い。だが、魔物に、襲われるのは、もっと、辛い」
アルシアは、剣から、手を、離した。
村長の、言う通りだった。単純に、壊せば、いい問題では、なかった。節点は、村人を、削る、悪い装置だ。だが、それが、天蓋の、防護も、支えている。壊せば、防護も、消える。破壊は、答えでは、なかった。吸い上げを、止めつつ、防護を、保つ。両方を、満たす、別の、仕組みが、要った。
リエッタが、言っていた。壊れたものは、全部が、駄目なわけじゃ、ない。要るのは、鑢一本と、油ひと塗りだったりする、と。
アルシアは、リエッタから、送られてきた、複製部品を、荷から、出した。手紙と、一緒に、届いた、小さな、転律器の、部品。リエッタが、王都の、下町で、試作していた、あの、変換器の。日常の、動力から、魔力を、作る、仕組み。
「この村に、水車は」アルシアは、尋ねた。「手回しの、発電具は、あるか」
*
村には、共同の、水車小屋が、あった。
粉を、挽くための、水車。それに、古い、手回しの、発電具が、いくつか。かつて、灯を、灯すのに、使っていた、道具。天蓋が、来てから、使われなく、なっていた。天蓋が、灯を、賄うように、なったから。
アルシアは、リエッタの、複製部品を、その、水車と、発電具へ、繋いだ。
局所の、変換器。村の、水車の力。村人の、手回し。それを、転律器で、魔力へ、変える。天蓋の、無断徴収に、頼らない、村だけの、小さな、電源。それが、あれば。節点への、依存を、減らせる。少しずつ。
だが、アルシアは、一つ、気をつけた。
自分が、魔力を、出すのでは、なかった。冷却の、魔法で、あるいは、自分の、魔炉で。それは、簡単だった。守る側として、アルシアが、力を、出せば、村は、少し、楽になる。だが、それでは。アルシアが、いなくなれば、終わる。一人が、抱える、解決だった。父のように。
代わりに、アルシアは、村人に、やり方を、教えた。
水車を、回す、当番。手回しを、担う、当番。それを、村人が、分担する。誰が、いつ、どれだけ、力を、出すか。村人が、自分で、決める。アルシアは、その、仕組みを、支えるだけ。魔力を、出すのは、村人自身。守るのでは、なく。村人が、自分たちで、灯せるように、手伝う。
*
数日後。村の、共同小屋に、小さな、灯環が、灯った。
村人が、水車を、回し、手回しを、担い、転律器が、魔力を、作る。それを、集めて、村の、灯を、灯す。天蓋の、節点からの、吸い上げを、その分、減らす。完全には、天蓋を、切り離せない。防護は、まだ、要る。だが、削られる量は、確かに、減った。村人の、顔に、少し、生気が、戻った。
そして、村人は、一つ、独特の、やり方を、していた。
小さな、木の、札。それを、水車や、手回しの、当番が、身につける。今、自分が、どれだけ、力を、出しているか、を、示す札。そして――疲れたら。もう、無理だと、思ったら。その札を、自分の手で、外す。外せば、その人の、分担は、止まる。誰にも、咎められずに。
夕方、水車の、水が、細り、回転が、止まった。
当番を、終えた、村人が、水車小屋を、出てくる。その、一人一人が、自分の、札を、外していった。今日の、分担を、終えた、という、しるしに。自分の手で。誰かに、命じられて、では、なく。もう、いい、と、自分で、決めて。
札を、外した人の、分の、灯は、消えた。だが、まだ、当番が、続いている人の、分の、灯は、残った。必要な、分だけ。
アルシアは、その、光景を、見ていた。
これだ、と思った。天蓋紬は、離脱が、できない。一度、繋がれば、疲れても、抜けられない。弱い者から、倒れるまで、吸われる。だが、この村の、灯は、違った。自分の手で、札を、外せる。疲れたら、抜けられる。それでも、灯は、必要な分だけ、残る。誰も、倒れるまで、削られない。
強制ではなく。選択で、灯す。それが、灯環の、原型だった。灰の村の、水車小屋で。村人の、手の中に、あった。
第七章 双子の選択
王宮の、評議室で、セヴランは、静かに、迫った。
「安定値は、限界に、近づいています」セヴランは、居並ぶ、評議員へ、言った。灰銀の髪の、隙のない、姿で。「北の、魔素嵐が、例年より、早い。天蓋を、強化しなければ、王都でさえ、危うい。強化には、双星脈が、要る。……王太女ユリアナ殿下に、星環織機の、固定鍵と、なっていただく。それが、いちばん、確実で、早い」
評議室が、静まった。
固定鍵。ユリアナが、星環織機に、繋がれ、生涯、位相調整者として、王都を、支える。天蓋紬の、中心に。自由を、失って。国を、守るために。セヴランは、それを、王太女の、責務として、提示した。
ユリアナが、口を、開いた。
「……国を、守る、責任は」ユリアナの声は、硬かった。「私に、あります。もし、私が、鍵に、なれば、多くの、人が、守られるなら」
受け入れかけている、とリエッタは、感じた。
ユリアナの、誤信念。王冠を、持つ者が、全ての、代償を、引き受け、全てを、決めるべき。その、責任感で。姉は、自分を、差し出そうと、していた。国のために。父代わりの、セヴランの、言葉に、押されて。
*
リエッタは、一歩、前へ、出た。
昔の、二人なら。ここで、こう、言ったかもしれない。「私が、代わります」と。姉の、代わりに。双子の、片方として。ユリアナを、自由にするために、自分が、鍵に、なる、と。身代わりを、申し出て。それは、優しさに、見えて。
だが、リエッタは、それを、言わなかった。
自己犠牲の、交換。姉が、差し出されるのを、止めるために、自分が、差し出される。それは、この、姉妹が、繰り返しては、いけない、ことだった。アルシアと、リエッタが、命紬の、解除を巡って、やりかけた、あの、間違い。相手のために、自分を、消す。それを、姉妹で、繰り返しては、ならない。
代わりに、リエッタは、ユリアナに、尋ねた。
「ユリアナさん」リエッタは、言った。皆の、前で。「一つだけ、聞かせてください。……あなたは、鍵に、なりたいですか」
ユリアナが、リエッタを、見た。
「責任が、ある、じゃ、なくて」リエッタは、続けた。「あなた、自身が。星環織機に、生涯、繋がれて。自由を、失って。国の、鍵に、なることを。望んでいますか。それとも――嫌ですか」
評議室が、ざわめいた。王太女に、望むか、嫌か、を、問う。責務では、なく、本人の、気持ちを。そんなことを、尋ねる者は、いなかった。皆、ユリアナが、責任として、受け入れることを、当然と、思っていた。
*
ユリアナは、長いあいだ、黙っていた。
それから、掠れた声で、言った。
「……嫌です」
小さな、声だった。だが、評議室の、全員に、届いた。
「嫌です」ユリアナは、もう一度、言った。今度は、はっきりと。敬語が、消えていた。怒っても、声量を、上げない、ユリアナの、いちばん、素の声だった。「私は、鍵に、なりたくない。生涯、装置に、繋がれて、自由を、失うのは、嫌。……ずっと、責任だと、思ってきた。王冠を、持つ者が、全部を、引き受けるべきだと。母が、亡くなって、私が、一人で、国を、背負うのだと。でも」
ユリアナは、リエッタを、見た。
「妹に、望むか、と、聞かれて。初めて、気づきました。私は、望んで、いない。国は、私、一人の、身体じゃ、ない。私が、鍵に、なって、私の、自由を、失えば、国が、救われる。そんな、仕組みが、間違って、いるんです」
ユリアナは、評議員たちへ、向き直った。
「私は、天蓋紬の、固定鍵に、なることを、拒否します」ユリアナは、宣言した。「代わりに、代替案の、審議を、要求します。リエッタが――魔道具師の、リエッタが、進めている、灯環。天蓋に、頼らず、住民が、選んで、力を、分ける、仕組み。それを、正式に、審議してください。一人が、犠牲になる、道ではなく」
*
リエッタは、姉の、その姿を、見ていた。
ユリアナは、リエッタの、身代わりに、差し出されなかった。リエッタも、姉の、身代わりを、申し出なかった。二人は、互いに、自分を、消すのでは、なく。「嫌だ」と、言う、権利を、守った。灰丘村の、村人が、疲れたら、自分の手で、札を、外すように。ユリアナも、自分の、意思で、「否」を、言った。
姉妹は、似た顔で、違う手を、持ち。似た運命を、背負わされて。だが、互いを、身代わりには、しなかった。片方が、犠牲になれば、片方が、助かる。そんな、天秤に、乗らなかった。二人とも、鍵には、ならない。二人とも、自由を、選ぶ。そして、誰も、犠牲にしない、別の、道を、探す。
評議は、紛糾した。セヴランは、表情を、変えなかった。だが、その日、採決は、まとまらなかった。天蓋紬への、固定鍵を、支持する札と、代替案の、審議を、求める札。評議員たちが、それぞれ、札を、投じた。
採決の、卓の上に、札が、積まれた。
多くは、まだ、セヴランの、案を、支持していた。安定への、恐れから。だが、その、積まれた札の、いちばん上に。
ユリアナの、「否」の札が、一枚。
表を、向いたまま、残っていた。王太女の、否。固定鍵を、拒む、意思。他の、多くの、札に、埋もれることなく。その、一枚だけが、卓の上で、はっきりと、「否」の面を、上に、向けて。
リエッタは、その、一枚の札を、見ていた。まだ、多数では、なかった。灯環は、まだ、審議も、始まっていない。だが、姉が、初めて、公に、「嫌だ」と、言った。その、一枚の「否」が。他の、どの札より、重く、卓の上に、残っていた。
第八章 父の遺言
リエッタが、修道院跡へ、着いたのは、約束より、一日、遅れてだった。
アルシアは、閉じた石門の前で、待っていた。北の、山の、冷たい風の中で。リエッタと、サラ、そして、ユリアナが、付けた、少数の、護衛が、南の道から、現れたとき。アルシアは、まず、リエッタの、姿を、目で、確かめた。
痩せて、いないか。試作機の、装具は、動いているか。無事か。
命紬なら、遠くからでも、届いた。だが、今は、目で、見るしか、ない。リエッタが、近づいてくる。少し、疲れた顔で。けれど、笑って。胸の、装具が、外套の下で、小さく、回っているのが、分かった。生きて、いる。ここまで、来た。
「遅れて、ごめん」リエッタが、言った。「装具の、調整に、手間取って」
「無事か」アルシアは、それだけ、聞いた。
「うん。アルシアは? 魔脈の、傷」
「動く」
リエッタの、胸の、装具は、旅のあいだ、危うかったに、違いない、とアルシアは、見て取った。王都の、精密な、設備から、これだけ、離れて、北の果てまで。サラが、携えてきた、持ち運びの、調整具で、どうにか、保たせてきたのだろう。それでも、装具の、回転は、微かに、乱れていた。長く、王都の、設備を、離れれば、この機は、不安定になる。リエッタの、一日の、遅れは、その、調整に、費やした、時間だった。
短い、やり取りだった。抱擁も、口づけも、しなかった。それは、まだ、先だった。今は、まず、無事を、確かめる。それから、封印へ。二人は、再会を、静かに、脇へ、置いた。父の、遺したものが、この、石門の、先に、あった。
*
石門は、三つの、鍵で、閉じていた。
一つは、転律珠。アルシアが、荷から、出した。二つは、アルバスの、杖。父が、突いてきた、あの杖。三つは、リエッタの、双星位相。門の、窪みへ、転律珠を、嵌め、杖を、差し、リエッタが、手を、当てる。双星脈が、門の、古代の、回路と、共鳴する。
重い、石門が、軋みながら、開いた。
その先に、地下観測室が、あった。円い、部屋。星路を、直接、観測できる、古代の、施設。父が、宮廷を、離れたあと、隠れて、研究していた場所。壁に、器械が、並び、机に、記録が、山積みに、なっていた。父の、五年間の、隠された、仕事の、全部が。
リエッタと、サラが、記録を、調べ始めた。アルシアは、机の、いちばん奥の、革の、綴じ込みを、手に、取った。父の、字。最後の、研究記録だった。
その、隣に、二つの、書面が、あった。
一つは、王妃エレノアの、原命令書。リエッタを、アルバスへ、託す、正式な、命令。裁判記録から、抜かれていた、あの、証拠。父が、誘拐犯では、なく、王妃の、依頼を、受けた者だと、証明する、原本。父は、それを、ここに、隠して、守っていた。自分の、無実を、証明する、証拠を。
もう一つは。
*
セヴランの、命令書だった。
宮廷魔導院長、セヴランの、印。日付は、新暦三百十三年。断脈獣の、派遣命令。「逃亡した、第二子の、生存を、確認し、回収せよ。手段は、問わない。追跡用、断脈獣を、投入する」
アルシアの、手が、震えた。
五年前。あの、森の夜。リエッタの、砕けた魔炉。父の、死。それが――この、命令書の、結果だった。セヴランが、リエッタを、回収するために、放った、断脈獣。それが、暴走し、リエッタの、命を、奪いかけ、父を、殺した。星環塔で、セヴランは、口で、認めた。だが、今、その、物証が、ここに、あった。彼の、印の、押された、命令書として。
「証明された」アルシアは、掠れた声で、言った。「五年前は、偶然じゃ、ない。セヴランの、回収作戦だった。……この、命令書が、証拠だ。口だけじゃ、ない。物として、残ってる」
リエッタも、その命令書を、見た。顔が、青ざめた。だが、リエッタは、それを、証拠の、束へ、加えた。オルフェンの、抜かれた索引。王都の、黒塗り。偽の手紙の、封蝋の欠け。そして、この、断脈獣の、命令書。セヴランの、企ての、全体が、証拠として、繋がっていく。
*
父の、最後の、研究記録を、アルシアは、開いた。
そこには、命紬の、緊急使用について、書かれていた。父の、字で。震える、墨で。
「あの夜、リエッタの、魔炉が、砕けた。数分で、死ぬ状態だった。私は、宮廷式の、命紬を――返し環も、同意確認も、削られた、危険な、強制術を、改変して、使うしか、なかった。時間が、なかった。返し環は、作れなかった。第三点も、装置を、用意する、暇が、なかった」
「だから、私は、第三点を、自分の、生命で、代用した。反動を、引き受けた。……娘たちを、生かすために。それが、唯一の、道だった。だが」
アルシアは、その先を、読んだ。父の、遺言を。
「だが、これは、正しい、術では、ない。私は、娘たちの、同意を、取らずに、二人を、結んだ。二人を、長く、縛った。私が、決めて、しまった。二人の、代わりに。……救うとは、代わりに、決めることでは、ない。それを、私は、緊急の中で、忘れた。すまない。この、片結びを、いつか、二人が、自分の、意思で、解けるように。返し環と、独立した、第三点の、作り方を、ここに、残す」
そして、父は、書いていた。灯環の、第三要件を。
「第三点は、人命では、なく、独立した、装置で、なければ、ならない。そして、その装置は、参加する、一人一人が、繋がることと、離れることを、自分で、選べる、公開された、手続きを、備えねば、ならない。同意を、確認し、負荷を、監視する、仕組みを。……力を、分け合う、術は、誰かを、道具にしては、ならない。皆が、選んで、参加し、いつでも、抜けられる、ものでなければ」
*
アルシアは、その、遺言を、読み終えて、しばらく、動けなかった。
父の、死は。リエッタの、負傷のせいでは、なかった。アルシアが、守れなかったせいでも。父が、自分で、選んだのだ。緊急の中で、第三点を、自分の命で、代用すると。それは、父の、選択だった。娘たちを、生かすための。そして、父は、それが、正しい術ではないと、知っていた。謝っていた。代わりに、決めてしまったことを。
リエッタも、その、記録を、読んでいた。目に、涙が、溜まっていた。
昔の、二人なら。ここで、言い合った。「あなたの、せいじゃ、ない」と。リエッタは、アルシアへ。アルシアは、リエッタへ。互いの、罪悪感を、打ち消そうとして。だが、二人は、それを、しなかった。
罪悪感は、消えなかった。父は、死んだ。その、喪失は、残る。だが、二人が、誤解していた、責任の、宛先は、変わった。リエッタの、負傷でも、アルシアの、失敗でも、なかった。父の、選択と、セヴランの、命令。それが、原因だった。二人は、自分を、責めるのを、やめた。無傷には、ならない。ただ、責任の、誤認を、やめた。
「……葬式を、しよう」リエッタが、掠れた声で、言った。「父さんの。ちゃんとした、お墓は、リュネにある。でも、ここで。二人で。父さんの、遺言を、読んだ、ここで」
*
その夜、二人は、観測室に、小さな、灯を、一つ、点した。
父の、灯だった。特別な、儀式では、なかった。ただ、蝋燭を、一本、灯して、その、灯を、一晩、守る。二人で、交代で。番をする。父が、五年間、二人の、繋がりの、第三点を、その命で、守ったように。今夜は、二人が、父の、灯を、守る。
灯の、そばで、リエッタが、言った。「リュネの、家に、三つ目の、椅子が、あるでしょ。父さんの。……ずっと、そのままに、してた。座る人が、いないのに。片づけられなくて」
「ああ」アルシアも、言った。「あの椅子を、見るたびに、父を、思い出した。悼むためでも、あった。片づけないことが」
「今夜、この灯が」リエッタは、灯を、見た。「あの椅子の、代わりみたい。父さんの、いた場所。……朝に、なったら、消そう。ちゃんと、送るために。いつまでも、灯し続けるんじゃ、なくて」
二人は、夜通し、その灯を、守った。父の、遺言を、抱いて。悲しみを、長い言葉には、しなかった。ただ、灯の、そばに、いた。父を、聖人でも、罪人でもなく、一人の、不完全な、父として。娘たちを、愛し、間違え、謝り、そして、正しい道を、後に、残した、一人の人として。悼んだ。
*
夜明けが、観測室の、天窓から、差してきた。
灯の、蝋燭は、もう、短くなっていた。リエッタと、アルシアは、その、最後の、灯を、見た。
「送ろう」リエッタが、言った。
二人は、一緒に、その灯を、見つめた。それから、蝋燭の、炎を、そっと、消した。息で。二人の、息で。
灯が、消えた。
観測室が、夜明けの、薄明かりだけに、なった。だが、何も、起きなかった。灯が、消えても。誰も、死ななかった。リエッタも、アルシアも、生きていた。命紬の、ように、片方の、灯が、消えれば、片方が、死ぬ、ということは、なかった。
父の、灯は、消えた。どちらの、命も、奪わずに。
五年間、父の、生命が、二人を、繋ぐ、灯だった。その灯が、消えれば、二人は、死ぬはずだった。だが、命紬は、もう、ない。解けた。今夜、灯した、この、父の灯は、ただの、蝋燭の、火だった。消えても、誰の、命も、連れて、いかない。父を、送る、灯。安全に、消せる、灯。
二人の、間で、守っていた、小さな灯が、夜明けに、どちらの、命も、奪わずに、消えた。
サラが、その朝、記録の、複写を、終えた。王妃の命令書。セヴランの、断脈獣命令。父の、最終遺言。天蓋紬を、公開告発できる、証拠の、一式。それを、抱えて、二人は、観測室を、後にした。父の、灯の、消えた、部屋を。悲しみは、残っていた。だが、責任の、誤認は、朝の光に、消えていた。
第九章 帰ると決めた日
証拠は、王都へ、届けなければ、ならなかった。
父の、遺言。王妃の、原命令書。セヴランの、断脈獣命令。サラが、複写した、証拠の、一式。それを、ユリアナへ、届け、評議会で、天蓋紬を、公開告発する。それが、次の、一手だった。だが、届ける、経路は、一つでは、危なかった。宮廷が、手紙を、検閲したように、証拠も、握り潰されかねない。
「経路を、分ける」リエッタは、地図を、広げて、言った。「複写を、いくつも、作って。別々の、道で、別々の、人が、運ぶ。オルフェンへ、一つ。ギルドへ、一つ。灰丘へ、一つ。王都の、ユリアナさんへ、一つ。……一つが、潰されても、他が、届くように」
「それには」アルシアが、言った。「私たちも、別々に、動いたほうが、いい。私は、北の、ギルド網を、通って、証拠を、散らす。お前は、王都へ、戻って、灯環の、審議を、進める」
リエッタは、その、合理性を、認めた。
別々に、動くほうが、証拠は、確実に、届く。リエッタは、王都の、設備で、試作機を、保たねばならないし、灯環の、審議も、進めたい。アルシアは、北の、ギルド網に、伝手がある。役割を、分けたほうが、いい。頭では、分かっていた。
*
だが、別れる前に、リエッタは、一つ、作りたいものが、あった。
「通信具を、作る」リエッタは、言った。「転律珠の、小片を、使って。短距離だけど、離れてても、簡単な、合図を、送れる、道具。……手紙が、検閲されても、これなら」
リエッタは、修道院の、一室で、二つの、小さな、指輪を、組んだ。転律珠の、かけら――エルドラの、遺物の、ほんの、一片ずつを、芯にして。二つの指輪は、対に、なっていて、片方を、叩けば、もう片方が、かすかに、震える。短距離の、共鳴。無事、危険、合流、といった、簡単な、合図を、送れる。
「これは」リエッタは、指輪を、アルシアへ、見せた。「命紬とは、違うよ。全然」
大事なことだった。だから、リエッタは、はっきりと、言った。
「命紬は、生命を、結んでた。片方が、死ねば、片方も、死んだ。距離で、流れが、細って。外せなかった。……でも、これは、違う。ただの、通信具。生命も、魔力も、結ばない。合図を、送るだけ。そして」
リエッタは、指輪を、指から、外して、見せた。
「外せる。いつでも。外せば、切れる。合図も、来ない。……縛らないの。着けるか、外すかは、自分で、選ぶ。命紬みたいに、勝手に、繋がれて、抜けられない、んじゃ、なくて」
アルシアは、その、指輪を、受け取った。指に、嵌めて、外して、また、嵌めた。確かに、外せた。命紬とは、違う。生命を、結ばない。着けるも、外すも、自分の、意思で。
*
二人は、次に、会う、場所と、期限を、決めた。
「王都で」リエッタは、地図を、指した。「証拠が、届いて、審議が、始まる頃。十二月の、初め。……王都の、南の、街区で、落ち合おう。もし、それまでに、何か、あったら、指輪で、合図する」
「わかった」アルシアは、言った。「十二月、初め。王都、南街区。……それまで、別々だ。だが」
「うん。別れじゃ、ない」リエッタは、言った。「役割を、分けるだけ。計画も、ある。期限も、ある。指輪も、ある。……離れても、愛が、消えるわけじゃ、ない。前に、証明しようとして、まだ、できてない。糸なしで、また、会えるって。今度こそ」
別行動は、愛の、否定では、なかった。計画があり、期限があり、外せる、通信具がある。二人は、それを、具体的な、形で、確かめた。命紬の、糸で、繋がれていた頃は、離れることが、怖かった。糸が、引き伸ばされて、切れそうで。だが、今は。糸は、ない。それでも、計画と、期限と、指輪で、繋がっていられる。糸ではなく、選択で。
*
出発の、朝。
リエッタと、アルシアは、修道院跡の、麓で、別れた。リエッタは、南へ、王都へ。アルシアは、東へ、北のギルド網へ。それぞれ、証拠の、複写を、抱えて。
別れ際、リエッタは、通信指輪を、指から、外した。
「充電が、要るの、これ」リエッタは、言った。「転律珠の、小片は、回転か、熱差で、充電しなきゃ、合図が、送れない。だから、旅の、あいだは、充電箱に、入れておく。歩く、振動で、充電されるように」
リエッタは、外した指輪を、小さな、充電箱へ、入れた。歩くたびに、揺れて、少しずつ、充電される、箱。指輪は、指から、離れた。今、二人を、繋ぐものは、指にも、胸にも、なかった。命紬も、通信指輪も。何も。完全に、離れた。
それでも。
「またね」リエッタは、アルシアに、言った。
指輪を、外して。何も、繋がっていない、状態で。それでも、また、会おう、と。またね、と。糸が、なくても。指輪すら、外していても。リエッタは、アルシアと、また、会うことを、選んだ。繋がっているから、会うのでは、なく。会いたいから、会う。
「ああ」アルシアも、言った。「またな」
二人は、別々の、道へ、歩き出した。指輪は、充電箱の中。二人を、繋ぐものは、今、何も、なかった。それでも、二人は、十二月の、王都南街区で、また、会うと、決めていた。糸ではなく。自分たちの、意思で。またね、と、言って。
第十章 糸のない再会
王都へ、戻ったアルシアが、まず、知ったのは、南郊の、混乱だった。
セヴランが、天蓋の、一部を、また、操作していた。南の、街区の、防護が、弱められ、そこへ、北から、流れてきた、魔物の、群れが、迫っていた。市民が、避難していた。宮廷は、対応に、追われ、南郊の、避難路は、混乱していた。
リエッタは、どこだ。
アルシアは、指輪を、取り出した。だが、充電が、ほとんど、残っていなかった。歩く振動で、少しずつ、充電される、箱に、入れてはいた。だが、その、細い充電では、北からの、長い旅を、賄いきれなかった。王都へ、近づくにつれ、何度か、合図を、送ろうとして、残りを、使いきってしまった。今は、指輪は、沈黙していた。合図は、送れない。命紬も、ない。リエッタの、居場所を、感じる、糸は、もう、どこにも、なかった。
以前なら。命紬の、流れを、辿れば、リエッタの、方角が、分かった。だが、今は。何も、届かない。胸は、静かなままだった。リエッタが、どこにいるか。無事か。全く、分からなかった。
アルシアは、立ち止まって、考えた。
*
感じられないなら。考える。リエッタを。
アルシアは、リエッタを、知っていた。五年、いや、もっと長く、そばにいた。この人が、混乱の中で、どう、動くか。それを、命紬でなく、記憶で、辿った。
リエッタは、避難民の、混乱を、見て、どうするか。逃げるだけの、人では、ない。救援を、待つだけの、人でも。壊れたものを、直す人だ。灯を、灯す人だ。混乱の、原因を、見つけて、そこを、直そうとする。避難路が、詰まっているなら――避難路を、直しに、行く。
「水路だ」アルシアは、呟いた。
南郊の、地下には、古い、導水路が、走っていた。かつての、避難路。だが、水門が、閉じて、使えなくなっていた。もし、あの、水門を、開けば。地下の、導水路を、通って、市民を、安全に、逃がせる。リエッタなら、それを、思いつく。そして、実行する。自分の、手で。
アルシアは、王都の、水路図を、思い出した。リエッタが、下町で、写していた、あの図。南郊の、古い水門の、位置。リエッタの、作業の、癖――いちばん、効果のある、一点を、見つけて、そこへ、まっすぐ、向かう癖。
命紬では、なかった。偶然でも。アルシアは、リエッタを、知っていることで、リエッタの、行き先を、推定した。あの人なら、南郊の、古い水門へ、行く。避難路を、直しに。
アルシアは、走り出した。南郊の、古い水門へ。
*
古い水門は、地下への、階段の、底に、あった。
アルシアが、駆け下りると、そこに、リエッタが、いた。
一人で。重い、水門の、開閉装置に、取りついて。錆びた、歯車を、工具で、動かそうと、していた。胸の、装具が、乱れた音を、立てていた。自律魔炉が、不調を、起こしている。それでも、リエッタは、手を、止めなかった。歯車を、噛み合わせ、水門を、少しずつ、開けていた。地下の、導水路へ。避難民を、通すために。
「リエッタ」
アルシアが、呼んだ。
リエッタが、振り返った。驚いた顔。それから――泣きそうな、顔に、なった。
「アルシア……」リエッタは、掠れた声で、言った。「どうして、ここが。指輪、切れてたのに。命紬も、ないのに。……どうして、私が、ここにいるって」
「お前を、知ってるからだ」アルシアは、言った。「混乱を、見たら、お前は、直しに、行く。救援を、待たない。水路図を、覚えてた。お前の、癖も。……だから、ここだと、思った。糸じゃ、ない。お前を、知ってるから、来た」
リエッタの、目から、涙が、こぼれた。
命紬では、なかった。糸で、手繰り寄せられたのでも。偶然、行き会ったのでも。アルシアは、リエッタを、知っていることで、ここへ、来た。離れていても。糸が、なくても。相手を、知り、相手を、思い、相手の、行き先を、考えて。会いに、来た。自分の、意思で。
*
「先に、水門」リエッタが、涙を、拭って、言った。「避難民が、待ってる」
「ああ」
二人は、一緒に、水門の、装置に、取りついた。リエッタが、歯車の、噛み合わせを、読み、アルシアが、力を、加える。魔脈の、傷で、大規模な、魔法は、使えない。だが、腕の力は、ある。リエッタの、指示で、アルシアが、錆びた、歯車を、回す。
水門が、開いた。
地下の、導水路へ、道が、通った。上の、混乱から、避難してきた、市民が、その、地下の道を、通って、安全な、北の、街区へ、抜けていく。リエッタが、開いた、避難路を。待つだけでは、なく、自分の手で、開いた道を。
避難が、済むまで、二人は、水門を、支えた。並んで。リエッタの、装具が、時々、乱れた。アルシアが、その、揺らぎを、見て、リエッタの、腕を、支えた。無理をするな、と。だが、止めは、しなかった。一緒に、支えた。
最後の、避難民が、地下の道へ、消えた。
*
水門の、そばで、二人は、ようやく、向かい合った。
冬の、地下は、冷たかった。二人の、吐く息が、白く、なった。リエッタの、頬に、涙の、跡が、残っていた。アルシアも、たぶん、似た顔を、していた。糸のない、再会だった。指輪も、切れていた。命紬も、ない。それでも、二人は、また、会った。
「約束、覚えてる?」リエッタが、言った。「解除したあと。糸が、なくなったあと。もう一度、選んでって。糸のない、アルシアが、糸のない、私を」
「覚えてる」アルシアは、言った。
「選び直してくれた?」
「今、ここに、来た」アルシアは、言った。「糸じゃ、なく。お前を、知ってるから。会いたかったから。……それが、答えだ」
二人は、どちらからでも、なく、近づいた。
冬の、水門の、そばで。白い、息を、交わしながら。唇が、触れた。糸のない、口づけだった。命紬が、あった頃の、救命の、口づけとも。星環織機の、告白の、口づけとも。違った。今度は、繋がりが、何も、ない、状態で。ただ、二人が、選んで、近づいた、口づけだった。
離れると、二人は、白い息を、吐いた。
かつて、二人の間には、淡金の、線が、あった。命紬の、糸。触れれば、それが、光った。だが、今、二人の、胸の、間には。
何の、光も、なかった。
淡金の、線も。糸も。繋がりを、示す、光は、どこにも、なかった。ただ、二人の、吐く、白い息だけが、冬の、冷気の中で、重なっていた。二人の、あいだに、あるのは、もう、魔法の、糸では、なかった。同じ、寒さの中で、同じように、吐く、息の、白さ。それだけが、二人の、間で、重なっていた。
運命では、なく。意志で。糸では、なく。選択で。二人は、互いへ、戻った。胸の間に、光は、なかった。息の、白さだけが、重なっていた。
第十一章 偽りの天蓋
証拠は、もう、消せなかった。
サラの、複写した、証拠の一式――王妃の命令書、セヴランの断脈獣命令、アルバスの最終遺言。それが、別々の経路で、各地へ、届いていた。オルフェンの、大書庫へ。冒険者ギルドの、各支部へ。灰丘村へ。検閲の、手が、及ぶ前に。一か所を、握り潰しても、他が、残る。宮廷が、いくら、記録を、黒塗りにしても。抜き取っても。もう、複写が、街から街へ、渡っていた。
「これで、証拠は、生きた」リエッタは、王都の、地下工房で、言った。「セヴランが、五年前、何をしたか。天蓋紬が、何をしてるか。父さんが、何を、遺したか。……消せない」
だが、外的な、証拠が、揃っても。まだ、技術的な、謎が、一つ、残っていた。
自律魔炉の、逆位相停止。試作機は、星路の、位相が、逆に、傾くと、止まる。K11の、欠点。リエッタは、それを、初期型の、設計上の、限界だと、思っていた。だが、サラが、遠隔で、解析を、続けて、別のことを、突き止めた。
*
「あれは、欠陥じゃ、ないわ」サラの声が、共鳴札から、届いた。「あなたの、設計の、問題じゃ、ない。……星路に、優先信号が、仕込まれてる。宮廷が、後から、埋め込んだもの」
「優先信号?」
「星環織機は、位相を、調整する装置でしょう」サラは、続けた。「その、星路の、流れに、特定の、逆位相の、信号を、流すと、天蓋紬に、繋がってない、独立した、変換系は――つまり、あなたの、自律魔炉は、優先度が、低いと、判定されて、停止させられる。宮廷が、そう、設計してる。天蓋紬に、従わない、独立系を、いつでも、止められるように」
リエッタの、背筋が、冷えた。
自律魔炉は、リエッタの、生命を、維持している。命紬の、代わりに。もし、セヴランが、星路へ、逆位相の、優先信号を、流せば。リエッタの、魔炉は、止まる。リエッタは、死ぬ。セヴランは、その、スイッチを、握っていた。星環織機の、中枢制御を、持って、退いたのだから。
命紬の、代わりに、得た、自由。だが、その自由は、まだ、セヴランの、手の中に、あった。逆位相の、信号、一つで、断てる、自由。それが、次の、代償だった。
「対策は」リエッタは、尋ねた。
「星路の、優先信号に、依存しない、循環系を、作るしか、ない」サラは、言った。「でも、それは、初期型じゃ、無理。星環織機の、中央制御を、外して、分散した、循環に、しないと。……つまり、天蓋紬を、灯環へ、置き換えるのと、同じ問題よ。中央の、制御を、失くさなきゃ、ならない」
*
リエッタは、その事実を、最終作戦の、設計へ、繋いだ。
王都の、評議会の、秘密の、会合。ユリアナ、サラ、ガルド、ノエル、そして、アルシア。証拠が、揃い、灯環の、原型が、灰丘で、動いた。次は、王都全体で、天蓋紬を、灯環へ、置き換える。それが、最終の、作戦だった。
「壊すだけじゃ、駄目なんだ」リエッタは、皆に、言った。「セヴランの、中枢制御を、壊せば、天蓋紬は、止まる。でも、同時に、天蓋の、防護も、消える。王都が、魔物と、魔素嵐に、無防備に、なる。灰丘村で、節点を、壊せなかったのと、同じ。……だから、壊すんじゃ、なくて、置き換える。天蓋の、防護は、保ったまま。中央の、強制徴収だけを、灯環の、分散した、同意の、仕組みへ」
破壊では、なく。置換。敵の、制御を、壊すだけでは、人々の、生活が、守れない。防護を、保ちながら、強制を、選択へ、変える。それが、勝ち筋だった。難しい、勝ち筋。だが、それしか、なかった。
「私の、自律魔炉も」リエッタは、言った。「同じ。星路の、優先信号に、止められる、今の型じゃ、駄目。中央制御を、外して、分散した、循環に、しないと。……私の、命も、灯環と、同じ、仕組みで、支えることに、なる。中央に、頼らない、循環で」
*
会合が、終わり、皆が、去ったあと。リエッタは、地下工房で、一人、試作機の、調整を、続けていた。
深夜だった。疲れが、溜まっていた。糸のない再会から、休みなく、作戦を、練り、証拠を、配り、設計を、進めてきた。リエッタの、身体は、限界に、近かった。自律魔炉の、装具が、時々、乱れた音を、立てていた。
そして。
装具の、回転が、止まった。
ふつり、と。胸の、装具が、止まる。魔力の、供給が、途切れる。リエッタの、視界が、暗くなった。逆位相の、信号か。あるいは、ただの、過労で、初期型が、限界を、超えたのか。分からない。ただ、身体から、力が、抜けた。リエッタは、作業台に、崩れかけた。
再起動の、レバー。試作機には、手動の、再起動レバーが、付いていた。止まった、装具を、もう一度、回すための。それに、手を、伸ばせば。だが、力が、入らない。指が、届かない。
そのとき、アルシアが、いた。
工房の、隅で、リエッタの、作業を、見守っていた、アルシアが。崩れかけた、リエッタを、後ろから、支えた。倒れないように。だが。
アルシアは、レバーを、押さなかった。
*
以前の、アルシアなら。すぐに、レバーへ、手を、伸ばした。リエッタの、代わりに。押して、魔炉を、再起動させて。守るために。リエッタが、何もしなくても、いいように。
だが、アルシアは、しなかった。
アルシアは、崩れる、リエッタの、身体を、支えた。倒れないように、腕で。だが、レバーには、触れなかった。代わりに、リエッタの、手が、レバーへ、届くように。リエッタ自身が、再起動できるように。支えて、待った。
「アルシア……」リエッタは、掠れた声で、言った。「押して、くれても」
「支える」アルシアは、言った。「お前が、届くまで。……お前の、魔炉だ。お前が、再起動する。私は、お前が、倒れないように、支えるだけ。代わりには、押さない」
リエッタは、その言葉を、聞いた。
アルシアは、リエッタを、支えていた。だが、代わりに、決めなかった。代わりに、押さなかった。リエッタが、自分の手で、自分の、命を、再起動できるように。倒れないように、支えながら。待っていた。守るのでは、なく。支える。リエッタの、選択と、手を、奪わずに。
リエッタは、アルシアに、支えられて、体勢を、立て直した。震える指を、レバーへ、伸ばす。アルシアの、腕が、その背を、支えている。押さずに。待って。
リエッタの、指が、レバーに、届く――その、手前で。アルシアは、ただ、支えて、待っていた。
第十二章 灯を分ける人々
灯環の、最初の、実証は、王都の、南街区で、行われた。
灰丘村で、動いた、小さな、灯環。それを、王都の、一街区で、試す。リエッタが、設計し、下町の、職人たちが、組んだ、転律器の、網。足踏み、水車、排熱――日常の、動力から、少しずつ、魔力を、作り、街区の、灯へ、送る。天蓋の、無断徴収に、頼らずに。
アルシアは、その、準備を、支えた。
いちばん、大事だったのは、同意札だった。参加する、人が、身につける、木の札。今、自分が、どれだけ、力を、出しているか。そして、疲れたら、自分の手で、外せる。灰丘村で、村人が、していた、あのやり方。それを、街区の、全戸へ、広げる。
アルシアと、ノエルは、一軒ずつ、回った。
「これは、命令じゃ、ありません」ノエルが、住民へ、説明した。率直に。「参加するかどうかは、あなたが、決めます。参加しない、自由も、あります。参加しても、疲れたら、この札を、外せば、いつでも、抜けられる。天蓋紬のように、勝手に、繋がれて、抜けられない、のとは、違います」
参加しない、自由も、保障する。それが、灯環の、根本だった。強制では、なく、選択。だが。
*
最初は、参加者が、少なかった。
住民は、警戒した。当然だった。天蓋紬で、無断で、力を、吸われてきた、人々だ。また、力を、出せと、言われて、素直に、頷けるはずが、なかった。「どうせ、また、吸われるんだろう」「疲れたら外せる、なんて、口だけだ」。参加札を、受け取らない、家が、多かった。
参加者が、少なければ、灯環は、街区の、天蓋負荷を、賄えなかった。南街区の、灯は、まばらにしか、点かなかった。実証は、失敗しかけた。
だが。
灰丘村から、便りが、届いた。あの村で、灯環が、動いて、住民の、健康が、戻り始めた、という、実績。オルフェンの、サラが、技術的な、裏付けを、公開した。そして、ガルドが、動いた。冒険者ギルドの、網を、通じて。各地の、ギルドへ、灯環の、実績を、伝え、参加を、呼びかけた。
「助けに行くのと、二人まとめて遭難するのは、別だ」ガルドは、南街区の、広場で、住民へ、呼びかけた。「準備は、愛情の、反対じゃ、ない。参加は、強制じゃ、ない。だが、隣の、街区が、灯を、分け合ってるのを、見て。自分も、分けたいと、思ったなら。札を、取ればいい。嫌なら、取らなくていい。それが、この灯の、決まりだ」
少しずつ。本当に、少しずつ。参加札を、取る家が、増えた。
*
南街区の、灯が、増えていった。
一軒が、足踏み機を、回し。一軒が、水車を。一軒が、排熱を。それぞれの、日常の、動力から、少しずつ、魔力を、持ち寄って。街区の、灯を、灯す。天蓋に、頼らずに。誰も、倒れるまで、削られずに。疲れたら、札を、外して。
アルシアは、その、光景を、見ていた。
これは、理想論では、なかった。実際に、動いていた。人々が、自発的に、力を、分け合っていた。強制されずに。選んで。灰丘村の、水車小屋の、小さな灯が。今、王都の、一街区に、広がっていた。灯環は、絵空事では、なかった。
一人の、子どもが、足踏み機を、踏んでいた。
小さな、女の子だった。参加札を、身につけて。親の、手伝いで、機械を、踏んでいた。しばらくして、その子は、疲れたのだろう。踏むのを、やめた。そして、自分の、小さな手で、参加札を、外した。誰にも、咎められずに。「つかれた」と、言って。
その子の、分の、灯は、消えた。だが、他の、灯は、残った。誰も、その子を、責めなかった。疲れたら、外していい。子どもでも。それが、この灯の、決まりだった。アルシアは、その、小さな手が、札を、外すのを、見ていた。
離脱できる、ということ。子どもでさえ、自分の意思で、抜けられる、ということ。それが、天蓋紬には、決して、ない、ものだった。
*
だが、その夜。
セヴランが、動いた。
星環塔の、中枢制御を、握った、セヴランが。ついに、全国規模の、天蓋紬を、起動した。王都全体を、王国全土を、強制網の、中へ。評議会の、審議を、待たずに。非常事態を、理由に。
夜空に、白い糸が、張られた。
アルシアは、南街区から、それを、見た。星環塔から、放たれた、無数の、白い糸。それが、王都の、空を、覆っていった。街区から、街区へ。家から、家へ。すべての、市民を、小さな命紬で、結ぶ、網。天蓋紬。強制の、網が、夜空に、張り巡らされていく。人々の、力を、無断で、集めるための、白い糸が。
王都は、セヴランに、掌握された。
灯環は、南街区で、動いていた。だが、それは、一街区だけ。王都全体は、白い糸の、下に、沈んだ。人々が、自発的に、協力できることは、示せた。だが、中央の、星環織機を、セヴランが、握っている限り。その、強制網を、灯環へ、置き換えることは、できない。中央を、押さえなければ。持続しない。勝ち筋は、見えた。だが、危機も、同時に、来た。
*
白い糸の、張られた、夜空の、下で。
南街区の、灯だけが、消えなかった。
天蓋紬の、白い糸は、王都全体を、覆った。だが、南街区の、住民は、灯環の、灯を、消さなかった。足踏み機を、踏み。水車を、回し。排熱を、集めて。自分たちの、手で、灯を、灯し続けた。強制網の、下でも。人の、手で。
その灯は、明滅していた。
一定では、なかった。天蓋紬のような、均一な、白い光では。誰かが、疲れて、札を、外せば、その分、暗くなる。別の誰かが、札を、取れば、また、明るくなる。人の、手の、加減で。増えたり、減ったり。生きている、光だった。人が、選んで、分け合う、光。
夜空の、白い糸の、下で。南街区の、灯だけが、人の手で、明滅を、続けていた。
アルシアは、リエッタの、隣に、立って、その灯を、見ていた。均一な、白い強制網と。明滅する、人の手の、灯と。二つの、光の、対比を。最終巻の、戦いが、この、対比を、王都全体へ、広げられるか、どうかに、かかっていた。強制の、白い糸を。人の手の、明滅する灯へ。
南街区の、小さな灯が、白い糸の、下で、消えずに、瞬いていた。
第一章 奪われた王都
王都は、白い糸の、下に、あった。
セヴランが、天蓋紬を、起動してから、四日。星環塔から、放たれた、無数の、白い糸が、王都全体を、覆っていた。すべての、街区、すべての、家を、小さな命紬で、結ぶ、強制の、網。市民は、日ごとに、力を、吸われ、疲れていた。ユリアナは、宮廷に、拘束された。表向きは、保護。実際は、軟禁。
リエッタたちは、南街区の、地下工房に、拠点を、移していた。灯環の、動く、唯一の、街区。その、地下に。
「まず、確認する」リエッタは、集まった、仲間たちへ、言った。ガルド、サラ(遠隔)、ノエル、そして、アルシア。「私たちが、できることと、できないこと。それを、はっきり、させる」
*
「一つ。セヴランの、情報封鎖は、失敗してる」リエッタは、地図に、印を、付けた。
「父さんの、証拠――王妃の命令書、断脈獣の派遣命令、父の遺言。それが、もう、オルフェンにも、ギルドにも、灰丘にも、届いてる。セヴランが、王都を、封鎖しても、外の都市は、真実を、知ってる。だから、時間は、私たちの、味方。セヴランは、いつまでも、隠しきれない」
「二つ」リエッタは、続けた。声が、少し、低くなった。「でも、天蓋紬を、今すぐ、壊すのは、駄目」
仲間たちが、こちらを、見た。
「壊せば、確かに、強制徴収は、止まる」リエッタは、言った。「でも、同時に、天蓋の、防護も、消える。今、北から、魔素嵐が、近づいてる。魔物も、増えてる。天蓋を、壊した瞬間、王都は、無防備に、なる。何万人が、嵐と、魔物に、晒される。……灰丘村で、節点を、壊せなかったのと、同じ。壊すだけじゃ、人が、死ぬ」
破壊は、答えでは、なかった。強制網を、壊せば、強制は、止まる。だが、防護も、消える。それでは、セヴランを、倒しても、市民を、救えない。
「だから」リエッタは、言った。「逃げるでも、戦うでも、ない。……置き換える」
*
「置き換える?」ガルドが、訊いた。
「天蓋の、防護は、保ったまま」リエッタは、言った。「強制徴収の、仕組みだけを、灯環に、変える。市民が、選んで、力を、分ける、同意の、網に。南街区で、実証した、あれを。王都全体へ、広げる。……セヴランの、中央制御を、壊すんじゃ、なくて。その、役割を、灯環に、肩代わりさせる。防護を、切らさずに」
難しかった。天蓋を、一瞬も、止めずに、その中身を、強制から、選択へ、入れ替える。走っている、機械の、心臓を、動かしたまま、交換するような。だが、それしか、なかった。
「一つ、決めておく」リエッタは、仲間たちの、顔を、見回した。「初めに」
リエッタは、両手を、卓に、置いた。本当のことを、言うときの、構えで。
「誰か、一人が、犠牲になる案は、なし。最初から、除外する」
仲間たちが、静まった。
「たとえば」リエッタは、言った。「私と、ユリアナさんが、星環織機の、鍵に、なれば。双子の、位相で、天蓋を、支えれば。たぶん、いちばん、早い。でも――それは、セヴランと、同じ。誰か一人を、道具にして、皆を、守る。それは、やらない。私も、ユリアナさんも、鍵には、ならない。アルシアが、一人で、危険を、引き受けるのも、なし。誰も、犠牲に、しない。それが、この作戦の、いちばん、大事な、決まり」
*
アルシアが、静かに、頷いた。
かつての、アルシアなら。ここで、言った。私が、一人で、やる、と。危険な、部分は、全部、引き受ける、と。守るために。だが、今の、アルシアは、そうしなかった。リエッタの、その、決まりに、頷いた。誰も、犠牲にしない。自分も、含めて。
「難しいぞ」ガルドが、腕を、組んだ。「誰も、犠牲にせず。防護も、切らさず。強制網を、置き換える。……そんな、都合のいい、勝ち筋が、あるのか」
「ある」リエッタは、言った。「灰丘村と、南街区で、動いた。人が、選んで、力を、分ければ。天蓋を、支えられる。……足りないのは、規模。もっと、多くの、街区が、参加すれば。王都全体を、賄える。だから」
リエッタは、地下工房の、壁に、大きな、作戦図を、広げた。王都の、地図。六つの、主要な、街区。それぞれに、灯環の、中継所を、置く。六つの、灯。それを、繋いで、王都全体の、天蓋を、支える。
リエッタは、その、六つの、街区の、場所へ、灯の、印を、描いた。一つ。二つ。三つ。六つ。六つの、灯が、地図の、上に、灯った。
だが、地図の、中央――星環塔の、位置は。
空白の、ままだった。
リエッタは、そこに、何も、描かなかった。かつての、天蓋紬なら。そこに、双子の、鍵が、置かれた。星環織機の、燃料として。中央に、誰かを、据えて。だが、リエッタの、作戦図の、中央は、空白だった。誰も、置かない。鍵に、しない。犠牲にしない。中央は、空けたまま。六つの、街区の、灯だけで、支える。
六つの、灯と、中央の、空白。
それが、リエッタの、描いた、勝ち筋だった。誰か一人を、中央に、据えて、支える、網では、なく。六つの、街区の、人々が、分け合って、支える、網。中央の、空白は、失敗では、なかった。そこに、誰も、犠牲を、置かない、という、意思だった。
リエッタは、その、作戦図を、見つめた。六つの、灯を、どうやって、灯すか。中央の、空白を、どう、支えるか。まだ、答えは、全部は、揃っていない。だが、始点は、決まった。誰も、道具にしない。その一点から。
第二章 六つの灯
六つの、街区に、灯を、灯すには、六つの、街区の、人々が、要った。
アルシアは、そのための、連絡を、担った。かつての、アルシアなら、考えられないことだった。人混みが、苦手で、儀礼が、嫌いで、一人で、危険を、引き受けてきた、冒険者が。今、街区から、街区へ、人を、繋ぎ、協力を、頼んで、回っていた。
「私、一人じゃ、できない」アルシアは、認めた。仲間たちへ。「六つの、街区を、同時に、動かすなんて。……だから、頼む。それぞれの、得意な、場所で」
助けを、求めた。仕事を、手放した。守る側を、降りて。
*
ガルドが、ギルド網を、動かした。
「冒険者ってのは」ガルドは、言った。「各地に、散らばってる。灰丘にも、オルフェンにも、王都の、どの街区にも、うちの、会員がいる。……そいつらを、通じて、灯環の、話を、広める。強制じゃ、ない。やりたいやつが、やる。それが、いちばん、速い」
サラが、オルフェンから、技師を、送った。
灯環の、転律器を、各街区に、組むには、技術者が、要った。サラの、書庫都市の、仲間たち。彼らが、遠隔で、そして、一部は、王都へ、忍び込んで。各街区に、変換器を、据えた。「動いたことと、安全に、動くことは、別」サラは、何度も、念を、押した。「六つの街区、全部、安全に、動かすのよ」
灰丘村が、手回しの、発電具を、送った。
あの、村で、灯環の、原型が、動いた。村人たちは、自分たちの、経験を、王都へ、届けた。手回しの、器具。使い方。そして――「疲れたら、札を、外していい」という、決まりごと。灰丘の、村長が、代表で、王都へ、来た。「俺たちの、村で、動いたんだ。王都でも、動く。信じろ」
王都下町の、職人たちが、節点図を、描いた。
リエッタが、下町で、築いた、信頼。その、職人たちが。王都の、地下に、走る、天蓋の、節点の、位置を、細かく、図に、した。どこに、灯環の、中継所を、置けば、天蓋の、防護を、切らさずに、強制徴収だけを、肩代わりできるか。その、設計図を。
*
参加を、募るとき、アルシアたちは、一つの、原則を、守った。
「これは、危険です」ノエルが、各街区で、率直に、説明した。「灯環に、参加すれば、セヴランに、目を、つけられる。強制網に、逆らう、ことになる。……それを、承知の上で、参加するか、決めてください。参加しない、自由も、あります。そして、参加しても、いつでも、抜けられる。この、同意札を、外せば」
危険と、離脱条件を、隠さなかった。強制で、参加させなかった。それは、時間が、かかった。効率は、悪かった。セヴランなら、命令一つで、街区を、動かせる。だが、アルシアたちは、しなかった。一人ずつ、説明し、一人ずつ、選ばせた。
拒否した、街区も、あった。
「巻き込まれたく、ない」「セヴランに、逆らって、報復されるのは、御免だ」。そう言って、参加を、断る、街区。アルシアたちは、それを、責めなかった。代わりに、その街区を、迂回する、代替経路を、用意した。参加しない、街区も、天蓋の、防護からは、外さない。ただ、灯環の、負担は、求めない。拒否する、自由を、守って。
強制では、なかった。だから、遅かった。だが、確かだった。
*
二月の、初め。共鳴通信室に、六つの、灯を、映す、盤が、設けられた。
各街区の、灯環の、中継所が、動き出すと、盤の上の、対応する、灯が、点く仕組み。六つの、街区が、揃えば、六つの、灯が、灯り、王都全体の、天蓋を、支えられる。アルシアは、その盤を、見つめていた。
一つ目の、灯が、点いた。南街区。最初から、動いていた、街区。
二つ目。下町。リエッタの、信頼した、職人たちの、街区。
三つ目。東街区。ガルドの、ギルド会員が、多い、場所。
四つ目。西街区。灰丘の、村長が、説得した。
五つ目。北街区。サラの、技師が、変換器を、据えた。
五つの、灯が、盤の上で、点った。五つの、街区が、灯環に、参加した。アルシアが、一人で、集めたのでは、なかった。ガルド、サラ、灰丘、下町、ノエル。皆の、力で。連帯で。二人の、私的な、愛から、始まったものが。今、社会へ、広がっていた。
だが。
六つ目の、灯だけが、暗いまま、残っていた。
中央街区。星環塔に、いちばん近い、街区。セヴランの、監視が、いちばん、厳しい場所。そこの、住民は、まだ、参加を、決めかねていた。恐れて。あるいは、監視されて。動けずに。六つ目の、灯は、点かなかった。
五つの、灯と、一つの、闇。
アルシアは、その、盤を、見ていた。あと、一つ。六つ目が、点けば、王都全体の、天蓋を、支えられる。だが、その、最後の、一つが、いちばん、遠かった。星環塔の、膝元。セヴランの、影の、下。
六つ目の、灯は、暗いまま、盤の隅で、沈黙していた。
第三章 王冠を拒む王女
ユリアナは、王宮の、いちばん奥の、部屋に、拘束されていた。
保護、という名の、軟禁。ノエルが、宮廷に、残した、伝手を、通じて、リエッタは、地下の、通信路から、ユリアナと、繋がった。共鳴の、細い、通信。声だけが、届く。だが、それでも、リエッタは、姉の、様子を、知ることが、できた。
「セヴラン院長が」ユリアナの声は、疲れていたが、折れては、いなかった。「毎日、来ます。……王冠を、受け入れろ、と。正式に、女王に、即位して。そして、星環織機の、単独鍵に、なれ、と。私が、鍵に、なれば、市民、一人一人からの、徴収は、減らせる、と。中心が、一人、耐えれば、多数が、楽になる、と」
リエッタの、胸が、締まった。
セヴランの、論理だった。誰か一人を、道具にして、皆を、守る。今度は、その、一人に、ユリアナを、据えようとしている。王冠と、引き換えに。そして、それは――ユリアナ自身の、古い、誤信念とも、噛み合っていた。王冠を、持つ者が、全ての、代償を、引き受けるべき。
「受けるの?」リエッタは、尋ねた。責める、口調では、なく。姉の、答えを、聞くために。
*
短い、沈黙が、あった。
「昔の、私なら」ユリアナは、言った。「受けていました。……それが、王の、務めだと。母が、亡くなって、私が、一人で、国を、背負うのだと。私一人が、犠牲になって、皆が、救われるなら、安いと。そう、思っていました。ずっと」
「今は?」
「今は」ユリアナの声が、はっきりと、した。「拒否します」
リエッタは、その、声を、聞いた。
「あなたが、教えてくれた」ユリアナは、続けた。「評議会で。望むか、と、聞かれて。私は、初めて、気づいた。私は、鍵に、なりたくない。……そして、灰丘村の、話を、聞いて。南街区の、灯を、見て。分かったんです。国は、私一人の、身体じゃ、ない。私が、犠牲になって、支える、ものじゃ、ない。国は、そこに、住む、一人一人の、身体で、できてる。一人が、全部を、背負う、仕組みが、間違ってる」
ユリアナは、王冠の、意味を、問い直していた。
「王冠は」ユリアナは、言った。「全ての、代償を、引き受ける、印だと、思っていた。唯一の、救済者の、印だと。でも、違う。……女王の、務めは、自分が、犠牲になることじゃ、ない。皆が、選べる、仕組みを、作ること。権力を、抱え込むんじゃ、なくて、分けること。私は、そういう、女王に、なる。もし、なれるなら。単独の、鍵には、ならない」
*
「ユリアナさん」リエッタは、言った。「私、鍵に、なりましょうか、とは、言いません」
ユリアナが、息を、のむのが、通信越しに、分かった。
「昔の、私と、アルシアなら」リエッタは、続けた。「言った。あなたの、代わりに、私が、なる、って。姉を、犠牲に、させないために、妹が、犠牲になる。……でも、それは、身代わりの、競争。誰が、いちばん、自分を、差し出せるか。優しさに、見えて、同じ、間違い。だから、言わない。あなたも、鍵に、ならない。私も、ならない。誰も、ならない。そういう、作戦を、作ってる」
「……ありがとう」ユリアナの声が、掠れた。「身代わりを、申し出ないでくれて。それが、いちばん、嬉しい。私を、対等な、姉として、扱ってくれてる。守るべき、王女でも、犠牲にすべき、駒でもなく」
姉妹は、身代わりを、競わなかった。互いに、自分を、差し出そうと、しなかった。代わりに、それぞれの、役割と、拒否する、権利を、尊重した。ユリアナは、王冠を、拒む。リエッタは、灯環を、作る。二人とも、犠牲にならない、道を、選ぶ。似た顔で。違う手で。重ならずに。同じ、円を。
*
「通信が、切れます」ノエルの声が、割り込んだ。「監視の、巡回が、来ます。殿下、あと、十数える、うちに」
「リエッタ」ユリアナが、急いで、言った。「セヴランが、次に、来たとき。私は、王冠を、突き返します。単独鍵には、ならない、と、はっきり。……その代わり、あなたたちが、灯環を、成功させて。中央に、誰も、置かない、網を。それが、私の、女王としての、最初の、決断です」
「はい」リエッタは、言った。「必ず」
通信が、途切れる、その、直前。
ユリアナは、拘束室で、動いた。声だけの、通信だったが、リエッタには、その、動きが、見える気が、した。ユリアナは、傍らに、置かれていた、王冠を――即位を、迫るために、セヴランが、置いていった、王冠を、手に、取り、そして、床へ、置いた。突き返すように。単独犠牲の、印を。手放して。
代わりに、ユリアナの、手に、残ったのは。
小さな、印章だった。王家の、家紋を、刻んだ、対の、印章。双子のために、作られた、その、片方。母が、遺した。ユリアナが、ずっと、持っていた。妹と、姉妹に、なるための、印。王冠では、なく。その、印章だけを、ユリアナは、手に、残した。
通信が、切れた。
リエッタの、手元にも、その、対の、もう一つが、あった。オルフェンで、ユリアナが、置いていった、印章。触れない距離に、あった、あの一つ。リエッタは、それを、握った。姉が、王冠を、床へ置き、印章だけを、残した。その、選択を、通信の、途切れた先で、感じながら。
第四章 笑顔をやめる日
その日、リエッタの、手から、鑢が、落ちた。
地下工房の、作業台。灯環の、中継器の、最後の、調整を、していた。指が、震えて、細い鑢が、床へ、転がった。拾おうとして、リエッタは、気づいた。手が、うまく、動かない。自律魔炉の、装具が、乱れている。疲れが、限界を、超えていた。六つ目の、灯は、点かない。ユリアナは、拘束されたまま。作戦は、まだ、穴だらけで。全部が、重かった。
いつもなら、ここで、笑った。
落とした鑢を、拾って。「あはは、手が、滑った」とでも、言って。場を、軽くして。自分の、疲れを、隠して。誰にも、心配を、かけないように。明るくしていれば、相手を、困らせない。ずっと、そう、してきた。工房で、旅で、王都で。笑顔で。
リエッタは、口元を、動かそうとした。
だが、声が、出なかった。
*
笑おうとして。いつもの、「あはは」を、言おうとして。喉が、動かなかった。口元が、笑いの、形を、作れなかった。作り笑いすら、できなかった。疲れと、恐れが、限界を、超えて。笑顔という、仮面が、剥がれ落ちた。声も、出ないほど。
リエッタは、床の鑢を、見つめたまま、動けなかった。
怖かった。
作戦が、失敗するのが。六つ目の、灯が、点かないのが。自律魔炉が、逆位相で、止められるのが。ユリアナが、鍵に、されるのが。アルシアが、傷つくのが。全部が、怖かった。そして、その、恐れを、笑顔で、隠せなくなった、今、いちばん、怖かったのは――怖い、と、口にすることだった。弱さを、見せることだった。
アルシアが、作業台の、向かいから、こちらを、見ていた。
リエッタは、俯いた。笑わなきゃ。誤魔化さなきゃ。心配、かけちゃ。……でも、できなかった。声が、出ない。笑えない。
「……アルシア」リエッタは、掠れた声で、言った。「私、笑えない」
*
言ってしまった。
「ずっと、笑ってた。困らせないように。明るくしてれば、迷惑、かけないと、思って。……でも、今、笑えない。声が、出ない。怖くて。作戦が、失敗するのが。みんなが、傷つくのが。……怖いの。すごく。もう、隠せない。ごめん。笑えなくて。ごめん」
弱さを、開示した。笑顔を、保てない、自分を。ずっと、隠してきた、恐れを。アルシアの、前で。助けを、求めるように。
アルシアは、すぐには、何も、言わなかった。
「笑え」とは、言わなかった。「大丈夫」とも。「元気を、出せ」とも。かつての、誰かなら、そう言ったかもしれない。励まして。笑顔を、取り戻させようとして。だが、アルシアは、しなかった。
代わりに、アルシアは、作業台を、回って、リエッタの、そばへ、来た。そして、手を、伸ばしかけて、止めた。
「……触れても、いいか」
アルシアは、聞いた。
リエッタの、肩に、手を、置く前に。抱き寄せる前に。触れる、許可を。かつて、祭りの夜、「掴むか」と、聞いたように。リエッタの、意思を、飛び越えずに。弱っている、リエッタの、自律を、奪わずに。触れて、いいか、と。
リエッタは、頷いた。
アルシアの、手が、リエッタの、肩に、置かれた。そっと。それから、背に、回って、リエッタを、引き寄せた。リエッタは、アルシアの、肩に、額を、預けた。笑わずに。誤魔化さずに。ただ、怖い、と、震えながら。
「怖くて、いい」アルシアが、言った。低い声で。「笑わなくて、いい。……私も、怖い。ずっと。お前と、同じだ」
*
しばらくして、リエッタの、震えが、収まると。
「一つ、聞く」アルシアが、言った。「お前が、怖いのは、作戦の、どこだ。……漠然と、怖いんじゃ、ないだろう。技術者の、お前が、怖いなら。それは、具体的な、危険を、見てるはずだ」
リエッタは、顔を、上げた。
「……六つ目の、灯」リエッタは、言った。「中央街区が、点かなきゃ、天蓋が、賄えない。でも、あそこは、セヴランの、監視が、厳しくて、住民が、動けない。……それと、私の、自律魔炉。逆位相で、止められたら、私が、倒れる。作戦の、途中で。そうしたら、みんなが、私を、助けようとして、計画が、崩れる」
「なら」アルシアは、言った。「その、二つを、計画に、書き込む。六つ目が、点かない前提で、五つで、しのぐ、方法。お前が、途中で、倒れる前提で、お前抜きでも、回る、手順。……怖い、と、言ってくれたから、その二つが、見えた。隠されてたら、対策できなかった」
リエッタは、目を、見開いた。
弱さを、開示したことが。恐れを、口にしたことが。作戦を、現実的に、改善していた。笑顔で、隠していたら。「大丈夫」と、言っていたら。この、二つの、穴は、塞がれないまま、本番を、迎えた。怖い、と、言ったから。助けを、求めたから。計画が、強くなった。
弱さは、迷惑では、なかった。弱さの、開示は、対策の、始まりだった。
*
アルシアは、リエッタを、小さな、食堂へ、連れ出した。地下工房の、隅の、簡素な、食堂。冷めかけた、スープが、あった。
リエッタは、笑わずに、椅子に、座った。
かつて、リエッタは、どんなときも、笑って、食卓に、着いた。明るく。誰も、困らせないように。だが、今日は、笑わなかった。笑えなかった。疲れた、こわばった、顔のまま。スープの、湯気の、向こうに、アルシアが、いた。
「無理に、食べなくて、いい」アルシアが、言った。「無理に、笑わなくて、いい。……今日は、そういう、日だ」
リエッタは、スープを、見た。冷めかけて、湯気が、細くなっていた。それから、テーブルの、向こうの、アルシアの、手を、見た。
リエッタは、その手を、取った。
笑わずに。冷めかけた、スープの、向こうへ、手を、伸ばして。アルシアの、手を、握った。笑顔も、明るい声も、なしに。ただ、怖い、疲れた、笑えない、自分のまま。それでも、アルシアの、手を、取った。
笑うことは、もう、義務では、なかった。
笑いたいときに、笑う。笑えないときは、笑わない。そして、笑えない、その日も、こうして、アルシアの、手を、取れる。誰かの、手を、握るのに、笑顔は、要らなかった。リエッタは、笑わない、自分の、手で、アルシアの、手を、握った。冷めかけた、スープの、湯気が、二人の、繋いだ手の、上で、細く、揺れていた。
第五章 笑わない魔女の約束
作戦案の、中に、一つ、危険な、案が、あった。
星環織機の、中枢で、天蓋紬を、灯環へ、置き換える、その瞬間。制御が、切り替わる、一瞬、天蓋の、防護が、揺らぐ。その、揺らぎを、誰かが、中枢に、残って、手動で、支える必要が、あった。逆位相の、信号を、身体で、受け止めながら。ほぼ、確実に、死ぬ、役割だった。
その、役割の、欄に、アルシアは、自分の、名を、書きかけていた。
*
昨夜のことだった。武具室で、装備を、確かめながら。アルシアは、作戦案を、見ていた。中枢に、残る、その、役割。自分なら、できる。魔脈は、傷ついているが、防護の、揺らぎを、一瞬、支えるくらいなら。冷却と、防護の、術で。そして、死ぬ。リエッタを、皆を、守って。
いつもの、アルシアだった。危険を、自分の側へ。守るために。一人で。黙って。それが、愛情だと、思っていた。自分が、傷つき、自分が、死ぬことで、相手を、守る。それを、アルシアは、五年、いや、もっと長く、繰り返してきた。
だが、今朝。アルシアは、その、書きかけた、名を、見た。
そして、消した。
*
朝の、作戦会議。アルシアは、全員の、前で、言った。
「一つ、削除する。案を」
アルシアは、作戦図の、その欄を、指した。中枢に、一人、残って、防護を、支え、死ぬ、役割。
「私が、ここに、名を、書こうとしていた。……昨夜。誰かが、残らなきゃ、切り替えの、一瞬を、支えられない。なら、私が。魔脈は、傷ついてるが、一瞬なら。そして、死ぬ。リエッタと、皆を、守って。……それが、いちばん、確実だと、思った」
仲間たちが、静まった。リエッタが、こちらを、見た。
「でも、削除する」アルシアは、続けた。「理由を、説明する。……これは、セヴランと、同じだ。誰か一人が、犠牲になって、皆を、守る。リエッタが、初めに、除外した、あの案。私が、その一人に、なろうとしていた。守るために。でも、それは」
アルシアは、言葉を、選んだ。言いにくいことを、言うときの、癖で、袖口の、留め具に、触れた。ひびの、入った、留め具に。
「それは、私の、自己満足だ。私が、死ねば、私は、楽になる。守れた、と、思って。でも、残された、リエッタは。皆は。……私の、死を、背負う。父が、そうしたように。父が、命で、私たちを、繋いで、逝ったように。その、繰り返しだ。私は、父の、間違いを、繰り返そうと、していた」
*
「だから」アルシアは、言った。「別の、方法を、探す。誰も、中枢に、残って、死なない、方法を。切り替えの、一瞬を、装置で、支える、方法を。……時間が、かかっても。難しくても。誰か一人が、死ぬ案は、採らない。私も、含めて」
自己犠牲を、愛情の、証明に、しない。アルシアは、それを、公に、選んだ。全員の、前で。自分が、死ぬことで、守る、という、いちばん、簡単で、いちばん、身についた、やり方を。手放した。
「リエッタ」アルシアは、リエッタに、向き直った。
「約束する。……お前を、守る。それは、変わらない。だが、お前の、代わりに、決めない。お前が、危険を、引き受けるのを、勝手に、止めない。そして、皆の、代わりにも、決めない。私一人が、犠牲になって、全部を、背負う、なんてことは、しない。……守る。だが、代わりには、決めない。それが、私の、約束だ」
リエッタの、目が、潤んだ。
かつての、アルシアなら。言えなかった、言葉だった。守る、とだけ、言って。代わりに、決めて。一人で、背負って。だが、今、アルシアは、言った。守る。だが、代わりに、決めない。並んで、選ぶ。それが、アルシアの、たどり着いた、愛情の、形だった。沈黙でも、自己犠牲でも、ない。
*
そのとき。
アルシアの、口元が、わずかに、動いた。
約束を、言い終えて。肩の、力が、抜けた。安心すると、肩が、下がる、あの癖。そして、その、安堵が、口元へ、届いた。ほんの、少し。笑みの、形に。
アルシアは、めったに、笑わない。笑えない、と、人は、言った。無愛想な、女だと。実際、アルシアは、五年、いや、もっと長く、笑った、記憶が、なかった。父を、守れなかった。リエッタを、傷つけた。その、罪悪感で、笑うことを、自分に、禁じてきた。笑わない、魔女。そう、呼ばれても、否定しなかった。
だが、今。単独犠牲の、案を、消して。守るが、代わりに、決めない、と、約束して。その、肩の、下がった、瞬間。アルシアの、口元に、小さな、笑みが、浮かんだ。
勝利の、笑みでは、なかった。作戦は、まだ、成功していない。六つ目の、灯は、暗いまま。だが、それでも。自己犠牲を、手放して。並んで、選ぶと、決めて。アルシアの、内側の、いちばん奥で、五年、凍っていた、何かが、少しだけ、緩んだ。その、安心が、笑みに、なった。
リエッタが、それに、気づいた。
「アルシア」リエッタが、小さく、言った。「今、笑った」
アルシアは、自分の、口元に、触れた。確かに、笑みの、形をしていた。かつてなら、慌てて、打ち消した。笑うなんて、と。だが、今日は。
「……そうだな」アルシアは、否定しなかった。「笑ったかも、しれない」
打ち消さなかった。笑みを。安心の、兆しを。笑わない魔女が、初めて、自分の、小さな笑みを、否定せずに、認めた。
*
作戦案の、その、欄。
アルシアが、名を、書きかけて、消した、単独犠牲の、案。その、消された、線の、上に。
アルシアは、新しく、書いた。「この案は、採らない。誰も、中枢に、残して、死なせない。代替を、設計する」と。そして、その、下に、自分の、名を、書いた。アルシア、と。
リエッタが、ペンを、取った。同じ、欄に。アルシアの、名の、隣へ。リエッタ、と、書いた。
削除された、単独犠牲の、案の、上に。二人分の、署名が、並んだ。アルシアと、リエッタ。誰も、犠牲にしない、という、約束の、署名。一人が、死ぬ案を、二人で、消して。二人で、署名して。
かつて、王都への、受諾書に、リエッタが、署名し、アルシアが、証人に、名を、書いた。今度は、逆でも、同じでも、なかった。二人が、対等に、同じ、欄へ、名を、並べた。誰も、犠牲にしない、と。二人分の、署名が、消された、単独案の、上で、乾いていった。
第六章 星環への潜入
潜入は、二月九日の、夜に、始まった。
戦って、押し入るのでは、なかった。星環塔は、セヴラン派の、近衛で、固められている。力で、破れば、犠牲が、出る。だから、役割を、分けた。それぞれが、得意な、場所で、得意なことを、する。
アルシアは、リエッタと、別々の、班に、なった。
リエッタは、サラの、技師たちと、各街区の、中継所を、繋ぐ班。アルシアは、ノエルたちと、星環塔の、保守路を、開く班。二人は、離れる。潜入のあいだ、別々に、動く。
「……不安だ」アルシアは、リエッタに、認めた。出発の前に。かつてなら、言わなかった、弱音を。「お前と、別班なのが。糸も、ないのに。離れて。……お前が、危ないとき、私は、そばに、いない」
「私も」リエッタは、頷いた。「でも、確認しよう。不安を、消せなくても、備えられる」
二人は、通信指輪の、動作を、確かめた。充電は、満たした。合図の、意味を、決めた。無事。危険。撤退。そして、撤退の、条件を、再確認した。どこまで、危なくなったら、退くか。どちらかが、倒れたら、どうするか。不安を、なくすのでは、なく、不安に、備える。糸のない、二人の、やり方だった。
*
保守路を、開けたのは、ノエルと――ユリアナだった。
ユリアナは、拘束を、解かれていた。ノエルが、宮廷に、残した、伝手と、内応する、近衛たちの、手引きで。王冠を、床へ置いた、あの、王太女が。今、自分の、権限を、使っていた。だが、それは、命令のためでは、なかった。
「王家の、保守路を、開きます」ユリアナは、宣言した。星環塔の、保守路の、封印を、王家の、権限で、解きながら。「これは、命令では、ありません。……セヴラン派の、近衛の、皆さんへ。あなたがたは、院長の、命令で、ここを、守っている。ですが、院長が、王都に、何をしたか、もう、知っているはずです。市民から、力を、奪い、弱い者を、倒し、私を、拘束した。……投降を、勧めます。武器を、置けば、罪は、問いません。これは、脅しでは、なく、機会です」
ユリアナの、権限は、人を、縛るためでは、なく、逃げ道を、開くために、使われた。投降の、機会。それを、示された、近衛の、幾人かが、武器を、下ろした。全員では、なかった。だが、戦わずに、道が、開いた分だけ。犠牲が、減った。
*
北節点へ、近づいたとき、セヴラン派の、術者が、立ちはだかった。
数人。魔法で、保守路を、塞ごうとした。アルシアは、前へ、出た。冷却の、術で、術者たちの、足を、止める。だが。
魔脈の、傷が、悲鳴を、上げた。
大規模な、冷却を、放った、瞬間。アルシアの、右腕に、鋭い、痛みが、走った。片結びを、断った、あの、反動の、傷。それが、大きな、術に、耐えられなかった。袖口の、留め具の、ひびが、音を立てて、割れた。アルシアの、術が、途中で、途切れる。腕が、痺れて、動かなくなった。
かつての、アルシアなら。ここで、無理を、した。痛みを、隠して。もう一度、術を、放とうとして。守るために。一人で。
だが、アルシアは、しなかった。
「ノエル」アルシアは、言った。「代わってくれ。私の、腕は、もう、大きな術は、無理だ。……ここは、任せる」
役割を、渡した。負傷を、認めて。無理を、せず。ノエルが、前へ、出て、術者たちを、抑えた。他の、仲間も、続いた。アルシア一人では、なかった。アルシアが、倒れても、役割が、回るように、班は、組まれていた。アルシアは、それを、信じて、後退した。
守る側を、降りて。仲間に、託して。負傷した、腕を、抱えて。それでも、作戦は、止まらなかった。一人に、依存しない、連帯だったから。
*
北節点に、辿り着いた。
リエッタの、班が、遠隔で――通信指輪の、合図と、共鳴通信で、繋がりながら、北節点に、灯環の、中継器を、繋ぐ、手順を、送ってきた。アルシアは、動かない、右腕の、代わりに、左手で、ノエルと、共に、その、中継器を、節点へ、接続した。
北節点は、天蓋紬の、白い糸を、放つ、装置の、一つだった。市民から、力を、吸い、白い、均一な、光を、送る。強制の、光。
中継器が、繋がると。
節点の、光が、変わり始めた。
白い、冷たい、均一な、光が。ゆっくりと、色を、帯びていく。灯環の、光。市民が、選んで、分けた、力の、光。それは、白では、なかった。人の、手回しの、温もり。水車の、動き。排熱の、暖かさ。それらから、生まれた、光は――暖色だった。橙に、近い、柔らかな、色。均一では、なく、明滅する。生きた、光。
北節点の、白い光が、初めて、暖色に、変わった。
*
アルシアは、割れた、袖口の、留め具を、外した。
もう、使えない。ひびが、割れて、留め具の、役目を、失った。父の、命紬を、断った、あの日の、反動が、残した、傷。それが、今日、大規模な、術で、限界を、迎えた。留め具は、アルシアの、手から、床へ、落ちた。
ノエルが、それを、拾った。
「……大事なもの、ですか」ノエルが、尋ねた。
「傷の、跡だ」アルシアは、言った。「命紬を、断った。その、代償の。……もう、大きな術は、使えない。だが、それでいい。守る役目は、私一人の、ものじゃ、ない。皆で、担う」
ノエルが、その、割れた留め具を、アルシアの、手のひらへ、戻した。その、短い、あいだ。
北節点の、灯が、白から、暖色へ、完全に、変わりきった。
冷たい、強制の、白が。人の、手の、温もりの、暖色へ。六つの、節点の、一つが。灯環へ、置き換わった。割れた、留め具を、握るアルシアの、顔を、その、暖色の、光が、照らしていた。白すぎる、強制の光では、なく。柔らかな、選択の、光が。
第七章 アルバスとセヴラン
星環塔の、中央記録層に、二人の、若い日の、記録が、あった。
潜入の、途中。リエッタは、その、記録層へ、辿り着いた。星環織機の、研究を、記した、古い、書架。そこに、アルバスと、セヴランの、若い頃の、共同研究の、記録が、残っていた。二人が、まだ、道を、分かつ前の。
リエッタは、それを、読んだ。父と、敵の、始まりを。
*
若い、アルバスと、セヴランは、同じ、目標を、持っていた。
「誰も、死なせない」
記録の、最初の、頁に、二人の、字で、そう、書いてあった。魔素嵐。魔物。災害。それらから、人々を、守る。誰も、死なせない、仕組みを、作る。星環織機を、研究したのは、そのためだった。二人とも。同じ、願いから。
セヴランの、過去も、記録に、あった。
若い、セヴランは、魔素嵐で、故郷を、失っていた。家族を。村ごと。嵐が、来たとき、セヴランは、隣の、都市へ、救援を、求めた。だが、その都市は、自分たちの、備蓄を、守るために、協力を、遅らせた。援助が、届いたときには、セヴランの、村は、もう、なかった。家族も。
「人は」若いセヴランは、記録に、書いていた。「自由に、任せれば、必要なときに、助けない。自分の、ものを、守る。善意は、平時の、飾りだ。危機には、間に合わない。……だから、助け合いは、義務にすべきだ。自由な、善意ではなく。魔法で、固定した、義務として」
リエッタは、その、記録を、読んで、胸が、痛んだ。
セヴランは、悪から、始まったのでは、なかった。喪失から、始まった。愛する、人々を、失って。助けが、来なかった、経験から。だから、彼は、確信した。人の、善意は、当てにならない。だから、強制すべきだ、と。彼の、天蓋紬は、その、痛みから、生まれていた。
*
だが、記録は、続いていた。
セヴランは、その、確信から、星環織機に、同意要件を、削ることを、提案した。人々の、同意を、確認していては、間に合わない。だから、同意なく、力を、集める、仕組みを。強制の、網を。
アルバスは、それに、反対した。記録に、二人の、議論が、残っていた。
「同意を、削れば、それは、救済ではなく、支配になる」アルバスは、書いていた。「誰かを、道具にして、皆を、守る。それは、セヴラン、君が、失った、あの日と、同じだ。君の、村を、見捨てた、都市も、自分たちの、都合で、他人を、道具にした。君が、憎んだ、その、やり方を、君自身が、繰り返そうとしている」
だが、アルバスは、セヴランを、止めきれなかった。
議論は、平行線を、辿り、セヴランは、王家の、双子を、鍵にする、天蓋紬の、設計を、進めた。アルバスは、それを、危険だと、知りながら、研究そのものは、続けた。星環織機の、可能性を、信じて。いつか、正しい、使い方が、できると。そして、王妃が、リエッタを、逃がすまで――アルバスは、宮廷に、留まった。強制網の、危険を、知りながら。
「私にも、責任が、ある」アルバスは、最後に、書いていた。「セヴランの、暴走を、早くに、止められなかった。研究を、続けた。危険な、道を、彼と、共に、歩いた。……私は、聖人では、ない。娘たちを、逃がしたのは、贖罪の、一部だ」
*
リエッタは、その、記録を、読み終えて、しばらく、動けなかった。
セヴランは、単純な、悪では、なかった。喪失の、痛みから、間違った、確信に、辿り着いた、人だった。事実を――人の、善意が、間に合わなかった、という事実を、選び取り、そこから、強制こそ、正義だ、という、価値判断へ、歪めた。彼の、痛みは、本物だった。だが、その、答えは、間違っていた。
父も、聖人では、なかった。セヴランの、暴走を、止めきれず、危険な、研究を、続けた。責任が、あった。娘たちに、真実を、告げそびれた。命紬を、無断で、使った。不完全な、父だった。
敵と、父。二人とも。善でも、悪でもなく。人の、選択の、積み重ねだった。理解できた。セヴランの、痛みも。父の、迷いも。
それでも、とリエッタは、思った。
理解しても、強制は、否定する。
セヴランの、痛みは、分かる。人の、善意が、当てにならない、と、恐れる、その気持ちも。だが、だからといって、人を、道具にしていい、ことには、ならない。同意を、削っていい、ことには。灰丘村で、南街区で、リエッタは、見た。人は、強制されなくても、選んで、助け合える。疲れたら、抜けて、また、戻る。セヴランの、確信は、間違っていた。人は、自由でも、助け合える。ただ、そのための、仕組みが、要るだけ。
*
記録の、いちばん、深い頁に、一枚の、設計図が、挟んであった。
若い、アルバスと、セヴランが、二人で、描いた、星環織機の、設計図。まだ、道を、分かつ前の。二人の、字が、同じ図の、上に、並んでいた。誰も、死なせない、という、同じ、願いを、込めて。二人で、一枚の、図を、挟んで。
リエッタは、その、設計図を、手に、取った。
そして、記録層を、出て、星環織機の、中枢へ、向かった。そこでは、今、セヴランの、天蓋紬と、リエッタたちの、灯環が、同じ、装置を巡って、対峙していた。同じ、星環織機。同じ、「誰も死なせない」という、願いから、始まった、二つの、設計。
中枢で、リエッタは、その、若い日の、設計図を、掲げた。セヴランに、見せるように。
セヴランの、目が、その、古い図に、留まった。一瞬、何かが、その、隙のない、顔に、よぎった。若い日の、自分と、アルバスが、同じ願いを、込めた、図。
だが、次の瞬間。
星環織機の、中枢で、その、願いは、二つに、裂けた。天蓋紬の、白い糸と、灯環の、暖色の、灯。同じ、装置の、上で、二つの、設計が、せめぎ合い、中枢の、投影図が――若い二人が、挟んだ、あの、一枚の、設計図が、光の中で、真ん中から、二つに、裂けた。強制の、側と、選択の、側へ。同じ、願いが、辿り着いた、二つの、答えへ。
第八章 誰の命も道具にしない
未明の、星環織機の、中枢で、リエッタは、公開共鳴の、装置の、前に、立った。
星環織機は、星路を通じて、王都全体へ、声を、届けることが、できた。セヴランが、命令を、下すのに、使ってきた、その装置。リエッタは、今、それを、市民へ、語りかけるために、使った。命令のためでは、なく。説明のために。
「王都の、皆さん」リエッタの声が、星路を通じて、六つの、街区へ、届いた。「聞いてください。短く、話します」
セヴランが、中枢の、反対側から、こちらを、見ていた。だが、止めなかった。むしろ、面白がるように。この、娘が、何を、言うか。
「今、王都は、天蓋紬に、覆われています」リエッタは、言った。「皆さんの、力を、無断で、吸い上げる、網です。それに、代わる、仕組みを、私たちは、作りました。灯環。……皆さんに、参加を、お願いします。でも、これは、命令じゃ、ありません。義務でも」
*
リエッタは、隠さなかった。
「参加すれば、皆さんは、少しだけ、力を、出すことになります。足踏み、水車、手回し。日常の、動力から。天蓋紬みたいに、無断で、吸うんじゃ、なくて、皆さんが、自分で、出す分だけ。……そして、危険も、あります。セヴラン院長に、逆らう、ことになる。報復が、あるかもしれない。それも、正直に、言います」
参加量。危険。リエッタは、都合の悪いことも、全部、言った。煽らなかった。安心させる、嘘も、つかなかった。父が、書いていた。同意を、確認する仕組みを。灯環は、それを、備えていなければ、ならない。だから、リエッタは、説明した。事実を。
「そして、いちばん、大事なこと」リエッタは、言った。「いつでも、抜けられます。参加札を、外せば。疲れたら。もう、無理だと、思ったら。子どもでも、老人でも。自分の手で、札を、外せば、その瞬間に、離脱できます。天蓋紬みたいに、勝手に、繋がれて、抜けられない、のとは、違う。……参加するかどうか、いつ抜けるか。全部、皆さんが、決めます」
参加を、義務とは、呼ばなかった。選択と、呼んだ。それが、灯環と、天蓋紬の、違いだった。
*
リエッタの、説明が、終わると、しばらく、何も、起きなかった。
中枢の、計器が、灯環への、参加量を、示していた。市民が、参加札を、取り、力を、出し始めれば、数字が、増える。それが、天蓋の、必要量に、届けば、天蓋紬を、灯環へ、置き換えられる。だが。
数字は、なかなか、増えなかった。
市民は、恐れていた。天蓋紬で、無断で、吸われてきた、人々だ。「また、力を、出せと、言われて、素直に、頷けるか」「セヴランに、逆らって、報復されたら」。当然の、警戒だった。初期の、参加は、必要量に、遠く、届かなかった。中枢の、計器は、赤かった。不足を、示す、赤。天蓋の、防護が、揺らぎ始めた。白い糸が、ちらつく。
「――ご覧の、通りです」セヴランが、言った。穏やかに。勝ち誇るでもなく。「自由では、間に合わない。人は、いざとなれば、自分を、守る。他人のために、力を、出すのを、渋る。……私が、若い頃に、学んだことです。あなたの、灯環は、美しい。だが、遅い。天蓋が、揺らいでいる。このままでは、魔物と、嵐が、来る。私の、強制網なら、今すぐ、確実に、皆を、守れる。……自由と、確実。どちらが、命を、救いますか」
リエッタは、その、問いを、受けた。
セヴランの、言うことには、一理、あった。灯環は、遅い。市民の、選択を、待つ。その間に、天蓋が、揺らぐ。強制網なら、確実で、速い。人の、善意を、待つより。
*
だが、リエッタは、答えた。
「待つのは、受動じゃ、ありません」
セヴランが、眉を、上げた。
「あなたは、待つことを、弱さだと、思ってる」リエッタは、言った。「善意を、待っていては、間に合わない、と。だから、強制する。……でも、待つって、ただ、手をこまねくことじゃ、ない。私たちは、待つあいだに、仕組みを、整えてる。参加札を、配って。離脱を、保障して。危険を、説明して。人が、安心して、選べるように。準備するのは、愛情の、反対じゃ、ない。……人が、選べる、仕組みを、整えて、その選択を、待つ。それは、受動じゃ、なくて、いちばん、能動的な、行為です」
リエッタは、続けた。
「あなたの、村を、見捨てた、都市」リエッタは、言った。セヴランの、過去に、触れて。「あの、都市の、人たちは、助けなかった。でも、それは、助け合う、仕組みが、なかったからかもしれない。誰が、どれだけ、出せばいいか。抜けたいとき、どうするか。何も、決まっていなければ、人は、自分の、備蓄を、守る。……でも、仕組みが、あれば。安心して、少しずつ、出せる、仕組みが、あれば。人は、助け合える。灰丘村が、そうでした。南街区も。強制しなくても」
セヴランは、答えなかった。
*
中枢の、計器は、まだ、赤かった。
参加量は、必要量に、届いていない。天蓋は、揺らいでいる。リエッタの、言葉が、市民に、届いたかどうか。まだ、分からなかった。愛と、社会の、答えが、一致するかどうか。相手を、待ち、市民を、待ち、その選択を、信じることが、報われるかどうか。全部、これから、だった。
だが。
計器の、隅で。同意札の、数を、示す、数字が。
ゆっくりと、増え始めた。
一つ。二つ。三つ。どこかの、街区で、誰かが、参加札を、取った。リエッタの、説明を、聞いて。義務ではなく、選択として。少しずつ。本当に、少しずつ。同意札の、数が、増えていく。まだ、全然、足りなかった。計器は、赤いまま。天蓋は、揺らいだまま。
それでも、同意札の、数だけが、ゆっくりと、増えていった。誰かが、選んでいた。強制されずに。自分の、意思で。中枢の、赤い計器の、下で、その、小さな数字だけが、一つ、また一つ、静かに、増えていくのを、リエッタは、見つめていた。
第九章 ほどくための手
夜明けが、近づいた頃、リエッタの、胸の、装具が、乱れ始めた。
セヴランが、動いたのだ。星路へ、逆位相の、優先信号を、流した。リエッタの、自律魔炉を、止めるために。天蓋紬に、従わない、独立系を、いつでも、止められる、あの、仕込み。中枢の、そばで、公開共鳴を、続けていた、リエッタの、胸の、装具が、ふつり、ふつりと、回転を、乱した。
リエッタの、顔から、血の気が、引いた。膝が、崩れる。アルシアが、駆け寄って、支えた。
「リエッタ!」
装具の、回転が、落ちていく。リエッタの、生命を、維持している、その、装具が。逆位相に、押されて。このままでは、止まる。止まれば、リエッタは、死ぬ。
アルシアの、頭に、一つの、方法が、浮かんだ。
*
命紬を、結び直せば、いい。
アルシアの、魔力を、リエッタへ、送る、糸を。もう一度。今、この場で。中枢には、装置が、揃っている。星環織機の、力を、使えば。片結びを、もう一度、施すことは、できる。そうすれば、リエッタの、生命は、アルシアの、魔力で、維持される。装具が、止まっても。すぐに。確実に。救える。
アルシアの、手が、中枢の、接続線へ、伸びかけた。命紬を、再接続するための、線。それを、リエッタの、胸へ、繋げば。
だが、その手が、止まった。
再接続には――同意確認が、ない。返し環も、ない。今、リエッタは、朦朧としている。同意を、取れない。アルシアが、勝手に、結べば。それは、五年前と、同じだ。父が、意識の、ない、リエッタを、無断で、結んだ、あの、片結びと。返し環も、同意もない、強制の、命紬と。
救うためなら、結び直してよい。
その、誘惑が、アルシアの、腕を、引いた。愛しているなら。死なせたくないなら。結べばいい。同意なんて、あとで。今は、救うことが。父も、そう、思ったはずだ。緊急だから。愛しているから。だから、無断で、結んだ。娘を、生かすために。
アルシアの、指が、接続線に、触れた。
*
そして、アルシアは、手を、引いた。
父の、遺言が、耳に、あった。救うとは、代わりに、決めることではない。父は、緊急の中で、それを、忘れた。無断で、結んだ。娘たちを、五年、縛った。謝った。同じことを、繰り返すな、と、遺した。
アルシアが、今、リエッタを、無断で、結べば。それは、父の、間違いの、反復だった。救うために、相手の、同意を、奪う。愛のために、相手を、縛る。それは――セヴランと、同じだった。多数を、救うために、少数を、道具にする。今、アルシアは、リエッタ一人を、救うために、リエッタの、選択を、道具にしようと、していた。
「駄目だ」アルシアは、自分に、言った。「結ばない」
接続線から、手を、離した。命紬を、再接続する、その線から。誘惑を、退けて。
そして、アルシアは、朦朧とする、リエッタの、顔を、覗き込んだ。
「リエッタ。聞こえるか。……お前の、装具が、止まりかけてる。逆位相で。救う方法が、二つ、ある。選んでくれ。私は、代わりに、決めない」
*
リエッタの、目が、薄く、開いた。
「一つ」アルシアは、言った。早く、だが、正確に。「命紬を、結び直す。私の、魔力を、送る。すぐ、救える。確実に。……でも、同意確認も、返し環もない。五年前と、同じ、強制の、糸だ。またお前を、縛る」
「二つ」アルシアは、続けた。「手動循環。灯環の、仲間の、力を、分散して、お前の、装具へ、送る。逆位相に、負けないように、みんなで、少しずつ、支える。……でも、間に合うか、分からない。今、参加が、足りてない。危ない。でも、お前を、縛らない。お前の、装具は、お前の、速さで、回る」
リエッタは、掠れた息で、聞いていた。それから、震える、唇で、言った。
「……二つ目」
はっきりと。朦朧としながら。だが、迷わずに。
「結び直さないで」リエッタは、言った。「縛らないで。……手動循環。みんなで。私の、装具を、私の、速さで。……間に合わなくても。それでも、いい。私は、私の、命で、生きる。糸じゃ、なくて」
アルシアは、その、答えを、聞いた。
リエッタは、再接続を、拒否した。命紬を。救われるためでも。縛られるより、危険を、選んだ。自分の、命を、自分の、速さで、支えることを。アルシアは、その、選択を、尊重した。代わりに、決めなかった。誘惑を、退けて。リエッタの、答えを、待って。
*
アルシアは、命紬の、接続線を――再接続の、ために、リエッタの胸へ、繋ぎかけていた、受信線を、外した。
その線を、床へ、落とした。
命紬を、結び直す、道具が、床に、転がった。使われずに。二人は、再び、命を、結ばなかった。最後の、危機でも。救うためでも。
代わりに、アルシアは、通信指輪と、共鳴通信で、仲間へ、合図した。手動循環。灯環の、力を、リエッタの、装具へ、分散して、送る。ノエルが、サラが、ガルドが、各街区の、灯環が、応えた。市民の、同意札から、集まった、力の、ごく一部を、リエッタの、装具の、支援へ、回す。強制ではなく。分散した、同意の、力で。
リエッタの、胸の、装具が。
ゆっくりと、回転を、取り戻した。
逆位相に、押されて、落ちていた、回転が。灯環の、分散した、支援を、受けて。少しずつ。自分の、速さで。命紬の、糸で、無理やり、回されるのでは、なく。仲間の、選んだ、力に、支えられて。リエッタの、装具は、リエッタ自身の、リズムで、回り始めた。
床に、落ちた、受信線の、そばで。
リエッタの、胸の、回転音が、自分の、速さで、戻っていった。ことり、ことり、と。命紬の、糸のない、その音が。誰にも、縛られない、その、装具の、音が。夜明け前の、中枢に、静かに、響いた。
第十章 二人で選ぶ魔法
夜明けが、王都の、東の空を、白ませ始めた頃。
同意札の、数は、まだ、必要量に、届いていなかった。中枢の、計器は、赤かった。だが、リエッタは、一つ、気づいていた。増え方が、変わってきた。最初は、一つ、二つと、ためらいがちだった数字が、夜明けが、近づくにつれ、速く、増え始めた。
理由は、離脱の、保障だった。
「抜けられる」という、一言が、効いていた。参加すれば、縛られる、と、市民は、恐れていた。だが、いつでも、札を、外せる、と、知って。安心して、参加する人が、増えた。抜けられるから、入れる。縛られないから、選べる。天蓋紬とは、逆だった。強制は、人を、遠ざけ。選択の、自由は、人を、招いた。
「リエッタ」ユリアナが、中枢の、反対側から、来た。拘束を、解かれた、王太女が。「私も、位相を、合わせます。……でも、供給源には、ならない。あなたも、私も。燃料じゃ、ない」
*
リエッタと、ユリアナは、星環織機の、中央へ、立った。
双子の、双星位相。二つの、違う、位相。それを、合わせる。だが、セヴランの、天蓋紬のように、双子を、燃料として、燃やすためでは、なかった。
「私たちは」リエッタは、言った。「星路の、方向を、調整するだけ。……足踏みや、水車や、排熱から、集まった、市民の、力。それが、星路を、通って、天蓋へ、届く。その、流れの、向きを、私たちが、整える。二つの、位相で。でも、力そのものは、私たちからは、出さない。市民の、力を、正しい方向へ、流すだけ」
双子は、燃料では、なかった。位相調整者。エルドラの、星環織機が、そう、認識したように。市民の、力を、集める、その、向きを、整える、基準点。二人が、いなければ、分散した、力は、まとまらない。だが、二人は、消費されない。ただ、方向を、示すだけ。
リエッタと、ユリアナが、位相を、合わせると。
各街区から、集まった、力が、まとまり始めた。南街区の、灯。下町の、灯。東、西、北。五つの、街区の、灯環の、力。それが、星路を、通って、二人の、調整した、方向へ、流れ、天蓋へ、届いた。市民の、同意札から。転律器から。足踏み、水車、排熱。自然の、動力から。分散した、力が、一つの、天蓋を、支え始めた。
中枢の、計器の、赤が。
少しずつ、退いていった。
*
そして、六つ目の、灯が、点いた。
中央街区。セヴランの、監視が、いちばん厳しかった、街区。その、住民たちが、夜明けとともに、参加札を、取り始めた。他の、五つの、街区の、灯を、見て。安心して、抜けられる、その、仕組みを、見て。最後まで、暗かった、六つ目の、灯が。ついに、点った。
六つの、灯が、揃った。
計器の、赤が、消えた。緑へ、変わった。灯環が、天蓋の、必要量に、届いた。市民の、選んだ、力が、王都全体の、天蓋を、支えられるだけの、量に、達した。
そして、その、瞬間。
疲れた、誰かが、参加札を、外した。どこかの、街区で。夜通し、足踏みを、続けた、誰かが。もう、無理だ、と。札を、外して、離脱した。その分、力が、減った。
だが、天蓋は、揺らがなかった。
一人が、抜けても。網は、維持された。分散していたから。誰か一人に、依存していなかったから。抜けた、その人の、分を、別の、誰かの、力が、補った。あるいは、少し、暗くなって、それでも、防護は、保たれた。天蓋紬なら、中心の、双子が、抜けられず、弱い者から、倒れた。だが、灯環は、違った。疲れた人が、抜けても、網が、維持される。それが、この、仕組みの、核心だった。
リエッタは、その、光景を、見た。離脱できる、網が。離脱を、許すことで、かえって、強い、網が。父の、遺言の、通りだった。皆が、選んで、参加し、いつでも、抜けられる、もの。それが、誰も、道具にしない、力の、形だった。
*
星環織機の、中枢で、天蓋紬の、白い糸が、消えていった。
セヴランの、強制網が、灯環へ、置き換わった。天蓋の、防護は、一瞬も、途切れずに。強制の、徴収だけが、選択の、協力へ。中央の、制御は、止まった。壊されたのでは、なく。役目を、灯環に、譲って。セヴランの、握っていた、中枢制御は、もう、意味を、失っていた。
アルシアは、その、セヴランの、前に、立った。
剣は、抜かなかった。
「終わりだ」アルシアは、言った。「あなたの、天蓋紬は、止まった。灯環が、置き換えた。……あなたを、斬りは、しない」
かつて、アルシアは、この男を、斬りたかった。五年前の、恨みで。父を、殺した、命令書の、主を。だが、斬らなかった。斬れば、思想の、対立は、闇に、消える。セヴランの、間違いは、証明されないまま、殉教者に、なる。だから。
「記録と、証人の、前で」アルシアは、言った。ユリアナが、ノエルが、各地から、集まった、証人たちが、周りに、いた。「あなたの、計画は、暴かれた。五年前の、断脈獣。無断の、徴収。全部、証拠がある。各地に、届いてる。……あなたは、裁判へ、送られる。殺されるんじゃ、なく。裁かれる」
セヴランは、抵抗しなかった。
「……次の、災害で」セヴランは、静かに、言った。拘束されながら。「あなたがたは、後悔する。自由では、いつか、間に合わない。誰も、助けない日が、来る」
「そのときは」リエッタが、答えた。「そのときも、私たちは、選びます。強制されて、じゃ、なくて。あなたの、痛みは、分かる。でも、あなたの、答えは、間違ってた。……人は、仕組みが、あれば、選んで、助け合える。今朝、それを、証明した」
セヴランの、論理は、演説一つで、覆ったのでは、なかった。人々が、自分の、意思で、灯環へ、参加した、その、光景によって、覆された。技術と、選択の、両方で。判断は、社会へ、返された。
*
朝が、王都に、昇った。
アルシアは、星環塔の、高い、窓から、王都を、見下ろした。リエッタも、隣に。ユリアナも。
かつて、この街は、白い光に、覆われていた。天蓋紬の、均一な、強制の、白。あるいは、白すぎる、強制網の、糸。どちらも、同じ明るさで、街を、覆っていた。誰の、身体からも、無断で、吸い上げた、力で。均された、光で。
だが、今、朝の、王都には。
無数の、灯が、残っていた。
同じ明るさでは、なかった。ある街区は、明るく。ある街区は、少し、暗く。ある家は、灯を、点し。ある家は、疲れて、札を、外し、消していた。均一では、なかった。まだらだった。人の、手の、加減で。選択で。増えたり、減ったり。生きている、光だった。
朝の、王都に、同じ明るさでは、ない、無数の、灯が、残っていた。一人一人が、選んで、分け合った、灯が。誰も、道具にせずに、灯した、光が。均一な、白い、強制の光では、なく。まだらで、暖かい、選択の、灯が。朝の、街に、点々と、残っていた。
リエッタと、アルシアは、並んで、その、無数の、灯を、見ていた。二人だけの、強さで、勝ったのでは、なかった。選べる、多数の、協力が、王国を、守った。恋の、答えも。技術の、答えも。政治の、答えも。同じだった。誰も、道具にしない。皆が、選ぶ。その、一つの、答えが。朝の、王都に、無数の、灯となって、灯っていた。
第十一章 命紬のない告白
セヴランの、拘束から、ひと月が、過ぎた。
後始末は、静かに、進んだ。派手な、勝利の、祝典は、なかった。代わりに、たくさんの、書類と、証言と、決定が、あった。ユリアナが、その、中心に、立った。
「女王の、即位を、受けます」ユリアナは、公開の、評議会で、宣言した。「ですが、条件が、あります。天蓋と、接続術の、運用の、権限を、女王一人の、手に、集めません。独立した、監査の、評議へ、移します。……天蓋紬のような、強制網を、二度と、一人の、判断で、起動できないように。女王でも」
権力を、抱え込む、女王では、なかった。分ける、女王だった。王冠を、床へ置いた、あの、ユリアナが。今、その、王冠の、意味を、作り変えていた。唯一の、救済者では、なく。皆が、選べる、仕組みを、守る者へ。
*
アルバスの、裁判記録も、開かれた。
王妃の、原命令書。断脈獣の、派遣命令。父の、最終遺言。証拠が、揃った。アルバスの、有罪判決――王女誘拐、星環機密窃取――は、取り消された。父は、犯罪者では、なかった。王妃の、依頼を、受け、二つの星の、片方を、守った人だった。名誉が、戻った。
だが、リエッタと、アルシアは、一つ、頼んだ。
「父の、無罪は、記録してください」リエッタは、言った。「でも、父が、私たちを、無断で、命紬で、結んだことも。同意なく。返し環もなく。……それも、歴史に、残してください。父を、聖人にしないで。英雄神話に、しないで。父は、娘たちを、救うために、間違った、術を、使った。それも、含めて、父です」
父を、無謬の、英雄には、しなかった。救った、その手が、同時に、二人を、縛った。その、両方を、記録に、残した。アルバスは、聖人でも、罪人でも、なく。娘を、愛し、間違え、謝り、正しい道を、遺した、一人の、不完全な、親として。歴史に、刻まれた。
そして、リエッタは、公開の場で、もう一つ、宣言した。
「私は、王位を、望みません」リエッタは、言った。放棄する、のではなく。望まない、意思を。「王家の血は、事実です。でも、私は、リュネの、魔道具師です。王位は、姉が――ユリアナ女王が、担います。私は、技術者として、灯環の、保守と、改良に、関わります。王女としてでは、なく。……それが、私の、選ぶ、居場所です」
*
すべての、後始末が、一段落した、三月。二人は、リュネへ、帰る、途中の、王宮の、中庭に、いた。
朝だった。中庭の、花が、咲き始めていた。リエッタが、懐から、二つの、指輪を、出した。あの、通信指輪。転律珠の、小片で、作った。外せる。生命も、魔力も、結ばない。ただの、通信具。
「これ」リエッタは、言った。「伴侶の、指輪に、しない?」
アルシアは、その、指輪を、見た。
「命紬とは、逆だよ」リエッタは、言った。「命紬は、生命を、結んで、外せなかった。距離で、縛って。……でも、これは、外せる。いつでも。生命も、結ばない。着けるか、外すかは、自分で、選ぶ。……縛らない、指輪。選んで、着ける、指輪。私たちの、伴侶の、証に、これが、いい」
アルシアは、頷いた。それから、一つ、確かめた。
「命紬は」アルシアは、言った。「もう、ないな。完全に」
「うん」リエッタは、胸に、手を、当てた。「ない。私の、命は、私の、装具が、支えてる。アルシアの、魔力じゃ、なくて。……糸は、ない」
命紬が、ないことを、確かめた。二人の、生命も、魔力も、距離も、独立していることを。その上で。
*
「約束、覚えてる?」リエッタが、言った。「第三巻の――星環織機で、告白したとき。解除したあと、糸が、なくなったあと、もう一度、選んでって。糸のない、アルシアが、糸のない、私を」
「覚えてる」アルシアは、言った。
「もう、糸は、ない」リエッタは、アルシアを、見た。「だから、言い直す。……アルシア。明日も、その次も、その次も。私の、隣を、選んでほしい。命紬に、繋がれてるから、じゃ、なくて。魔法で、縛られてるから、でも、なくて。あなたが、選んで。私の、隣を」
大げさな、永遠の、誓いでは、なかった。永遠に、愛する、とも。死が、二人を、分かつまで、とも。言わなかった。ただ、明日も、その次も、隣を、選んでほしい、と。一日ずつ、選び直す、伴侶として。
アルシアは、その、言葉を、聞いた。
そして、答えた。
「魔法が、なくても」アルシアは、言った。「私が、いたいから、いる」
それが、答えだった。命紬に、繋がれているから、では、ない。救命の、義務からでも。喪失の、恐怖からでも。ただ、アルシアが、リエッタの、隣に、いたいから。いる。魔法が、なくても。糸が、なくても。自分の、意思で。
リエッタが、アルシアの、指に、指輪を、嵌めた。アルシアも、リエッタの、指に。外せる、指輪。生命を、結ばない、指輪。縛らない、伴侶の、証。二人は、その日、法的にも、社会的にも、伴侶として、登録した。派手な、儀式は、なかった。書類に、二人分の、名を、書いて。同じ卓で。かつて、王都への、受諾書に、署名したように。今度は、伴侶の、登録書に。
*
中庭の、朝の光が、二人の、指輪を、照らした。
アルシアは、自分の、指の、指輪を、見た。転律珠の、小片の、面が、朝の光を、受けて、鈍く、光っていた。その、小さな、面に、アルシアの、顔が、映っていた。
アルシアの、口元が、動いていた。
小さな、笑み。かつて、笑わなかった、魔女の。今、その、口元に、自然な、笑みが、浮かんでいた。作った、笑みでも。義務の、笑みでも、なかった。ただ、伴侶に、なった、その、安心が。リエッタの、隣を、選んだ、その、喜びが。口元へ、届いていた。笑わない、魔女が、否定せずに、笑っていた。
指輪の、面に、その、小さな笑みが、映っていた。
朝の光が、その、指輪の、面で、一度だけ、揺れた。花壇の、花が、風に、揺れて。その風が、朝の光を、わずかに、動かして。アルシアの、笑みを、映した、指輪の、面で。光が、一度、揺れた。
リエッタが、それを、見て、笑った。アルシアも、否定しなかった。二人の、指の、外せる指輪が、朝の光の中で、並んで、光っていた。
第十二章 畳まれた毛布の朝
肩口を押さえる重みが、リエッタを浅い眠りから作業台の上へ引き戻した。
伏せた頬の下で、紙がかすかに鳴った。顔を上げると、細い銀線を引いた設計図に、白い髪が一筋貼りついている。窓から差す朝日は低く、工房の床を斜めに切っていた。
肩には、灰色の毛布が掛かっていた。
昨夜、母屋へ取りに戻った覚えはない。眠るつもりもなかった。診療に来た人の、胸の装具を一つ調整したら休もうと思い、その次は自分の記録が気になって、気づけば朝になっていただけだ。
リエッタは毛布の端を持ち上げた。乾かした薬草に似た匂いが、ごく薄く染みている。母屋の収納箱の匂いだった。
かつて、この毛布に、リエッタは、名前を、つけられなかった。掛けてくれたのは、たぶんアルシア。けれど、命紬で繋がれた相手に倒れられれば、自分の命まで危うくなる。世話を焼くのは義務のうちだ――そう考えれば、胸の奥に引っかかったものへ、名前を付けずに済んだ。
だが、もう、命紬は、ない。
アルシアの魔力は、リエッタへ、流れていない。倒れても、アルシアの命は、危うくならない。だから、この毛布は、義務では、なかった。命紬の、責任でも。ただ、アルシアが、リエッタに、風邪をひかせたくなくて、掛けた。それだけの、毛布だった。
義務では、ない、優しさ。
リエッタは、その毛布を、義務だとは、もう、解釈しなかった。名前を、つけられる。これは、愛情だ、と。糸が、なくても、掛けられた、毛布。リエッタは、それを、畳んだ。角が、ぴたりと、揃った。
*
リュネの工房は、数か月のあいだに、様変わりしていた。
魔道具工房兼、診療所。リエッタと、同じように、魔炉を、損なった人たちが、各地から、訪ねてくる。リエッタは、その人たちのために、小さな、自律の、装具を、作り、調整する。かつて、自分が、命紬に、頼るしかなかった、その、経験から。今は、誰かの、装具を、直せる。
作業台の隅に、記録紙が、あった。失敗を示す斜線は、もう、六つも、七つも、並んでいなかった。代わりに、直した装具の、記録が、几帳面に、綴じてある。
作業台の、上の棚には、白い花の、髪飾りが、置いてあった。アルシアが、王都の庭で、くれた、貝細工の花。かつて、レグナの、店先で、遠ざかっていった、あの花だった。今は、この工房に、ある。診療で、慌ただしい朝は、挿さずに、そこへ、置く。挿す日も、ある。どちらでも、よかった。花は、なくならずに、いつも、そこに、あった。
リエッタは、自分の、自律魔炉も、定期的に、整備を、受けていた。
一人で、無理はしなかった。かつてのように、徹夜で、身体を、削ることは、もう、しない。弟子が、二人、できた。下町から、来た、若い、職人見習い。彼らが、リエッタの、装具の、点検を、手伝う。そして、遠くのオルフェンから、サラが、共鳴通信で、時々、数値を、確認する。「動いたことと、安全に、動くことは、別よ」サラの、口癖は、変わらない。リエッタは、その、厳しさに、今も、守られていた。
一人では、生きない。支えを、分散して。灯環の、思想を、自分の、身体にも。誰かに、頼り、誰かを、頼らせて。
*
母屋の扉が、開いた。
アルシアが、帰ってきた。三日、留守にしていた。今は、宮廷に、属さない、独立の、魔法士だった。危険な、遺物や、強制の術式を、調べて、回る。今回は、東の、村で、古い、封印術を、解いてきたという。
「ただいま」アルシアが、言った。
「おかえり」リエッタは、毛布を、抱えて、母屋へ、続く、三段の石段を、上った。
アルシアは、まず、荷を、下ろし、それから、リエッタへ、報告を、した。どこで、何を、調べたか。危なかったか。魔脈の、傷は、痛まなかったか。無事だけで、済ませずに。全部。かつて、守るために、黙った、その口で、今は、報告を、した。そして、報告を、終えると、「少し、休む」と、言って、椅子に、腰を下ろした。無理を、隠さずに。休息を、先に。
食卓は、四人で囲めば少し窮屈になる大きさだった。
今も、窓側には、三つ目の椅子が、置かれていた。背の高い人が使っていた、座面のわずかに沈んだ椅子。朝日が、背板の傷を、なぞっていた。父の椅子。もう、その不在を、罪悪感で、見なくてよくなっていた。父を、聖人でも、罪人でもなく、悼む。その、穏やかな、不在として、椅子は、そこに、あった。青い縁の杯も、棚に、伏せてある。
*
朝食を、作ったのは、アルシアだった。旅から、帰ったばかりでも。料理は、この人の、実用という名の、優しさだった。二人ぶんの、皿が、向かい合う。湯気が、立った。
リエッタは、椅子に、座った。
疲れた、顔のまま。昨夜、装具の調整で、遅くまで、起きていた。診療所の、仕事も、重なっていた。身体が、重い。そして、その、疲れを、リエッタは、隠さなかった。笑顔で、覆わなかった。
「今日は」リエッタは、言った。「笑えないかも」
かつてのリエッタなら。どんなに疲れていても、笑った。明るくしていれば、相手を、困らせない、と。えへへ、と、声を、漏らして。だが、今日は、言った。笑えないかも、と。笑えない、自分を、隠さずに。
アルシアは、スープを、椀へ、よそいながら、答えた。
「それでいい」
短かった。笑え、とも。元気を出せ、とも。言わなかった。ただ、それでいい、と。笑わなくて、いい、と。リエッタの、皿だけ、鍋の底からすくった豆が、多かった。それは、五年前と、同じだった。けれど、その意味は、もう、義務では、なかった。
リエッタは、豆の多い、スープを、見た。それから、向かいの、アルシアを、見た。
アルシアの、口元が、動いていた。
*
小さな、笑みだった。
リエッタが、笑えない、と言った、その朝に。アルシアの、口元に、笑みが、あった。勝ち誇るでも、からかうでもなく。ただ、リエッタが、笑わない自分を、隠さずに、言えたこと。それを、安心と、受け取った、笑みだった。
「アルシア」リエッタは、言った。「今、笑ってる」
かつて、アルシアは、笑わない魔女だった。父を守れなかった罪悪感で、笑うことを、自分に、禁じていた。笑えない、と、人は、言った。リエッタは、笑顔絶えぬ魔道具師だった。何も求めず、明るくしていれば、誰も困らせないと信じて、笑い続けた。二人とも、笑わないしかなかった、笑うしかなかった。
だが、今。
リエッタは、笑えない朝に、笑わずに、いられた。アルシアは、笑いたい朝に、笑うことが、できた。
「……ああ」アルシアは、否定しなかった。かつてのように、慌てて打ち消したりは、しなかった。「笑ったかもしれない」
笑うことも。笑わないことも。もう、義務では、なかった。笑いたいときに、笑う。笑えないときは、笑わない。そして、どちらの朝も、二人は、同じ食卓に、着ける。笑顔は、要らなかった。隣に、いるのに。
*
リエッタは、湯気の立つ、スープの、向こうへ、手を、伸ばした。
アルシアも、同じ瞬間、手を、伸ばした。
かつて、二人の指は、依頼書の同じ端を、触れずに、押さえ、どちらも先に、手を引いた。糸に、繋がれながら、触れることを、恐れていた。だが、今、二人の手は、湯気の向こうで、触れた。引かずに。糸は、ない。それでも、いや、糸が、ないからこそ、二人の手は、離れなかった。
窓辺に、二つの、杯が、置いてあった。
朝の、茶を、注いだ、二つの杯。青い縁の、父の杯では、ない。二人の、それぞれの杯だった。そこから、二つの、湯気が、立ち上っていた。別々の、杯から。別々の、湯気が。
窓の、隙間から、朝の、風が、入った。
二つの、湯気が、その、同じ風に、触れた。別々の、杯から立った、別々の、湯気が。同じ、一つの、風に、撫でられて。ゆっくりと、ほどけていく。混じり合うのでも、一つに、なるのでもなく。それぞれ、別の、湯気のまま。けれど、同じ風に、同じように、ほどけて。
窓辺で、二つの杯の湯気が、同じ風に、ほどけていった。